禁煙パイポでダイエット
グリ子がやってきたのは、待ち合わせ時間からちょうど三十分を過ぎたときだった。
僕はおしゃれな喫茶店の前で一人、何度も腕時計を見ては溜め息をつき、そろそろ彼女に電話してみようかと待ち合わせ場所を離れかけた。
「ごめーん! おまたせ」
グリ子は人混みを掻き分け、息を切らせて走ってきた。
「遅い!」
僕はもう一度腕時計を見た。グリ子は、あわててそれを手で遮る。そして僕が愚痴り出すより先に、彼女は僕の腕に自分の腕を絡ませて、念押すようにもう一度強く「ごめん」というと、ニッコリと笑った。
僕はそれ以上文句が言えなくなった。
「いいよ、どうせいつものことだしさ」
自分に言い聞かせるように呟いた。
「……あれ、グリ子、髪切った?」
今頃になって、グリ子の髪型が変わっていることに気付いた。変わっているなんてもんじゃなく、背中まであった髪がばっさり切り落とされて、ずいぶん印象が変わっていた。
「うん、ちょっと気分転換にね。似合う?」
「全然」
僕が即答すると、グリ子はうれしそうに笑った。
「良かった! こんなの似合うって言われたら、泣くしかないわよね」
そしてあちこちに跳ねる髪を無造作につかんで、憎々しげに引っ張った。
本当はよく似合っていた。もともと男っぽい性格だったし、どちらかというとロング・ヘアが似合うような美人でもなかった。短い髪のほうが、活動的なグリ子らしかった。
「で、気分は変わった?」
「そうね、それまで原因不明でブルーだったのが、今じゃはっきり原因のあるブルーに変わったわ」
髪を引っ張る力をさらに強めて言った。もしかすると、そうやって早く髪を伸ばそうとしているのかもしれない。
「それは良かった」
僕が笑うと、グリ子も照れたように笑った。耳元でパンダ型のピアスが揺れた。しばらく彼女の少年のような笑い顔に見とれていると、グリ子は僕の腕を軽くつついてきた。
「ねぇ、モリナガ君。私おなかすいちゃった」
「あ、ごめん。じゃあ、入ろうか」
そして僕達は喫茶店に入った。
後になってよく考えてみれば、一緒にランチをという約束に遅れてきたのは彼女のほうだった。いつも僕は、彼女の笑顔にだまされてしまう。
僕たちは陽の当たる窓際の席に、向かい合わせに座ってウエイトレスを待った。しばらくしてウエイトレスがトレイに水とおしぼりをのせて、メニューを持ってきた。
「何にする?」
グリ子はメニューを最初から最後まで一通り目を通すと、「オレンジジュース」とだけ言ってメニューを閉じた。
「それと?」
「それだけ」
僕には訳がわからなかった。彼女がおなかがすいたと言い出したのだ。
「ダイエットしてるのよ。モリナガ君は気にせず食べてね」
そう言われても、一人だけ食べるのは気が引けて、結局僕もコーヒーだけを頼んだ。
ウエイトレスは、この忙しいランチタイムにオレンジジュースとコーヒーだけを注文した僕達を嫌そうな目で見下ろし、注文を繰り返さずにメニューを持って奥へ下がった。
「さてと、ワケを話してもらおうか」
「遅刻の?」
僕が切り出すと、一瞬グリ子の目が泳いだ。
「とぼけるなよ。なんで仕事やめたの」
僕はいつになく強い態度で身を乗り出した。
今日はその話を聞くために出会ったのだ。
「……聞きたい?」
「そりゃ、まぁ。せっかく三十倍……だっけ? そんな倍率を突破してお役人になったのに」
グリ子はぎゅっと奥歯をかんで俯いた。何から、どう話せばいいのか考えているようだった。
「向いてなかったのよ、そういうの。規則、規則、規則……でね」
たしかに、グリ子は束縛されることを嫌う人間だった。そして強調性も適応力も欠けていた。
グリ子はじっくりと頭の中で言葉の順序を組み立てて、慎重に話し出した。
「私だって、最初は慣れようと努力したわ。これは仕事なんだからって割り切って。こうニッコリ笑って、何言われてもはいはいって言って。お金をもらってる分だけの仕事は完璧にこなしてたと思うの」
僕にはちょっと信じられなかった。彼女のようにプライドの高い人間にも愛想笑いができたなんて。
「で、疲れちゃった……と」
グリ子は顔を上げて僕を見つめた。どちらかというと睨めつけるように。
「それでもがんばったのよ。自分のやりたいことは自分の稼いだお金でやるんだって決めてたから。でもね、どうしても許せないことがあったの」
「へぇ……?」
グリ子は少し声のトーンを落として、周りに聞こえないように続けた。
「きれいな人のことを『きれい』って誉めちゃダメなの」
「はぁ?」
グリ子の黒い瞳は悔しさで揺れていた。僕もその馬鹿げた理由に言葉を無くした。
「お役人は全ての人に平等じゃなきゃいけないの。それはわかるんだけどね……。きれいな人を『きれい』って誉めると、差別なんだって。きれいな人は良くって、きれいじゃない人はダメっていうふうに、差別になっちゃうんだって」
僕が呆然としていると、グリ子は皮肉を含ませて笑った。
「あいつら、ちょっとおかしいのよ。でも、あそこではそういう決まりなの」
先程の無愛想なウエイトレスがコーヒーとオレンジジュースを運んできた。彼女は何も言わず僕たちの前にそれらを置いて、伝票をテーブルに放り投げた(僕にはそう見えた)。
グリ子は一気にオレンジジュースを半分飲んだ。僕も少しコーヒーをすすった。
「でね、そんな連中が飲み会のときに鍋奉行やってた私にこう言ったの。『おまえ、病気持ってないだろうな』って」
僕はやれやれといった具合に肩をすくめた。ジーンズのポケットからタバコを取り出し、グリ子にもすすめてみた。グリ子は、「私はこれがあるから」と言って、カバンから禁煙パイポを取り出した。
「禁煙?」
グリ子は笑って首を振る。しばらく見ないうちに、本当に彼女はよく笑うようになった。
「これもダイエット。口が寂しいときにくわえるの。飴やガムだと糖分が含まれてるし、タバコは体に悪いから」
なるほど、と僕は唸った。彼女の発想は凡人の僕とは少しずれていた。
「自分が思ったことを正直に口に出せないのって、結構ストレスが溜まるのよ」
グリ子は再び話を戻した。
「でも、一番下っ端の私が規則や上司に逆らうわけにもいかないじゃない。だから言いたいこと我慢して、へらへら笑って他人のご機嫌ばかり伺って……」
「おまえがねぇ……」
「私だってそれくらいのことはできるわよ」
「本当に?」
僕は少し苦いな、と思いながらコーヒーをそのまま飲み続けた。グリ子はまた俯いてしまった。
「……だんだん、仕事とプライベートの区別ができなくなっちゃったけど」
僕はグリ子が昔と変わらず不器用なままだとわかって、少しだけ安心した。
よく笑う彼女は、僕を置いて大人になってしまったんじゃないかと心細くなっていたところだった。
「ねぇ、モリナガ君、知ってるでしょ?」
「何を?」
「私が自分勝手だってこと」
僕は大きくうなずいた。誰よりよく知っている。
「私はね、他人のご機嫌をいちいち気にかけていられるほど器用じゃないの。私はただ、自分の思うように生きていくの。だからね、このままじゃいけないって思ったの。それでやめたのよ」
そこまで言い切ると、グリ子はようやくこの一年間のうっぷんを全て吐き出したようで、とても晴れやかな顔に変わった。
「なんだかんだ言って、結局は私のワガママなんだけどね」
そう言って微笑んだグリ子は、やはり僕より少し先に大人になりはじめているようだ。
「……で、これからはどうするの」
グリ子は首を振った。何も決めていないらしい。
僕は溜め息をついた。彼女はどうして僕と付き合っているのだろう。
「グリ子」
「ん?」
彼女はグラスの氷をストローでつついて、僕と目を合わそうとしない。
「おまえってさ、いつもそうだよな」
「何が」
「だから……その……」
僕は以前からずっと思っていたことを訴えようとした。けれど、いざとなるとうまく言葉が出てこない。
なるべく彼女を怒らせないようにと気をつけた。
「……大切なことをひとりで決めてしまってさ。誰にも相談せずに」
グリ子は黙って僕の子供染みた不満を聞いていた。
「俺さ、おまえと一緒の大学に行くつもりだったんだけどさ。いつになったら大学決めるんだろうって思ってたら、就職決まったって言いに来るし。そうかと思えば今度はやめたって言うだろ」
僕はずっと悔しかった。彼女から悩み事らしきものを打ち明けられたことは、一度もなかった。
グリ子と僕は考え方がずいぶん違ったし、当時から僕のほうがかなり幼かったのだから仕方ないのだけれど。
「いつも事後報告なんだよな」
僕はつい吐き捨てるように言ってしまった。
グリ子は反論しようと言葉を選び始めた。僕たちに共通しているのは、話し方がとても不器用だということだけかもしれない。
「だって、みんな反対するじゃない。私、そんなに強くないから、みんなの反対押し切ってまで自分の思うようにできないよ」
「でも、相談くらいしてくれたっていいだろ。もしかすると考えが変わるかもしれないし」
グリ子は強い目で僕の目をのぞき込んだ。僕も負けないように彼女の目を見た。
「変えたくないのよ。私、いつもそのときそのときで一番いいと思うことしかしてないのよ。そりゃ、後悔することもあるけど……。でも、何だって最終的には自分で決めなきゃいけないじゃない? それなのに私が『これだっ!』って思ったこと以外にいいことがあったら、私決められなくなっちゃうわ」
僕は何も言い返せなかった。
グリ子はすまなそうに謝った。
結局、僕達はどちらも子供なんだ。
「……出ようか」
僕はテーブルの上の伝票を握り締めた。
「おごり?」
「はいはい」
僕達は喫茶店を出てしばらく街を歩いた。
「あのさ」
「ん?」
信号待ちの間に、僕はずっと言おうかどうしようか迷っていたことを彼女に話してみることにした。
「俺、九州に行くことにしたよ」
グリ子はひどく驚いた。
「大学の時の先輩が小さな会社を作ってさ、人手が足りないから来てくれないかって言われてるんだ。だから……」
「イヤだ、行かないで!」
今度は僕が驚いた。まさかそんな反応が返ってくるとは思っていなかった。彼女は僕の腕を強くつかんで、目を潤ませながら何度も首を振る。
「え……?」
僕が戸惑っていると、彼女は腕を離して微笑んだ。今日一日の中で、一番素敵な笑顔だった。
「……って言えばいいのかな。それとも、『がんばって』って言えばいいのかな」
「グリ子……」
僕は改めて彼女の不器用な優しさを感じた。
「ごめんね、私バカだからよくわかんないわ。でも、どこにいたって、私たち一番の友達よね」
グリ子が差し出した手を握り返してうなずいた。
「あぁ。……落ち着いたら手紙書くよ」
そして僕たちはわかれた。
その後、僕達はお互いに風の便りで消息を確認しあったけれど、僕は結局一度も手紙を出せないままでいる。