アプローチ
桑折凪波は放課後の図書室でノートにペンを走らせている。ノートはキャンパスの分厚いもの。ボールペンは三菱ジェットストリームの0.7mm。最高の書き味。
傍らには何冊もの本が積み上げられている。ハードカバー。ノベルス。文庫。世界文学全集などというものもある。桑折は左側に積み上げた山から本を取ると隅から隅まで目を通しては右側の山に積んでいく。時折頁をめくる手を止め、食い入るように凝視して文を書き写す。そんな作業をひたすら続けていた。
どのような文を写しているのかといえば、
【ぼくはきみの心に棘を刺し入れたくなった】【おまえをまもるのはこの俺だ】【私が『そうじゃない』ってことくらいとっくにわかっていた】【俺は甘いが陛下は青い】【私は殺されることはあっても、負けることはない】【天に躍り地に伏しても嘆いても、誰一人おれの気持を分ってくれる者はない】【どっちでもないよ。ぼくには関係ないから。本当に、ぼくたちには関係ないんだ。あんたたちの問題なんだ】【私は確信したい。人間は恋と革命のためにうまれてきたのだ】【私も……行くわ……深い所に……】【あたしはその掌の上でいいように弄んでもらえたらそれでよかった】【だから私は、いつも夜を心待ちにしていた】【君が、ぼくのことをまっすぐな人間だと感じたのは、君自身がまっすぐな人だからだ】
やや重い文章ばかりがずらっと並んでいる。全て一人称だった。
司書すらいない寂れた図書室で。たった一人で。黙々と。
桑折には友達と呼べる存在はおらず、同級生とまともに挨拶をすることもなかった。いつも俯きがちで、勉強はできないわけではないのだが授業で当てられたときには黙ってしまう。小柄な体をさらに小さく丸めて殻に閉じこもってしまう。
だから桑折は人見知り、ひどいときは根暗女と呼ばれながら中学校生活を送っていた。
キーン、と音がする。金属バットの快音。桑折は手を止め、体を起こして窓から外を見る。校庭。野球部。サッカー部の練習がない日だからかのびのびしているように見えた。
「……ああいうのって、何が楽しいのかな」
ぽつりと呟いた。小声だがはっきりと。
「部活か。誰かと一緒に何かをやるって…………うーん、考えただけで目眩がするなあ」
桑折は苦笑した。教室や他の人間の目があるところでは決して見せない表情だった。
「へえ。桑折ってそんなこと考えてんだな」
左隣から声がして桑折はビクッと振り返る。それが男子だったのを見て「わー!」と声を発して席から立ち上がって窓まで後ずさりする。
「声でか。びっくりさせんなよー」
のんびりした口調で言うのは桑折も知ってる同級生の男子だ。
「じじじ陣内くん? 何であたしに話しかけてるの?」
桑折は声を上擦らせながら言う。
「何で話しかけるって、どうしてそんなこと聞くんだ? 俺たち同級生じゃんか」
「そそそりゃそうだけどでも今まで一回も話したことなんてないのにいきなりどうしたのかなと思って何か理由とかあるんでしょあーそーだあれでしょ何かの罰ゲームできたんでしょきっとそうだそうに決まってるそうじゃなかったら男子があたしに話しかけてくるなんてそんなこと」
「ちょっと落ち着け。息継ぎをしなさいって。ほら深呼吸」
陣内が穏やかに言う。
桑折は言われた通りに深く息を吸って吐いた。
「……ふう」
気持ちを鎮めた桑折は元の席に戻ろうとするが、隣の陣内との距離を目測して対面の席に移動してそちらに腰を下ろした。
対角線に座って緊張げな面持ちの桑折を見て苦笑いをしながら陣内は口を開く。
「理由なんてないよ」
「え?」
「桑折に話しかけたことに理由なんてない。ま、強いて言えばなぜだか知らんが今朝からずっと藍宮に追い回されててな。校内のあちこちを逃げ回っててここに来たってワケだ」
「藍宮くんに……どうして?」
「サッカー部に入ってくれないかってさ。ほら、睦月がいきなり辞めて陸上始めただろ? その穴埋めらしいんだけど、何で俺なのかねえ」
陣内はぼやく。迷惑というより心底不思議がっている顔をしていた。
「んで、物音を立てずにここに入ったら桑折がいるのを見つけて。一心不乱に何かを書いてるから横から覗き込んでみたわけよ」
陣内は桑折のキャンパスノートを取って堂々と目を這わせる。
「ちょっ!」
桑折はカエルのようにぴょんと跳ぶ。ばっとノートを奪い返したものの、びたん。顔からテーブルに落ちた。
「だ……だいじょぶか?」
「う、うん……」
顔を上げた桑折の鼻の頭は真っ赤で、たらりと一筋の血が垂れてきた。
「わっ鼻血!」
陣内は慌てて制服のポケットをまさぐる。
「どこだー、陣内ー!」
廊下から声が聞こえてきた。
「げ、藍宮。もう嗅ぎつけやがった! すまん桑折、俺は逃げる。取りあえずこれを使ってくれ」
未開封のポケットティッシュをぽいと投げて寄越したと思うと陣内は脱兎の如く動き出す。図書室のドアから……ではなく、何と開いてあった窓から飛び出した。
息が止まるほど驚く桑折の目に、窓から二メートルほど離れたところで真っ直ぐ伸びているプラタナスの樹に陣内が飛びついたのが映る。
「そのノートの話、また今度聞かせてくれよなー」
そう言って、陣内はするすると幹を登っていく。下りるのではなく登っていった。
「一体何だったんだろ」
桑折が丸めたティッシュを鼻に詰めていると、
「陣内どこだ! サッカーやろう!」
ばたばたばた。遠ざかる藍宮の声と足音。
「……ほんとに、何だったんだろ」
桑折凪波はもう一度呟き――。
にへらと笑って、ノートをぎゅっと抱き締めた。




