黒い咆吼と決意の白
目の前にあるのが、私の知っている現実とあまりにかけ離れていて、その場にぬいつけられたように呆然と立ち尽くす。目前にまで迫った黒の竜は、そんな私を目がけ突進してきた。
思わず小銃を握りしめ固まる私の身体を、ティアオが突き飛ばすようにして庇う。背中から道の脇に倒れ込むけれど、彼がその腕を地面との間に差し込んでくれたお陰で、構えたほどの痛みはなかった。
そのすぐ後ろを、一直線に走ってきた竜の身体が通り過ぎる。
「大丈夫ですか、ウラバ様!」
「う、うん。なんとか」
ぐいっと抱き起こされながら、私はなんとか短くそう答えた。
ティアオは私にちらり視線を走らせ、言葉通り怪我らしい怪我はないことを確認してから、再びこちらを伺い唸り声を上げる竜へと向き直る。手には闇に光る剣。
つ、とティアオの額から汗が流れ落ちた。
「ウラバ様、僕が動いたら、一直線に竜の向こうへ走ってください。向こうに抜けられさえすれば、墓所はすぐです」
「だけど、ティアオは……!」
「相手は古竜です。僕ひとりだけでは、自分の身を守ることすら敵わないかもしれません!」
普段のティアオとはかけ離れた、切り捨てるような物言いに私は言葉を失った。
たかが薄っぺらい私の正義感でここに残ったとしても、それは彼にとって足手まとい以外の何ものでもない。ついさっき、それを思い知らされたはずなのに。
すぐにでも頭をもたげてくる何の役にも立たない同情心を、私は奥歯でぐっとかみ殺し、ようやくティアオに頷いてみせた。
私を背に庇いながら、咆吼する竜と正対していたティアオは、それを横目で確認するとふいに笑みを浮かべる。いつも、優しいティアオの笑顔。
「ウラバ様が無事逃げられたなら、僕もすぐに離脱しますよ。こう見えて、逃げ足は早いんです」
「……うん」
それが私を安心させるための嘘でも、その気持ちがとても嬉しくて、私もなんとか笑みを返す。
私は、私のできることを。
そう決意して、私は胸の前で握りしめた小銃を再び背中に回し、一秒でも早く走れる体制を整える。
ティアオも剣を強く握りしめ、離れたところで爛々とその緑の瞳を光らせる竜へと一歩、足を踏み出した。そして――。
「今です! 走って!」
こちらへ真っ直ぐに向かってくる竜へと走りながら、ティアオが私にそう合図し、剣を振るう。私はその声に弾かれるようにして、竜から少し逸れた場所を目指して走り始めた。
どうか、お願い――!
誰に何を祈っているのかもわからず、ただひたすら全速力で駆け抜けながら、そんなことだけが強く頭に焼き付く。お願いだから、もう、これ以上は……!
『痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い――!!』
再び頭の中に青年の悲痛な叫びが鳴り響き、私は足をもつれさせ、バランスを崩す。
竜のわきを駆け抜けてすぐ。まだここで止まってしまうわけにはいかないのに!
どこかゆっくりと流れる視界の中で、竜に相対するティアオの顔がはっきりと見える。赤茶色の瞳が、真っ直ぐ私を貫いて、その口元が何かを叫ぶように開かれた。その時。
「っ!」
彼を貫かんと、真上から竜の尾が振り下ろされる。
激しく地面に膝を擦りながら、私はそれをただ黙って見ているしかなかった。悲鳴すらあげる余裕もなかった。
どすん、という音とともに、黒く光る竜の尾が地面に突き刺さったのが見える。まとわりつくような闇と舞い上がった土埃のせいで、ティアオがどうなったのかわからない。
立ち上がろうとして、私はその場に崩れ落ちた。
足が、腰が、言うことを聞いてくれない。どこもかしこも、壊れたおもちゃのようにがくがくと震えていた。
その視界の中で、竜がこちらをゆるりと振り返る。
突き立てられたよりも静かな動作で尾を地面から引き抜き、ボロボロに見えるその翼を広げてみせる。
「や……!」
立てない私は、座ったまま無様に後ろへとずり下がるしかできない。
怖いとか、嫌だとか、そういうんじゃなくて。ただ、悔しかった。
ティアオがせっかく私を助けてくれようとしたのに、私はこんなところでこんな風にしているしかない。立ち上がることも、走り出すこともできない。それが、悔しい。
すると、じりじりと私に近づいてきていた竜が、突然つんざくような悲鳴を上げる。
見ればその尾の先が千切れ、地面にのたうって落ちていた。切り取られた場所からは、どす黒い血がびしゃびしゃと辺りに散っている。
「ウラバ様! 立って!」
痛みに暴れる竜の後ろに、もう諦めていたティアオの姿。
顔半分に裂傷を負い、血にまみれた姿で剣を握りしめている。
私はその声に、震える身体をなんとか制御しようと力を込め、必死に立ち上がった。手足の感覚がない。けれど、走るんだ!
そうして馬鹿みたいにゆっくりと動きだした私に、ティアオは再び剣を構え、竜へと向かう。
急いで、だけど焦らないで。そう自分に言い聞かせながら、なんとか一歩ずつその場から離れる私の背後で暴れ回る竜の尾が、今度こそティアオをとらえ、なぎ払う。
私はそれを視界に入れながら、吹き飛ばされていくティアオを振り切って、墓所へと向かう。
もう、涙なんて流れない。
私はティアオを犠牲にした。それだけだった。
あとでそれをインゼリア中から責められるために、憎しみをぶつけられてもいいように、私は今、逃げるんだ。逃げて、逃げて、逃げて。そうして生き延びて、いつか誰かがそれをなじるまで。
傷をわざと抉るようにそう心に刻むと、私はだんだんと動くようになってきた足で、地面を強く蹴る。早く、一歩でも早く向こうへ。
その私目がけて、咆吼した竜がかぎ爪のついた前足を伸ばしてくる。それから逃れるように身をよじるが、間に合わない。
わずかな月明かりに光るその鋭い爪が私の身体に届こうとした、そこに。
「!!」
突然の暴風。
私と竜の爪との間に吹き荒れたそれがおさまり、咄嗟に顔を覆っていた腕を降ろすと、そこにいたのは――。
「ウラバっ」
「ちび、様……っ」
法力と呼ばれたその力で、竜を威嚇しながら私の名前を呼んだのは、ずっと探し求めていたちび様だった。
駆け寄ってくるその小さな身体が安堵に崩れかけた私を、意外なほどに強い力で受け止める。その温もりが、ひどく懐かしい。そんなにも、離れていたわけじゃないのに。
「ウラバ、しっかりしろ!」
覗き込んできた深い青色の瞳が、私にその強さを分け与えるように光る。
どこか竜と似たような、細長い瞳孔がぎゅっと細く締まり、そして再び大きく唸り声を上げた黒竜を見据えた。傍にある身体が緊張に包まれたのがわかる。
そして苦しげにひと言、吐き出された言葉に、私は驚きを隠せず震えた。
「兄上……っ」
あに、うえ?
それを問う間もなく、ちび様は私を抱きかかえると大きく後ろへと飛びずさる。今までいたそこに、竜の口から吐き出された炎が直撃した。
小さな火の粉とともに、熱い空気の固まりが頬を撫でて流れていく。
「シムっ!」
後方に視線を走らせたちび様がそう名前を呼ぶと、答える間もなく白い影が風を切って飛び込んでくる。再度吐き出された炎を真ん中から断ち切って、切迫。その喉元に刃を突き立てた。
金属と金属のぶつかり合うような嫌な音が響き渡り、嫌がるように竜が前足を振りかぶったところで、その白い影――シムさんがひとっ飛びに引く。
そのまま数歩後ろへと飛び下がり、シムさんは息も切らさず私たちに声をかけた。
「ウェイフォン様、ウラバ様、お怪我は?」
「大丈夫だ。そっちは?」
「私はこの通り。民たちは近衛の者達が無事逃しました」
「そうか」
静かに、けれど隙のない短い会話を重ね、ふたりは黒竜を睨む。
一瞬だけ、私の肩を掴むちび様の手に力が込められたのがわかった。じりじりとこちらを窺いながら迫るその影に、立ち上がる。
息を詰めたちび様の全身にゆるく風が宿った、そこに――。
「っ!!」
いつの間にか抜き放たれていたちび様の剣が、それをはじき飛ばす。
その足下に音を立てて突き刺さったのは、黒く鈍い光を放つ、鋭く小さな刃。一撃ののち、同じような刃が立て続けに飛んでくる。
そのすべてをたたき落として、ちび様は森の奥、闇の向こうへと声を上げた。
「何者だ!」
闇が、動く。
そこから溶け出すように現れたのは、さっきまで私と隊長に襲いかかっていたふたりの影だった。その姿に、残酷な光景を思い出し、震える。
あの影が言った「アレを追え」っていうのは、竜のことだったんだ。無意識に後ずさりをした私を、その影たちから遮るようにして立ち、ちび様がその口元にどこか獰猛な笑みを浮かべて問う。
「やはり、お前たちガナドールの者だな。一応訊くが、引く気はねえんだな? お前たちの切り札は、制御できねえぞ。あれはもう……狂ってる」
最後の言葉を苦々しげに吐き出したちび様に、そう暗に示された竜と対峙していたシムさんが、少し痛ましそうな視線を投げた。
それに何も答えず、影たちはじりじりと距離を詰めてくる。それを見て、ちび様は私にささやいた。
「ウラバ、俺がいいと言うまで目を閉じろ」
「あ……」
反射的に反応し、ぎゅっと目を閉じるのが早いか、私の周りで風の巻き起こる気配がした。それは鋭い音を発し、どこかへと飛んでいくのがわかる。ちび様の力。
目を閉じたことで敏感になった耳が、何かが呻く声とそれを断ち切る風、そして地面にこぼれ落ちる液体と重いものが転がる音を拾った。見えなくても、理解する。
ちび様の力が、あの影たちの命を奪った音。
怖いとはもう思わなかった。けれど、身体の芯がその圧倒的な力を感じ、震えた。
「もういいぞ」
そう言われて恐る恐る目を開けた私の前には、音から想像していたおぞましい光景はなかった。すべてがこの闇に紛れ、もう何もわからない。
ちび様は私にそれ以上は何も言わず、改めて竜へと向き直った。
闇の中で、緑の瞳が光る。王宮からあがる煙に覆われた月の下、かろうじてその切れ間から注ぐ弱い光に黒い鱗が生々しく輝いていた。半開きになった口から見える、牙。そしてその喉からはどこか苦しげな息。よだれがそこを伝い、地面にだらだらとこぼれ落ちている。
見れば見るほどのに醜悪なそれを睨み、ちび様は苦しげに声を発した。
「シム。なぜだ」
「……私の過ちでございます。あの時、私があの方に情けをかけたばかりに」
「なら、あれはそうなんだな? 間違いなく、奴なんだな?」
わかっていたことをさらに確認するように言って、黙して頷くシムさんを見ると、ちび様はもう何も言わずに竜へと足を一歩踏み出した。その身体に再び風が宿る。
私に向けられているその小さな背中が、今何を思っているのか、私にはわからなかった。
そのちび様にシムさんも続こうとして、はっと目を見開いたシムさんがちび様の背に覆い被さる。
「ウェイフォン様っ!」
何かがびしゃり、とシムさんの白い衣装にまとわりついた。ぬめぬめと光り、その白い色を汚したのは――。
途端に、耐えられないほどの悪臭が鼻をつき、私はとっさに手で口元を覆う。今まで嗅いだことのない、獣のような、何かが腐ったような、そんな臭い。胸からこみ上げてくるものを、必死に抑える。
「これは……!」
「竜血!?」
動揺するふたりに向かって、再び闇が襲いかかる。
ふわりと舞うようなその独特の動きは、隊長を貫き、今はクワイとガンが戦っているはずの、あの影の長。
その攻撃を俊敏な動きで避け、ちび様とシムさんはお互い反対方向へと飛びずさる。私のところへ戻ってきたちび様が、その影を睨み付けた。
「ジュンレンをやった奴か……。それを誰が作った!? 竜血の製造法はインゼリアの王しか知らねえはずだ!」
それには答えず、影の長は重力など感じさせない動きで、ちび様と私へと迫り来る。真っ直ぐにこちらへ向けられた剣の切っ先。身構えたちび様と私の前にシムさんが割り込み、その刃を止めた。
いつも乱れることのないその顔に、苦痛が浮かんでいる。額からは汗がにじみ、どこか身体に変調をきたしているのが私からでも見て取れた。
「シムさん……!」
「竜血のせいだ……っ」
忌々しげにそう呟いたちび様が、影に向かって風を放つ。鋭い刃のようなそれが身体に届く寸前、影はふわりと宙に飛んでそれを避けた。それを見てシムさんが、崩れ落ちるように片膝をつく。
狂ったように頭を振り、唸り声をわめき散らす竜を背にしても、影は恐怖することなくこちらを窺っている。それを睨みながら、ちび様は苦渋の面持ちでシムさんに告げる。
「シムっ……もう駄目だ。撤退する……!」
その言葉に頭を過ぎったのは、隊長の姿。そして、私を庇ったティアオ。クワイにガン。
けれど、そんな私以上にちび様は身を切られるような思いをしている。彼にとって「撤退する」ということは、国のすべてを一度諦めてしまうということ。
力を込めすぎて微かに震えるその小さな手が、私の目に映った。
ちび様のその宣言に苦しげに息をするシムさんは頷いて、私たちの背後に見える墓所を指さす。
「ウェイフォン様」
「ああ、わかってる。ウラバ、走れるか?」
「は、はいっ」
その場に縫いつけられたように固まっていた両足をなんとか動かして、影と竜とを見据えながらゆっくりと動くちび様に庇われたまま、私もじりじりと後ろへ下がる。
こちらを静観していた影の長は、私たちが動き出すと同時に再び舞い上がり、こちらに攻撃を仕掛けてきた。影の背後からは黒竜が堪えきれず力任せに尾を振るう。
ふたつの攻撃を剣と法力でいなしながら、ちび様はちらりと背後に目をやった。
「シム、無理すんな。法力の出せない状態じゃ、きついだろ! お前はウラバと先に行け!」
「いいえ、ウェイフォン様。私は35年前の過ちを正さなければ……」
「シム!?」
苦しげな息の下、シムさんはそうちび様に告げると、突然その小さな身体を思いっきり押した。それにつられて私も後ろへと倒れ込む。
何かにひどく頭をぶつけた私が背後を見れば、そこはもう目指していた白い塔の前だった。これが、墓所――。
私の隣、なんとか受け身をとったちび様が、はっと何かに思い当たったようにその瞳を見開く。そして、顔を歪めてシムさんの名を叫んだ
「やめろっ、シルワールム!」
「私はあの方に自分の悲しみを重ねてしまった。その愚かさの責任を、私は取らねばならないのです、ウェイフォン様」
「俺はそんなこと望んでいないっ」
飛びかかってくる影の切っ先を剣で防ぎながら、シムさんはこちらを見ずに静かに続ける。そちらへ向かおうとするちび様に、竜の炎が襲いかかった。
「くそっ」
「そこから出てはなりません!」
墓所を離れて戦おうとするちび様に、鋭いシムさんの声が飛んだ。
それは単にちび様の身を案じるものではなく、一国という重みを背負った王への言葉。びくりと肩を揺らしシムさんを見たちび様に、彼は優しく微笑んでみせる。
そんな余裕があるようには見えない、この時に。
「あなたはウェイフォンなのです。あなたさえいれば、また、国は復興する」
凄絶な、笑みだった。
その言葉がちび様と私に届いた瞬間。目の前が昼間のように明るく照らされ、すべての音が消え去った。とっさに腕で目をかばうが、目を閉じていても瞼ごと焼ききるような強い光を感じる。なにが、起こったの!?
隣にいるはずのちび様を呼ぼうとして、今度は大きな風圧を受け、私は声を喉の奥へと押し戻されてしまった。なに、どうして、これは、わからない!
パニックになりそうな思考から逃れようと叫びだしたいのに、それすらも敵わず、私の叫びは頭の内側にこだまし続ける。
このままでは壊れてしまう。そう考えた私の身体を、誰かが強く引き寄せた。
誰かもわからないままにその腕にすがった私の耳に、轟音が響いたのはその直後。そうして私の意識は、真っ白い空白の中に飲み込まれて消えた。