180ミルの夜間行動
「シムさーんっ! ちび様ーっ!」
呼べど叫べど、帰ってくる声はなにひとつない。
あちこちでくすぶり続ける火と、そこから発生する煙に包まれた廊下で、私はひとり泣きそうになっていた。
さっきから叫び続けた喉はもう限界に近い。吸い込む煙でよけいに痛みが増す。
瓦礫をようやく乗り越えて中に入ったのはいいものの、外からの明かりもほとんどなく、ちらほらと見える火の気を頼りに歩いていた私は完璧に迷っていた。
暗さに目を少し慣れてきたものの、すべてが変わり果てたそこは初めて歩くのと変わらない。
なんとか廊下の先へと目を凝らし、ゆっくりとした速度で歩く。気持ちは焦るばかりだけれど、この瓦礫だらけの暗い廊下を走ればどうなるかくらいはわかる。
富士の訓練でも足場が見えない夜間は、ゆっくりと、しかも踵から降ろして確かめつつ進むのがベストだって教わったし。
あとなんだっけ、転倒しても声は上げない、だっけ。あっ。
「あいった! ちっくしょっ、足打ったあ!」
無理でした。マジ、無理でした。ごめんなさい、班長。
先のほうを注視していたため、足下の瓦礫に引っかかった私は簡単にすっころぶ。正直、めちゃくちゃ痛いです。これ、絶対に青タンできてるな。
こんな暗い中、不整地を進むのはむちゃに近い。ていうか、迷子免許皆伝の私には無理。自衛隊的にいうと、180ミルの暗さ。
無駄な知識を頭の中から引きずり出しながら、そのまましゃがみこんだ私は膝をさすりつつため息をつく。
「うー……、ちび様いずや! ちび様いずこっ!」
どっかで聞いたような文句を自棄になって叫ぶ。すると突然、暗がりの中から誰かの腕が伸びてきたかと思ったら、そのまま柱の影へと引きずり込まれた。
あまりのことに目を見開いたまま身を固くした私は、その何者かの腕が腹に回ってきたところで我に返り、思いっきり叫び声を上げる。
「ぎゃあああっ、ち、ちか――!」
痴漢、と言おうとしたところで革手袋をした手のひらに口を塞がれ、ふごっと情けない声が鼻から抜ける。し、しまった!
その手に噛みついてやろうとしたけれど、それもうまくいかない。
しょうがないので、今度は身体全体を使って暴れる。こういう時、どうすればいいって教えてもらったっけ!
パニックになりながらも、急所を狙おうと肘をつきだした私の耳元に、意外な人の声が聞こえたのはその時だった。
「ウラバ、俺だ! 頼むから大人しく従ってくれ!」
「た、たいひょう!」
低くささやかれたその言葉に、私はぴたりと抵抗をやめる。すると安心したように、ようやく身体に回されていた腕が外された。
隊長が痴漢? いやいや、そうじゃなくて。
「隊長っ、何やってるんですか、こんなところで!」
「静かに!」
驚きに高くなった私の声を手で制し、ジュンレン隊長は周囲に視線を走らせる。そして人気がないことを確認すると、そこで改めて私に向き合った。
光量の足りない廊下の、それもちょうど死角になる柱の影の中、隊長は大きくため息をつく。見れば、その手にはこの闇の中でも鈍く光る、鋭い剣が握られていた。
「俺は近衛に民のことを任せてきたところだ。それより、ティアオはどうした。あいつにはお前の護衛を命じたはずだぞ」
「部屋にいたらすごい音と振動があって、ティアオはちょっと様子を見てくるからって……」
いつもと違って厳しく響いたその言葉に、私は思わず首をすくめる。これはもしや説教をくらっている感じ?
だけど、この王宮の惨状を見る限り、私があそこにいたら確実に危なかったと思うんですけど。
「部屋から出るな、側から決して離れるなと言っておいたのに、あのバカ!」
「いやあの、悪いのはティアオじゃなくってですね! 扉が開かなくなったんで、窓から抜け出しちゃったんです。ティアオは絶対に部屋にいろって言ってくれてたんですけど……」
「窓から抜け出したあ!?」
今度は自分があげてしまった声に、隊長は慌てて周りを見渡した。気配を探り、それから大きく肩を落とす。な、なんでしょうか、そのリアクション。やっちまった感満載なんですけど。
私がびくびくしながら次の言葉を待っていると、隊長は乱暴に茶色の髪をかき回し、顔を上げた。
「まあ、今さら言ってもあれだけどな。あの部屋は特別な防壁が張られているから、何が起きようと大丈夫だったんだよ。事が起きた場合は誰も出入りできないようになるんだ。だから、扉が開かなかったってのは……そういうことだ」
「そ、それ、マジで今言いますかあ!」
果てしなく落ち込みそうなその新事実に、私も習って頭をかきむしる。とんでもなく空気読めてないじゃないか、私。
呻きながら肩を落とした私の頭を、いつものように隊長の手が優しく叩いた。手袋に包まれていても伝わるその温もりに、今や遠くなってしまった日常を思い出す。
近衛隊士に街の人たちを任せてきた、と隊長は言ったけれど、あの少ない人数で避難誘導なんかできるんだろうか。
「街の人は、どうしたんですか?」
「街の者たちは無事避難している。『収穫祭』の指示が出ていたからな、みんな決められたとおりに森へ逃げているさ」
自信たっぷりに頷いてみせる隊長に、私は首を傾げた。
収穫祭と避難とのつながりがいまいち理解できない。そんな私の様子に、片手に持った剣の具合を点検しながら隊長が言う。
「ああ、お前は知らないか。『祭をする』ってのは避難準備をしろってことなんだよ。その中でも『収穫祭』は緊急って意味でな。祭の準備だって建前があれば、民がどこか一カ所に集まっていても、物資なんかが運ばれても不自然じゃないだろう?」
「な、なるほど」
だからその指示が伝えられた時、見習達が真剣な顔をしていたのか。
用意周到というのはこういうことか、と感心すると同時になんだか悲しくもなる。そういう訓練が行き渡っているほどに、ここでは国同士の争いが現実的なものなんだ。
それじゃあ、ちび様は……と口を開きかけた私は、再び隊長の手のひらにそれを止められる。その横顔が緊張感に研ぎ澄まされるように、真剣なものに変わっていく。
手にしていた剣を握りしめ静かに立ち上がった隊長は、近くの暗がりに向かって声を張った。
「いるのはわかってる! 何用だ!」
静けさを破るようにとどろいたその声に、私の肩が抑えきれずに震えた。すると、闇の中からまるで溶け出したかのように、四つの影が現れる。
全員が漆黒の布を頭から被り、その下から覗く服もまた黒い。異様なのはそれだけではなく、顔の上半分がこれもまた黒い仮面に覆われていた。
どこからどう見ても、インゼリアの人でも、ナツメの難民じゃない。
その影たちにむかってゆっくりと剣を構えた隊長は、今度は静かに声をかける。
「もう一度訊く。おまえたちは何者で、何の用があると言う?」
しかし影はそれに何も応えず、滑らかな動作で腕を動かした。ふわりと漆黒の布が揺れ、隊長のものよりも少し大きめな剣の影が現れる。くすぶる炎の小さな明かりをはじき、それは美しくも恐ろしい光を放つ。
一番前にいた影のひとりが、隊長から目を離さずに他の3人へと声をかけた。
「男は殺せ、女は捕らえよ」
短いその言葉に、私の背筋がぞわりと粟立つ。
仮面の下から覗くなんの感情も含まない瞳が私を捉え、確かめるようにすっと眇められる。
思わず私が一歩後ずさりすると同時に、影がゆらりと動いたのが目に入った。私を後ろに庇った隊長の背中が、一瞬にして緊張する。
「俺から離れるなよ、ウラバ!」
「はっ、はいっ」
かけられたその言葉に何とか返事を返した私は、無意識に背負っていた小銃を身体の前に回して握りしめる。
ひんやりとしたその感触が、これが現実だということをかろうじて知らせてくる。それでも、いまだ状況についていけない心が、身体の動きを鈍らせた。
もたつく私の腕を隊長が乱暴に掴み、自分のほうへと引き寄せる。手首を掴む力は強く、手加減のないそれに、彼にも余裕があまりないことを感じた。喉が、乾く。
隊長はそのまま影を避けるように柱から飛び出し、廊下の反対側へと踊り出した。まだ壊れずに残っていた壁を背に、改めて影と向き合う。
その間にも4つの影は静かに、しかし確実に私たちとの距離を詰めてきていた。流れるような動きは、彼らがこういうことに場慣れしていること感じさせる。
「ガナドールの手のものか……! なぜ、ウラバを狙う!」
隊長の再度の言葉にも反応はなく、身を低くして影は真っ直ぐに突っ込んでくる。そこで初めて剣先が混じり合った。耳を突く音が静寂に包まれた廊下に響き渡り、私は身をすくめる。
影のひとりが押し込んできた剣を隊長が受け、そして強くはじき飛ばす。しかし、すぐに体制を整えた影はもう一度、今度はより深く入り込んできた。
その間に残りの影たちは、隊長の背に庇われる私へと手を伸ばしてくる。小さく悲鳴を上げた私の前に、隊長が立ちはだかった。
「させるかっ!」
隊長が短く言い放つ。すると私たちを中心とした風が巻き起こり、その腕の持ち主たちをを強くなぎ払った。それは今朝ちび様が私に見せた力と似たもの。
そこで初めて影たちに動揺らしきものが見え、彼らは素早く距離をとる。一瞬落ちる、沈黙。
「風の力……インゼリアの法術士か」
「んな大層なもんじゃない。俺はただ血を“授かった”だけだ」
にやりと不敵に隊長が笑う。それは私が今まで見たこともない獰猛な表情で、私は無意識に息を詰めた。目の前で起こっている命のやり取りに、ただ圧倒されるばかり。
静かになった場に、かちかちと何かの音がするのに気がつく。なんだろうと出所を探せば、それは小銃を握りしめて震える私の手が発するものだった。白くなるほど力がこもっているのに、感覚がまるでない。
「長」
影たちのひとりが、隊長と言葉を交わした人を短く呼んだ。長、と呼ばれたその影は振り返らず、軽く頷く
「二の剣、三の剣はあれを追え。そこにインゼリア王がいるはずだ」
端的な指示に、控えていた3人のうちの2人が頭を下げて走り出す。その背を見つめていた隊長が軽く舌打ちをした。
ふたつの影が駆けていった先を私も目で追いかけてみるけれど、すでにもやがかった上に暗く、果たして本当にこの先にちび様がいるかどうかまではわからない。
すぐにでも追いかけて行きたいのだけれど、それは目の前に立ちふさがるふたりが許してくれそうにもなかった。
ふっと、体重を感じさせない踏み込みで、再びふたりは同時に隊長へと剣を振り下ろす。暗い廊下に散る火花。隊長はその重い一撃を横にした剣で受け、籠手を巻いた腕でそれを補助する。そしてそのまま横一閃なぎ払うと、切っ先からは強い風。
長と呼ばれた影がそれを避ける前に、もうひとりの影がその前に出て庇う。その身体が何かに斬りつけられたかのように、血しぶきをあげた。すぐに辺りは錆びたような、独特の匂いに包まれる。重力に従って、力を失い倒れる身体。
庇われた影はそれに構わず、予測のできないゆらりとした動きでこちらへと迫り来る。そして、この場に重力が存在しないかのようにふわりと高く跳ねると、身体が落下する勢いをのせ、隊長の頭上から剣を振り下ろした。
その一撃を受けたところで、今度は脇腹目がけて蹴りが飛ぶ。隊長はそれを予測していたかのように左手で素早くその足を払うと、反対に影の足を狙って蹴りを放った。
一連の動作のすべてが一呼吸の間にめまぐるしく起こり、私はただひたすら壁に背をつけてそれを見守るばかり。息をするのも苦しい、緊迫感。
「ウラバ、大丈夫か」
少しあがった息で、隊長が早口に問う。その声は緊張を孕んでいるものの、その中にはこちらを気遣う優しさがあり、私は小さく息を吐いて頷いた。
「私よりも、ちび様が……」
「ウェイフォン様なら大丈夫だ。あれでも俺なんかよりずっと強い。宰相様も一緒だしな」
こちらの隙を静かに窺っている影を視線で牽制しながら、隊長はきっぱりと力強くそう断言してみせる。その強さに、私はようやく身体の震えを抑えることに成功した。と、その時。
どん、という音ともに鎮まっていた揺れが突然その場を襲った。
今までのものとは規模が違う揺れ方に、隊長や対する影はなんとか踏みとどまったけれど、力の抜けた私の身体は簡単によろめいてしまう。
直前まで変に固まったままだった身体は、うまく揺れを吸収できない。何とか体勢を立て直そうと、庇われていた背から大きく踏み出した、そこに――。
「ウラバっ!」
ちらりと目の端に映ったのは、黒い影。
ずたずたに引き裂かれた黒い布から伸びてきた手は、吹き出した血によって赤く染まっていた。それはさっき隊長によってなぎ倒されたはずの、影。
驚く間もなく強引に腕を取られ、引きずり出される。掴まれた腕のぬめる感触に、私は声にならない悲鳴を上げた。無意識に身を引こうとするが、影はそれを許さない。恐怖で暴れる私を抑え付けるように、その影がもう一方の腕を伸ばしてきた。
その腕が一瞬にして消える。
空間に焼き付くような速さできらめく剣。風を切る音ともに、どさり、と何かが廊下に落ちる。目前に迫っていた仮面の中の瞳と、目が合う。次の瞬間。
よろけたその影の腕から大量の血が噴き出し、よろめきながら倒れた。くすぶり続ける小さな炎に照らし出されたそのシルエット。左の肘から先が、ない。
びくりびくり、と砂に打ち上げられた魚のように痙攣していた身体は、すぐに動きを止め静かになる。見開かれたままの瞳は、中空を見つめたまま。
何が起こったのか。さび付いたように動かない瞳を無理矢理動かすと、足下に今し方隊長が切り落とした腕が落ちていた。まるで、作り物のように。
「ウラバ!」
あまりの出来事に呆然と立ち尽くすばかりの私の腕を、今度は背後から隊長が引く。
振り返って見ると、私の腕を握るのと反対の手は、剣から柄までぐっしょりと血にまみれていた。
その姿に恐怖を抱いた私の肩が、震えた。隊長なのに、怖い。
「たい、ちょう」
つたなく呟いた私に、何か言おうと口を開いた隊長がそのまま固まる。
限界まで見開かれた茶の瞳が、苦痛に歪むのが見えた。何かを耐えるようにひそめられた眉を不思議に思い、私はゆっくりと隊長の胸へと視線を落とす。そこに、あったのは。
銀色の刃。
人の身体から生えるはずのないそれが、身につけた鎧をも突き抜けて、光る。
その切っ先からぽたりと、一筋の赤がすべり落ちた。
嘘、でしょう?