予期せぬ別れ
時間の流れがひどく鈍い。
引きつる喉は悲鳴のひとつも上げられない。ゆっくりと、隊長の背から長と呼ばれた影が離れていくのが見えた。
その動きと一緒に、隊長の胸からも銀の剣が引き抜かれていく。
やめて。それを、引き抜かないで。そんなことしたら、そんなことしたら、隊長が。
仮面に覆われていない口元が、薄く笑う。
このままなにひとつ動かさなければ、時間はこのままで止まるかもしれないのに。そんな非現実的なことが頭をかき乱し、叫ぶことさえできない。口からは、まるで病気にかかった動物の鳴き声のような音がもれた。
ひゅ、とどこか清廉な響きで、引き抜かれた剣が血を払う。
それと同時に、私の頬にびしゃりとなにか生暖かいものが降りかかった。半分開けたままだった口の中に入ったそれは、塩辛く錆びて、反射的に飲み込もうとした喉にべったりと貼り付く。
それは隊長の胸から溢れだした、真っ赤な――。
「ウラ、バ……逃げ……っ」
何だろうと頬に伸ばした私の手を、隊長が強く掴む。痛いくらい。
そうしてそのまま、隊長はずるりと床に崩れ落ちた。引きずられるように一緒に座り込んだ私は混乱したまま、ぴくりとも動かなくなった隊長の身体をかき抱く。これは、なに。なにを、間違えたの?
うつぶせの彼の身体から、温かな何かがこぼれ落ちていく。塞ぐようにして手で押さえてみるが、そんな努力をあざ笑うかのように、それは指の間を簡単にすり抜けていってしまう。見る見るうちに床に広がっていく、赤い色。
命が、こぼれる。
こぼれて、消えてしまう。
「やだ。やだ、やだっ、隊長っ! 隊長っ!」
そこで初めて意味のある言葉が胸の奥からわいてきて、私は必死に動かない隊長の身体にしがみついた。子供のように、いやだという言葉をただ無意味に繰り返す。
この現実をすべて否定してしまいたい。こんなのは、こんなのは、違う。違うの。
だって、さっきまで隊長は動いていたから。今朝だって、いつも通りに私を起こしにきて、みんな一緒で。大丈夫だって。
何度も何度も揺すぶる身体は、それでも何も反応を返してはくれない。血を。血を止めなきゃ。
そう思ってズボンから布を引っ張り出し、傷口に強くあてる。お願いだから、これ以上流れ出さないで!
ひどく震えるその腕を、いつの間にか近付いていた影が引きずり上げた。
「来い」
何言ってるの。この人、なにしてるの。
だって、隊長が怪我しているのに。それなのに、なんで放っておこうとするの。
振り払おうと払った左腕もまた捕らえられ、私の身体はそのまま宙へと引き上げられる。無理矢理のその力に、手首がひどく軋んだ。痛い。痛い、痛い!
「殺しはしない。大人しくしろ」
「っ!」
抑揚なくかけられたその言葉を、私はもげるほどに首を振って拒絶した。
するといきなりお腹に強い衝撃。遅れて焼けつくような痛みが走り、私はくぐもった悲鳴をあげた。そして、喉の奥からせり上がってきたものを床にぶちまける。
蹴られた!?
燃えるように熱く感じる痛みの中、流れた涙が頬についた血と混ざり、白いシャツに薄紅の染みを作った。
苦痛に声も出せずぐったりとした身体を、影はいとも簡単に持ち上げて歩き出す。遠ざかっていく隊長に、それでも手を伸ばそうと歯を食いしばった次の瞬間、私の身体は突然床へと放り捨てられた。
受け身をとる間もなく背中から打ち付けられ、私はお腹の痛みとともに襲う苦痛にうめく。気を失いそうになった私の耳に、いくつかの足音が近付いてきた。それから誰かに身体を引き起こされ、声をかけられる。
「ウラバ様! ウラバ様、しっかりしてくださいっ」
「ティ、アオ……」
それは部屋で別れたきりになっていた、ティアオの声。別れてからまだそんなに時間は経っていないというのに、あまりの懐かしさに勝手に涙が零れる。
彼はそれを手袋をした手で丁寧に拭いながら、私の目をしっかりと見つめた。
「大丈夫です。もう、大丈夫ですから」
そう言って顔を上げたティアオは、前方に向かって鋭い声を発する。
「クワイ、ガン! 仕留めろ!」
それに無言で応えたふたつの背が、さっきまで私をどこかに連れ去ろうとしていた影に向かっていく。3人とも、無事だったんだ。
徐々に鈍くなってきた痛みをこらえ、ティアオに支えられながら身を起こす。止まらない涙をそのままに、私は彼の肩を強く掴んで声を上げた。伝えなきゃ、早く、早く!
「たいっ、隊長、がっ! 隊長が、刺され、てっ」
私がいたから、私を庇ったから。あの時私がよろけなければ、もっと抵抗できていたら、そしたら隊長は刺されたりしなかった。絶対に、しなかった。
思考はばらばらに散らばったまま、私の言葉としてなにひとつうまく出てこない。それでも、その断片的な言葉を理解したティアオは痛ましげに顔を歪ませた。
そして一瞬だけその赤茶色の瞳を閉じ、哀悼を示す。けれど次に目を開けた時にはもう、そこに悲しみも揺らぎも残されてはいなかった。ただ、ひときわ強い光があって。
「ウラバ様、立てますか?」
静かなその声に促されるように、私は苦痛を訴える身体を叱咤して、立ち上がる。
我慢しきれずにもれたうめき声に、「失礼を」と短く言って私の身体をあちこち触った彼は、少しほっとしたような表情を浮かべてみせた。
「よかった。骨は折れていないようです。ウラバ様、ひどく痛むでしょうが、ここから離れなければなりません。走れますか?」
「ここからって、だって、隊長が! クワイに、ガンもっ……」
言い募る私にティアオは首を振って応える。どこまでも静かなその表情に、私は拒絶の言葉を飲み込んだ。
そっと私の腕をとって自らの肩にまわし、腰に腕をあてたティアオが一度だけクワイとガンがいるであろう方向に視線を向ける。そしてそれを振り切るように、私をともなって走り始めた。近くにある彼の身体が、何かを必死に我慢するように強張っているのがわかる。
遠くで剣と剣がぶつかり合う音。
きっと、クワイとガンがあの影と戦っている。そこには隊長もいるはずで……けれど、それも廊下の角を曲がる時には、もうまったく聞こえなくなってしまった。
彼らとまたもう一度会える確証なんて、なんにも持ってない。
本当は隊長の身体から温もりが失われていくのも、私は頭のどこかで気がついていた。もう、あの茶色の瞳が優しく私を見てくれることは、ないんだ。二度と。
高ぶりすぎた感情の抑えがきかずに、私は走りながら子供のように嗚咽を漏らす。
「ごめんなさいっ……ごめんなさいっ……! 私が、部屋から、出たからっ」
「違います、ウラバ様」
泣きじゃくりながらもらしたそれに、ティアオがきっぱりとした声を返す。見上げた横顔は、どこまでも凪いだ湖面のように研ぎ澄まされていた。
ゆっくりと、聞き分けのない子供を諭すような口調で、ティアオは言う。
「僕たち近衛兵は、みなが『竜の血』によってつながっているんです。だから、僕たちには隊長の最後の声が聞こえる。あの人は決して悔やんだりしていない。恨んでもいない。ただ、『頼む』と。それだけ……」
大きく崩れた壁によってそれ以上進むのを阻まれた私たちは、静かに廊下の中程で足を止めた。我慢しようとすればするほどに溢れ出す涙を、私は腹立たしく乱暴に拭う。
ティアオの言っている意味がわからない。わからないのは、私がここの人たちと一緒に生きてはいないからだ。覚悟も力も何もない、ただの通りすがりだから。
ティアオは泣かない。それが、答えだった。
「ここから先は駄目ですね。迂回して禁域へ行きましょう」
「でもっ、禁域には許可された人しか入れないって、ちび様がっ」
私はそこに行けても、ティアオはどうするの。
言外の問いかけを正確に読みとったであろう彼は、そこで再会して初めて微笑みを見せた。優しい、いつもの彼の笑顔。
「僕は入れないけれど、ウラバ様は入れます。それで、充分です」
きっぱりと言い切って、彼はもう私に何も言わせず走り出した。強く握られた手が、熱い。
泣いたって自分の気が済むだけ。何にもプラスになったりしない。
なんとかこここを切り抜けよう。禁域に入らなくたって、あの辺りは森になってるんだし、もしかしたらうまくいくかもしれない。
俯いていた顔を上げ、私は最後の涙を腕でぐいっと拭った。今はもう、泣きたくない。
小さな庭を抜け、離れた王宮から響いてくる音と巻上がる炎に顔をしかめながら、それでも私たち二人は禁域の森へと駆け抜けた。
とにかく、私がみんなの足を引っ張っているのは確かだ。だったらどんなに情けなくても、私は安全な場所に退避するしかない。
そうしないと、ティアオもクワイたちも、ちび様を援護しに行けないんだろう。
そんな風な考えに達して私が奥歯を噛み締めた頃、私たちはようやく裏の森、禁域へとたどり着いた。
さすがに、息が上がっている。
私たちはしばらくの間無言で息を整え、それから顔を見合わせ頷くと、辺りを警戒しながらゆっくりと森へと進み始めた。
どの辺りからティアオが拒絶されるのかわからない。また、ひとりになってしまうかもしれない不安に、たまらず私は口を開いた。
「ねえ、ティアオ。禁域ってなんなの?」
私のその問いに、周囲への警戒をゆるめないまま、ティアオが答える。
森は不気味なほどの静寂を保っていた。
「禁域というのは、王族方の墓所がある場所なんです」
「お墓!」
「はい。歴代の竜王から、その伴侶である乙女。そして血に列なる方々の。命は絶えても、そこは法力の“場”となりますから、今も強力な防壁で守られているはずです」
そう言うティアオのしめす先に、ちらりと見覚えのある白い塔の先端が見えてきた。
それは今日の昼間、私に言付けをしたあとのちび様がむかっていた場所。同時に思い出す、ちび様のひどく悲しそうな笑顔。
あれは、そう言う意味だったんだと今、気がつく。
何もかも知らないまま、知らせられないまま過ごしてきたこの1ヶ月。それをとても後悔しながら、私はさらにちび様の家族について聞こうとティアオを見た。
すると、彼はさっきまでの落ち着きをなくし、きょろきょろと辺りを見回している。
「ティアオ、どうしたの?」
「いえ、あの、防壁が……防壁がないんです」
「え?」
「もう、この辺りは禁域だから、僕は弾かれてしまうはずなんですが……」
「夜だし、明かりもないし、まだ禁域に入ってないんじゃない?」
ティアオとは反対に、さきほどのショックから少しずつ落ち着きを取り戻した私がそう言うと、彼はゆっくりと首を振る。
「“僕たち”は夜目が利きますから」
それはさっき彼が言っていた『竜の血』というやつに関係しているんだろうか。
どこかそわそわとしながら、それでもここまで来たらと覚悟を決め、再び歩き出そうとした私たちの背後。突然、木々がなぎ倒され、地面が大きく振動する。
まさか、これって!
素早く動いたティアオの背に庇われ、そこで私が見た物は――。
「竜……!?」
闇の中でもぎらりと獰猛に輝く黒い鱗。そして、ぼんやりと光っている濁った緑色の瞳。その中に見える縦長の瞳孔が、呆然と立ち尽くす私との目と合い、ぎゅっと縮まったのが見えた。
もしかして――もしかして、王宮を破壊したのもナツメを襲ったのも、この、竜?
その巨大で恐ろしい姿に私が思わず一歩退くと、目の前の竜は真っ赤な口を開けて雄叫びを上げた。
「なぜ、なぜ古竜が……!」
動揺を隠しきれないままで、ティアオは腰の剣を抜く。その手が恐れではない何かで震えているのが見えた。
その彼の言葉に、黒い竜は苛烈に反応する。
潰れたような、悲鳴のようなその鳴き声の中に、私はかすかな何かを耳に拾った。なに、なんなの?
じりじりと後退する私たち二人を追うようにして迫り来る竜が、狂ったように暴れながら木々を倒し、そして叫ぶ。
『違う、僕じゃない――! これは、僕じゃないっ――』
私の耳に届いたそれは間違いなく、ひどく苦しげな青年の声だった――。