手榴弾投げには自信あり!
久しぶりに聞いた彼の声は、ひどくざらついて響いた。
なんたってひと月も眠っていたんだから仕方がない。今はただ、それが聞けるだけで胸がいっぱいになってしまって、私はその小さな身体をぎゅっと抱き締めることしかできなかった。
「なん、だ……ウラバ……? いっ、たい、なに、が……」
目覚めたばかりのちび様は、まだうまく身体が動かせないようで、私の胸の中で戸惑ったような声を上げる。
早く巫女様に知らせてこなくちゃ。早く、早く、誰かに。そうは思うんだけど、あんまりに嬉しくて、私はひたすらにちび様の身体を抱き締める。手を離したら、またさっきまでの動かないちび様に戻ってしまうんじゃないかと、怖くてなかなか離せない。
その私の背を、多分まだよくわかっていないはずの彼の手が、安心させるようにゆっくりと撫でた。
小さな、でも温かなその感触に、私はようやく腕の力を緩めてちび様の顔を覗き込む。
「ちび様……っ」
「なに、泣いて……んだ。誰に、泣、かされた……」
私の顔を見たとたんにぎゅっと不機嫌に寄せられた眉に、少しほっとして笑う。ああ、ちび様だあ!
なんとなく感激に震える腕をそうっとちび様から離し、私は彼の身体を寝床へと戻す。怒ったような表情のまま、ちび様はそこで初めて周りを見渡した。静かな深い青の瞳が、戸惑ったように揺れる。
「ここは、ミーメの……?」
そう呟いたとたん、ちび様はいきなり大きく咳き込み始めてしまった。ひと月も飲まず食わずだったから、うまくおさめることもできず、彼は咳の合間に息をしている状態。その苦しげな様子に私は感動の余韻を振り切って立ち上がる。ええい、しみじみしている場合じゃなかった!
とにかく誰かを呼んでこなくっちゃ!と、勢いよく立ち上がったまではよかったものの、一連のびっくり体験に、頭で考えるよりもずっと衝撃を受けていたらしい。足腰に力が入らず、かくりと再び床へと引っ張られる。腰が、抜けていた。
「どわあっ」
「ぐわっ」
いい歳をした女らしくない悲鳴を上げた私は、結果として寝台の上でぐったりしているちび様の上へと倒れ込んでしまったのだ。そうして押しつぶされたちび様までも、胸の下で苦しげな声を出す。ごごごご、ごめんなさいっ。
咳で息苦しそうなところに、再び私の胸まで押しつけられるはめになったちび様は、まだうまく動かせない手を私の背に回す。ばしばし、と叩かれるのは多分、私のとこで言う「ギブアップ!」か「レフリー!」ってことだろうな。
なんて冷静に考えてる場合じゃなく、私が慌てて起きあがろうとした、ちょうどそこに――。
「おいっ、お嬢ちゃん大丈夫かっ!」
見慣れた熊さんが飛び込んできて、すだれをあげたそのままの格好で、固まる。
デンスさん、呼びに行こうと思っていたのにナイスタイミング!とか喜んでいる場合じゃないことに、私はすぐ気がついた。この体勢。問題は、この体勢!
どこからどう見ても、動けずにいるいたいけなちび様を怪しい女が押し倒してる、そんな場面。しかも、さっきまで咳き込んでいたせいで、ちび様は涙目。
ぎぎぎ、とさび付いた音が出そうな首を巡らせ、デンスさんとしばらく無言で見つめ合う。すると彼はなぜかにんまりと、いつもの獰猛な笑顔を私に見せた。ええ?
「風の流れがおかしいって巫女様が言うもんで来てみたんだが……」
「デン、ス……?」
「ええと、デンスさん?」
できればそれ以上は口にしないでもらいたい。
私の、自衛官として鍛え抜かれた嫌なこと回避センサーが、さっきから三分タイマーのごとく点滅している。言うなよ、絶対に言うなよ!
「目覚めて即交尾だなんて、ウェイもまだまだ若いなあ! なあ、俺も混ぜろよっ」
私の願いも虚しく、彼は朗々と辺りに響き渡る大声でそんなことを言う。
ああこれ、絶対に確実に門番さんとか巫女様とか、木屋にいる人たちには全員聞こえたんだろうな。ああああああっ。
そして、嬉々としてこちらに迫ってきたデンスさん目がけ、私は横に落ちていた籐製っぽい枕を思いっきり投げつけた。あんたはそれしか頭にないのかっ!
それは、彼の鼻っ柱に見事命中。こんな時ばかりは、手榴弾投げのための遠投を訓練しておいてよかった、と心の底から前期の訓練班長に感謝を捧げたのだった。
そんなこんなで、真っ黒な鼻を心なしか赤くしたようなデンスさんが、私に言われるまま巫女様を呼びに行ってくれて。ようやく安心した私は、なんでかそのまま倒れてしまったらしい。気がついたのはそれから3日も経ってからだった。
インゼリアのことからこっち、ちび様の魔払いのこともあってまともに睡眠をとっていなかったからだというのが、さっきまで傍にいてくれたリトスさん言。リトスさんやデンスさんを始めとした里の人たちに、ひどく心配をかけてしまったのが心苦しい。
言われるままに安静にすること、それから4日。いい加減もう大丈夫だと思う。
身を起こしてぐるりと腕を回せば、がきがきごきっ、なんて妙齢の女性らしからぬ音が聞こえる。最近まともに筋トレもしてなかったからなあ。
瓶から水をすくって顔を洗い身支度を整えると、私は合計7日ぶりにお日様のもとへ出たのだった。
ミーメの里は今日もお天気に恵まれていて、日本でいえば秋口くらいの気温。夜になれば少し肌寒くは感じるが、日中は本当にいい気持ち。新鮮な空気を思い切り吸い込み、ああ、よく寝た!と、思いっきり伸びをしていたら。
「乙女様だーっ」
「乙女様っ、私の花もらって!」
「ずるいっ、私のもっ」
なんでかあちらこちらから、ぱらぱらと小さな小熊さんたちが花を手に手に私の元へと集まってきた。なにこれ、かっ、かわいいっ。
そのまま、もふもふとした柔らかな身体に抱きつかれ、思わず私の頬もゆるむ。納得の小熊パラダイス!
垂れそうになるよだれを何とか我慢しながら、私はその小熊さんたちに話しかけた。
「ど、どうしたの、みんな」
「乙女様がお目覚めになったから、お花持ってきたのー!」
「たのっ」
着ているものから判別するに、どうも里の女の子たちらしい。
今私が着ているものと似た民族衣装をまとったその子たちは、乙女様乙女様と私へとその小さな手を差し出す。
可愛らしい肉球に握られているのは、緑がかった白色の花。派手ではないが、少し垂れるように咲いた花弁が清楚な。野の花らしく、素朴な美しさが目を引いた。
「緑の捧げ花だ。もらってやれ」
差し出されたその花を見つめて戸惑っていると、背後から聞き慣れた声が私へと掛けられた。
振り返ればそこに、すっかり元の元気を取り戻したちび様の姿。彼は少し眩しそうに目を細め、淡く微笑んで立っていた。その顔を見た私も自分の頬が自然とゆるむのを感じる。なんていうか、本当に、よかった。
そんな私たちを眺めていた小熊さんたちは、花を渡すという用事がすんだせいか、いっせいに背をむけて駆けだし去っていった。「お幸せに」っていうのは、どういう意味だろう。
残されたのは大量のお花。それを手にした私に、ちび様がゆっくりと近づいてくる。
「ベアルたちの最上級の謝意の印だ。あとで髪にでも編み込んでもらうといい」
「ええっ、私、なんかしましったけ?」
最上級の謝意、というところに驚いた私が手の中の花とちび様を交互に見ると、彼は仕方ないなとでも言うように息を吐いて笑った。そうして花へと手を伸ばし、一輪だけ手にすると、私を見上げる。
静かな湖面のような、青い瞳。深いその色が私を映して、光る。
「お前が俺を救ってくれた。お前がいなければ、俺は永遠に闇をさまよってただろう」
その言葉に、私はあの時の竜に告げられたことを思い出す。
『この者が心の底で死を望んでいるからだ。王である責から、逃れたいとおもっているからなのだ』と。
なぜ、ちび様はそんな風に思ってるんだろう。あんなに国の人たちに慕われて、この里の人たちにだって尊敬されているようなのに。聞きたい。けれど、聞けない。
部外者である私が、通り過ぎていくだけかもしれない私が、踏みこんでいい場所なのかわからないから。
私のその戸惑いが伝わったのか、ちび様はふと大人びた笑みを零す。
そうして手にしていた花にひとつ口付け落とすと、手を伸ばし、私の耳元へとさし込んだ。さらりと耳に触れたその温度に、私は瞬間的に顔を赤らめてしまう。
「俺からもお前に感謝を」
どこの王子様だよ!と突っ込もうとして、この人王様だったんだ、となんとなくの敗北感。
ぶっきらぼうな口をきくちび様は、時々とんでもなく品のいい男の子に変身してしまう。なんというか、照れるからやめてほしい……。
何にも言えずに頬を染めた私を見つめ、ちび様はその微笑みをいっそう深くした。そして、どこか悲しそうに視線を落とし、再び口を開く。
「お前には話しておかなきゃならねえな。昔の、ことを――」
そしてちび様の口から語られたのは、彼の背負った悲しい過去の出来事だった。
***
「ナツメを落とし、インゼリアも手にした今、あなたはこれから何をしようというのですか。テラス・ガナドーレ」
かろうじて焼け残ったインゼリア王宮の東端。その二階のバルコニーから城下を見下ろしたまま動かないテラスに、焦れたようにノウェムが声をかけた。
その視線の先には、抉られたように大きな傷痕を晒す森。先の争いで、インゼリアの宰相が身を犠牲にして王を守った、その跡だった。
東方に白い賢者ありとまで讃えられたその人物と、生きている間に言葉を交わしてみたかったと、ノウェムはいまだにその死を振り切れないでいた。そんな彼に、ずっと黙ったままだったテラスが視線はそのままに、声をかけた。
「逃げおおせたインゼリア王はまだ見つからないか」
「森の裏手で、血痕と血の付いた布きれが見つかりましたが、その後の足取りはようとして知れません。あのウラバという女性とともにあるらしいのですが、どちらかが怪我を負ったとして、我らの追跡を振り切れるとは予想外です」
思わず眉間に寄った皺を見て、振り返ったテラスは喉の奥で笑う。
その顔はひどく楽しげで、無邪気にも見え、ノウェムはむっとするどころかぽかんと口を開けて眺めてしまった。しかしその笑みは、すぐに獰猛な狩人のものに取って代わられる。
「大方、森の民にでも拾われたか。土族にあたりをつけろ。報酬は言い値でよい、何か情報があるはずだ。行き先がわかり次第、西翼の一羽を出して追わせろ。匿っている者たちが帝国に逆らう場合は、殺してかまわない。必ず、王と娘を生きたまま捕らえよ。特に娘には一切傷を付けることはならぬ」
「承知、致しました」
言葉とは裏腹に、疑問を抱いたままのノウェムは複雑な表情のまま、頭を下げる。
そんな彼の態度をわかっているだろうテラスは、しかし何も言わずにまた視線を外へと戻した。どこか暗い執着の炎が、その緑の瞳の中で燃えている。
下された命を実行すべく部屋から下がったノウェムは、そのあと、部屋に低く響いた言葉を聞くことはない。
「ようやく、あなたを取り戻せる……」
それは歓喜に満ち、静かに孤独な空間を震わせ、消えた。