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いよいよ水底へと近付く〈いと小さき者〉は、途上でもう一柱の大いなる者に出くわした。その大いなる者はアクラハザやバルンベと比べると驚くほど小さかった。
「あなた様は?」
(やつがれはキュカラパブロキ。〈沈まぬ一なる舟〉にして、〈変化を見つめる者〉じゃ)
威厳には欠けるが老獪そうな声の主は〈いと小さき者〉三つ分ほどの身の丈しかなく、楕円形の球を短軸に沿って半分に断ったような姿をしていた。断面の中心には黒く輝く硬質の輪が盛り上がっており、それがキュカラパブロキの目であった。輪状の目の中心から蛇腹の触手が一本伸び、その先端に鋭い牙を持った丸い口が具わっていた。
(ほうほう。太陰光を運んできたのか)
キュカラパブロキは先の二柱のような試しの問答は一切求めようとせず、水底について訊ねる〈いと小さき者〉の言葉の全てに首肯した。
(汝が求める場所はもうすぐじゃ、ほれ)
キュカラパブロキが示す先にはアクラハザやバルンベよりも遙かに巨大な二枚貝の殻があった。
「あそこが水底なのですね」
〈いと小さき者〉は心身の疲労を忘れ、喜び勇んで殻の上に下り立った。辺りを見渡してみるが、表面がごつごつとしているばかりで何もなかった。
(こっちじゃ、こっち)
キュカラパブロキは〈いと小さき者〉を貝の縁へといざなった。〈いと小さき者〉が縁から覗き込んでみると、上下の貝殻にはわずかな隙間が開いていた。
(汝が求める御方は、この中におられるぞい)
その隙間は〈いと小さき者〉がようやく通れるほどしか開いていなかった。〈いと小さき者〉はキュカラパブロキに別れを告げ、太陰光のみを連れだって貝の内側に入っていった。
(いいか、最も大きな物を目指すのじゃぞ)
念を押すようなキュカラパブロキの助言を受け、殻の内面に沿って進むと、石でできたアーチの向こうに数え切れないほどの尖塔がそびえ立つのが見えた。どれも目にしたことのない構造物だったが、〈いと小さき者〉はそれが自然に形成された物ではなく、何らかの意図によって作り出された物であることを感じ取った。
「ここに、〈影〉が言っていた最も古き者がいらっしゃるのね」
〈いと小さき者〉はキュカラパブロキに教えられた通り、最も大きな尖塔を見つけ出し、その中へと入ろうとした。巨大な扉を開こうとしたそのとき、か細い声が耳に届き、〈いと小さき者〉は手を止めた。
(……いけない。そこに入ってはいけない)
耳元で警告を繰り返すのは、一粒の小さな泡だった。
「あなたは誰?」
指先ほどの大きさしかない泡は〈いと小さき者〉の問いには答えず、門を開くのを止めたと察するや、ふわふわとどこかへ漂っていった。キュカラパブロキの言葉に漠然とした疑いを抱いていた〈いと小さき者〉は小さな泡の後を追うことにした。
行き先は崩れかけの小さな尖塔だった。小さな泡は壁面の細かな亀裂に入り込んだため、〈いと小さき者〉はその姿を見失ってしまった。慌てて古びた扉を引き開けると、そこには地下に通じる穴がぼっかりと口を開けていた。
(こちらへいらっしゃい)
〈いと小さき者〉は奥から聞こえてくる暖かい声に引き寄せられるように穴に入った。穴の中にも黒き水が満ちていたが、今まで感じたことのないほどの高温を発していた。全身に火傷を負いながら、〈いと小さき者〉はうめき声の一つも上げず、ひたすら奥へと潜り続けた。灼熱の水を越えたところで待っていたのは薄紅色の泡の集合体だった。
(私はディアルレリオ。〈最奥に凝る泡沫〉であり、この黒き水における原初の生命――)
静かだがよく響く声で、泡の集合体は語り出した。
「ということは、あなた様が最も古き者なのですね!」
求めていた者をとうとう捜し当て、〈いと小さき者〉は胸をなで下ろす気持ちになった。
(よくここまで辿り着きましたね。感謝します、勇気ある小さき生命よ)
火傷による痛みに加え、溜まりに溜まった疲労が噴き出そうとするのを必死にこらえながら、〈いと小さき者〉は身に纏っていた太陰光を脱いでディアルレリオに差し出そうとした。太陰光は疲れ果てたその生命を保つものであり、それを手放すことは即ち己の滅びに繋がるということだと〈いと小さき者〉は理解していた。だが、〈いと小さき者〉にとって、〈影〉に託された使命を全うするためには、己の生命などどうというほどのものではなかった。
(その必要はありません)
ディアルレリオはそんな〈いと小さき者〉の悲愴な挙動を押し留めた。
「どうしてそのようなことを仰られるのですか? 〈わたし〉はあなた様にこの青く静やかな光をお届けするために参ったのです」
〈いと小さき者〉は顔を歪ませながら主張した。自分にだけ与えられた役割だと固く信じていた思いを否定されたような気持ちになったのである。
(重々承知していますとも。私はあなたに感謝しておりますし、あなたの献身を無為にするつもりもありません)
ディアルレリオは諭すように語りかけたが、〈いと小さき者〉はまだ戸惑いを拭い切れずにいた。
(よくお聞きなさい。私に必要だったのは太陰光ではないのです。これは〈影〉にも伝えていなかったことですが、その太陰光はこの水底の忌まわしき城への導き手でしかありません)
「では、〈わたし〉は何のために……?」
(落胆することはありません。あなたのお陰で、私の願いはこうして叶えられたのですから)
〈いと小さき者〉は、ディアルレリオの言わんとしていることが一向に掴めなかった。
「一体どういうことなのでしょう。幼く愚かな〈わたし〉には、御心をお察しすることができません」
(私は、他ならぬあなたを待ち続けていたのです)
「〈わたし〉を……?」
呆然とする〈いと小さき者〉の眼前に、ディアルレリオは二粒の泡を吐いた。泡はそれぞれ金色と銀色の光を内包していた。〈いと小さき者〉は金色の光は太陽、銀色は太陰の光によく似ていることに気が付いた。
(私はかつての大地に棲まっていた二頭の獣の亡骸から生まれました)
「それは、異なる光を求めたがゆえにあらゆる光を失ったという……」
〈いと小さき者〉は、〈影〉から聞いた大地の終末に争った最後の二頭の話を思い浮かべた。
(その通りです。光を失い、滅びを迎えた二頭の亡骸はあなたが出会った〈影〉によって諸共に黒き水の底に沈められました。その亡骸が朽ちていく中で生じた泡が集まり、このディアルレリオとなったのです)
息を呑む〈いと小さき者〉に、ディアルレリオは己は黒き水の全ての生命の母だと語る。
(私は生まれ落ちてすぐにこの小さな塔を建て、ここから亡骸の欠片を二つの流れに乗せて数多の生命を生み出しました。深く濃い瀞流には力ある大いなる者を。浅く淡い激流にはか弱いけれども自らの手で新たな生命を生み出すことのできる者を。全ては、いつか再び訪れるこの世界に光が戻る日を迎えるためです)
「だから、このように大きな宮殿をお造りになられたのですか」
(いいえ。私が造ったのは今いる小さな塔のみ。この都、リューレェは私が造り出した物ではありません)
ディアルレリオの塔は突如出現したこの二枚貝に呑まれ、リューレェという都市の一部とされてしまったのだという。
「一体誰がそんなことを?」
(その名はクリルリ。この世界ではない異世界よりの来訪者です)
「それは、〈影〉のように?」
(いいえ。ああは見えても〈影〉はこの世界の者です)
それを聞き、〈いと小さき者〉は安堵した。
(そもそも存在の本質が全く違います。〈影〉は己の〈肉体〉を探すという目的を持っていますが、クリルリには目的はありません。その証拠に、クリルリはこの世界を訪れて私を閉じ込めた後、最も大きな尖塔の中で一度も目覚めることなく深い眠りを貪り続けているのです)
「では、キュカラパブロキ様は……」
〈いと小さき者〉は、輪の目と蛇腹の触手を持つ大いなる者に最も大きな物を目指すように言われたことを告げた。
(キュカラパブロキは、私の生み出した生命でありながら忌まわしくも巨大なクリルリの力に魅せられた愚かな子。きっとあなたを利用して、クリルリを深い眠りから呼び覚まそうと企んでいるのでしょう)
そもそもキュカラパブロキは大いなる者たちを繋げ、まとめ上げる役割を与えられていた。そのための知恵は与えられたが体は小さく、限られた力しか持っていなかった。長い時の間でキュカラパブロキはそれを不満に思うようになり、クリルリの大いなる力に惹かれるようになったのだ、とディアルレリオは語った。
(キュカラパブロキが外にいるとなれば、いっそ大胆に行動してみましょう)
ディアルレリオの口調はこの機会を待ち詫びていたかのような不敵な響きを持っていた。だが、〈いと小さき者〉にはディアルレリオが何を考えているのか皆目検討もつかなかった。
(これから私は全ての力を使い、その二つの生命と共にあなたを再び水面へと戻します)
〈いと小さき者〉が訊ねるより早く、ディアルレリオは寄り集まった全ての泡を激しく震わせ始めた。その振動は小さき尖塔に留まらず、リューレェ全体へと伝わっていった。
「こ、これではクリルリも起こしてしまうのでは?」
慌てふためく〈いと小さき者〉とその手の内にある二つの生命を、ディアルレリオは薄紅色の泡の一つで包み込んだ。
(リューレェはクリルリの目覚めに応じてその殻を開くのです。しかし心配は無用。この程度の刺激でクリルリが完全に目覚めることはありません。おそらく、ちょうどよく私たちが通れるだけの隙間が生まれるはず)
そう言って、〈いと小さき者〉を内包したままディアルレリオは目にも留まらぬ勢いで小さな尖塔から出で、リューレェの出口を目指して直進した。薄紅色の泡の中で〈いと小さき者〉が振り返ると、あれほど静まり返っていた尖塔群が振動に呼応してそれぞれの扉から軍勢がわらわらと現れた。
「あれは……」
黒き軍勢の相貌を一目見て、〈いと小さき者〉は言葉を失った。鱗と鰭と鰓に加え、四肢を持つ異形が群をなし、怒濤のように押し寄せて来たのである。
(あれなるは深き者ども。醜く忌まわしいクリルリの走狗です)
ディアルレリオの言葉を聞き、〈いと小さき者〉は恐ろしさに蒼然とするとともに言い表しようのない不安を覚えた。なぜかといえば、醜く忌まわしいと形容された深き者どもの姿は、〈いと小さき者〉自身に近しいものだったからである。ディアルレリオに〈いと小さき者〉の動揺を気にかける余裕はなかった。薄紅色の泡沫は、四分の一ほど開いた二枚貝の口から脱出し、そのまま深く濃い瀞流を駆け昇った。
それを追う深き者どもの先頭に、怒りに染まったキュカラパブロキが立ち、その左右には番いらしき二頭の一層巨大な深き者が付き従っていた。黒き軍勢の追撃は凄まじく、瀞流の半ばを過ぎるところで泡沫群の最後尾を捉えた。ディアルレリオはその部分を切り離すと、面状に広げて深き者どもを押し包んだ。足止めされつつも、深き者どもは追う手を緩めず、同様のやり取りが幾度かに亘って繰り返された。
その応酬の最中、〈いと小さき者〉は横目で未だ硬直したままのバルンベを見た。アクラハザの穏やかな側へと着いた頃には、ディアルレリオを形作っていた薄紅色の泡沫は数えられるほどしか残ってはいなかった。ディアルレリオはアクラハザの口腔を通りながら、わずかな泡沫を〈いと小さき者〉を包む一つへとまとめ、浅く淡い激流に出るや我が身を破裂させた。その勢いは、定まらない乱流を上方へと向かう一本の大きな流れに変じさせて浅く淡い激流を二つに裂いた。
激動たる流れの中、〈いと小さき者〉は二つの生命を決して離すまいと、あらん限りの力で抱き締めた。水面を突き破り、煌めく太陽光の元に飛び出した〈いと小さき者〉の胎内には、二つの生命がしっかと宿っていたのであった。




