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ホストに溺れた妻が俺を撃った日、俺はすべてを捨てて彼女の世界から消えた

作者: 熾星
掲載日:2026/06/18

 


 プロローグ



 妻の篠宮凛華が、歌舞伎町のホストのために俺へ銃を向けた瞬間、俺はようやく理解した。かつて肩を並べ、血の中を生き抜いてきた恋人は、もう俺のことを邪魔な過去としか見ていなかったのだ。


 前の人生で、俺は彼女のために銃弾を受け、道を作り、篠宮家から追い出された養女だった凛華を、篠宮家の頂点にまで押し上げた。けれど彼女はホストのために離婚届を用意し、俺に薬を盛り、ついには俺のたった一人の妹まで死に追いやった。


 すべてが起こる前に戻った俺は、もう問い詰めなかった。引き止めもしなかった。ただ密かに資産を処分し、妹のために新しい身分を用意し、篠宮凛華の世界から完全に消えることだけを決めた。


 けれど俺が本当に姿を消してから、凛華はようやく気づく。ホストの優しさはすべて偽りで、かつて無条件に彼女を愛し、守り、血路を開いてきた男を、自分自身の手で遠ざけてしまったのだと。


 彼女は狂ったように俺を探し、跪いて戻ってきてほしいと懇願した。だが、もう遅い。今の俺は、妹と花屋を守りながら、ようやく手に入れた穏やかな人生を生きていきたいだけだった。


 彼女の後悔など、俺にはもう関係ない。



 1.六本木、夜明けの銃声


 二度目の人生が始まってから、俺は七夜連続で六本木の会員制クラブに通った。そこは常連しか入れない、東京でも限られた人間だけが知る店だった。薄暗い照明、高価なウイスキー、訓練されたように完璧な笑みを浮かべるホステス。俺は惜しげもなく金を使い、店で一番客の機嫌を取るのが上手い女を指名した。


 金を払えば、返ってくるサービスもそれなりに違う。彼女は俺の足元に膝をつき、シャツの袖口を整えながら、何も知らないふりで指先に優しさを乗せていた。


 夜明け前の午前五時。個室の外の廊下から、ようやく慌ただしい足音が聞こえた。次の瞬間、扉が蹴破られるように開いた。


 篠宮凛華が入口に立っていた。仕立てのいい黒いスーツを身にまとい、長い髪を後ろで束ね、顔色は東京の冬の海のように冷えきっている。彼女は俺の妻であり、表向きは警備会社、裏では東京の闇を仕切る篠宮警備保障の実質的な支配者だった。外の人間にとっての彼女は、優雅で、冷静で、強い女だ。


 だが今の彼女の視線は、俺の隣にいるホステスへまっすぐ突き刺さっていた。


「蓮。あなた、その女に本気なの?」


 声はひどく静かだった。俺はソファに背を預けたまま、彼女を見上げて笑った。


「何だよ。お前が歌舞伎町のホストを囲うのはよくて、俺が少し遊ぶのは駄目なのか?」


 凛華の目の奥が、すっと暗く沈んだ。俺はわざと肩をすくめ、彼女の神経を逆撫でするように続けた。


「少なくとも、この子はお前より優しい。人の顔色を見るのも上手いしな」


 個室の中が、死んだように静まり返った。ホステスは顔を真っ青にし、息をすることさえ忘れたように固まっている。次の瞬間、凛華は腰のホルスターから黒い拳銃を抜いた。


 それは篠宮家が裏で流している違法改造銃だった。篠宮の人間なら誰でも知っている。凛華はめったに銃を使わない。日本で銃声が響くということは、もう後戻りできない一線を越えたという意味だからだ。


 銃声が、耳の奥を震わせた。弾丸はホステスの耳元をかすめ、その後ろの酒棚を撃ち抜いた。ガラスが砕け、酒と破片が床一面に散る。ホステスは悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちた。


 凛華の銃口から、薄い硝煙が立ちのぼっていた。けれど彼女の顔には、何の表情もなかった。俺は眉をひそめ、ゆっくり立ち上がった。


「誰か呼んで、ここを片づけさせろ」


 それだけ言って、俺は洗面所へ向かった。扉を閉めると、鏡の中に自分の顔が映った。青白く、疲れ切り、目の下には濃い影が落ちている。だが、恐怖はなかった。この瞬間を、俺はずっと待っていたのだから。


 前の人生で、俺と篠宮凛華は五年間、夫婦だった。俺の名は霧島蓮。かつて東京の裏社会で、名の知られた荒事専門の男だった。銃の扱いは速く、格闘は正確で、厄介事の処理に手間取ったこともない。


 凛華が篠宮家から追い出されたとき、彼女を新宿の裏路地から救い出したのは俺だった。あの夜、彼女は全身傷だらけで、ゴミ置き場のそばで何人もの男に囲まれていた。立っているのもやっとのくせに、折れた短刀を握りしめ、絶対に頭を下げない目をしていた。


 俺は、その目に惹かれた。


 その後、俺は彼女に銃を教えた。近接格闘を教えた。裏の取引で生き残る方法を教えた。彼女が篠宮家に戻りたいと言えば、俺は道を作った。後継者の座を奪い返したいと言えば、邪魔者を片づけた。


 彼女が追われれば、俺は代わりに銃弾を受けた。彼女が囲まれれば、俺は血路を開いて彼女を逃がした。最後に彼女は、家から追い出された養女から、篠宮家の掌握者になった。俺は、俺たちはこのままずっと並んで歩いていくのだと思っていた。


 白石透に出会うまでは。白石透は、歌舞伎町のホストクラブに入ったばかりの新人だった。顔立ちは清潔で、声は柔らかく、重病の母親の治療費を稼ぐため、仕方なくこの世界に入ったと言っていた。凛華は初めて彼に会ったその日に、店にあった彼の借金をすべて払った。


 それから彼女は、彼に一流の医者を手配し、彼の母親を私立病院へ移した。さらに白石透を篠宮警備保障に招き入れ、自ら護身術を教え、車の運転を教え、ついには他人には絶対に触らせない自分の銃まで持たせた。


 俺が離婚届を見つけたのは、彼女の執務室にある金庫の中だった。そこにはすでに彼女の署名と印鑑があった。配偶者欄には、俺の名前をまねて書かれた文字まであった。日付は、俺たちの結婚記念日だった。


 前の人生で、俺はそこで壊れた。凛華の執務室へ飛び込み、白石透の持ち物をすべて叩き壊した。だがそのすぐ後、俺のたった一人の妹、陽菜が連れ去られた。


 ようやく見つけたとき、陽菜は東京湾近くの廃倉庫に閉じ込められていた。体中に傷を負い、精神は完全に壊れていた。凛華は倉庫の外に立って、冷たい目で俺を見ていた。


「霧島蓮。これが、透に手を出した代償よ」


 俺は彼女の前に跪き、陽菜を放してくれと頼んだ。だが、彼女は聞かなかった。最後に陽菜は俺の腕の中で死んだ。冷たくなっていく妹を抱きしめながら、俺の心も一緒に死んだ。


 その夜、篠宮家の敵対組織が襲撃を仕掛けた。俺は胸を撃たれ、血だまりの中に倒れた。そして次に目を開けたとき、俺は離婚届を見つけた日に戻っていた。


 今度の俺は、問い詰めなかった。怒鳴らなかった。もう彼女を信じもしなかった。俺は密かに自分の裏資産を売り払い、表に出せない人脈を処分し、海外へ逃げるための新しい身分を準備し始めた。


 俺が望んだのはただ一つ。陽菜を連れて、東京から離れること。篠宮凛華から離れること。血と裏切りにまみれたこの場所から、完全に消えることだった。



 2.結婚記念日の離婚届


 その日の夕方、俺は凛華の港区にある執務室へもう一度足を踏み入れた。金庫は休憩室の壁の裏に隠されている。暗証番号、虹彩認証、指紋認証。三重のロックがかかっていたが、かつての俺も開けることができた。


 凛華は昔、俺にこう言ったことがある。


「蓮、私はあなたにだけは全部見せられる。あなたは、私が唯一警戒しなくていい人だから」


 そのとき彼女は俺を抱きしめ、かすかに笑っていた。だが今の彼女は、すべての人間を警戒しながら、ただ一人、別の男にだけ刃を預けている。


 俺は金庫を開けた。一番下の段に、二つの書類が静かに置かれていた。一つは記入済みの離婚届。もう一つは、弁護士が用意した財産分与の契約書だった。そこには、俺が篠宮警備保障に関するすべての権利を自発的に放棄すると書かれていた。


 日付を見た瞬間、指先に力が入った。


 六月十七日。俺たちの結婚記念日だった。


 あの日、俺は彼女の好きな料理を作って待っていた。塩焼きのサンマ、味噌汁、筑前煮、それから彼女が一番好きだった卵焼き。リビングには白椿を飾った。凛華は昔、白椿は薔薇のようにうるさくなくて、静かで綺麗だと言っていた。


 俺は夕方から深夜まで待った。深夜から朝まで待った。料理は冷め、花は萎れた。彼女は帰ってこなかった。俺が送ったメッセージも、すべて無視された。


 あの日、彼女は篠宮の仕事で忙しかったわけではない。俺と離婚する準備で忙しかったのだ。白石透のために、俺という存在を綺麗に片づけようとしていた。


 俺は自分の分の離婚届の控えをポケットに入れ、休憩室を出ようとした。そのとき、扉の向こうから足音が近づいてきた。白石透の柔らかな声も聞こえる。


「凛華さん。ここ……本当に僕が入ってもいいんですか?」


「ここは、これからあなたの場所でもあるのよ。どうして駄目なの?」


 俺は目を細め、すぐに隠し部屋へ入った。暗室の扉が閉まった直後、休憩室の扉が開いた。凛華は白石透の手首を取って中へ入ってきた。その仕草は、あまりにも自然で親密だった。


 白石透は頬を赤らめ、低い声で言った。


「僕なんか、あなたに釣り合わない気がして。あなたは綺麗で、有能で、篠宮家を背負う人なのに。僕は歌舞伎町にいた人間ですから」


 凛華は彼の頬に手を伸ばし、軽くつまんだ。そんなに優しい顔をした彼女を、俺はもう長いこと見ていなかった。


「私が釣り合うと言ったら、釣り合うの。これからは私がいる。誰にもあなたを見下させない。もっといろいろ教えてあげる。私の隣に立てるようにしてあげる」


 その声は、ひどく甘かった。白石透は彼女を見上げ、依存しきった目をしていた。


「あなたに出会えたことが、僕の人生で一番の幸運です」


 次の瞬間、凛華は彼に口づけた。暗室の中は真っ暗だった。俺は冷たい壁に背を預け、外から聞こえる押し殺した息遣い、衣擦れの音、そしてよく知った彼女の声を聞いていた。


 一つ一つが、耳の奥に針のように刺さった。


 前の人生の俺は、ここで飛び出した。目を血走らせて彼女を問い詰めた。その結果、凛華は白石透の前で俺の胸を蹴り、保镖に俺の口を塞がせ、階段室へ引きずらせた。


 そして振り返り、白石透に笑ってこう言った。


「ただの、しつこくつきまとう男よ」


 今度の俺は、外へ出なかった。歯を食いしばり、口の中に血の味が広がるまで耐えた。やがて外の気配が消えた。


 凛華が白石透を連れて出ていったあと、俺はようやく暗室から出た。休憩室には、彼女の冷たい香りだけが残っていた。俺は床に落ちていたタイピンを拾った。


 それは俺が結婚記念日に彼女へ贈ったものだった。彼女はそれを、白石透が座っていたソファのそばへ無造作に捨てていた。


 俺はそのタイピンを長い間見つめた。そして、手を離した。タイピンはゴミ箱の中へ落ち、小さな音を立てた。その瞬間、俺は知った。


 霧島蓮という男は、あの暗室で一度死んだのだと。



 3.コーヒーに混ぜられた薬


 篠宮警備保障のビルを出たとき、東京の空はようやく白み始めていた。港区の通りは何事もなかったかのように清潔で、冷えていた。スマホを取り出し、車を呼ぼうとした瞬間、視界が突然暗くなった。


 次に目を覚ましたとき、俺は病院のベッドにいた。消毒液の匂いが、嫌でも意識をはっきりさせる。体を起こすと、医師がベッド脇に立っていた。手元の検査結果を見つめる表情は重く、声にもためらいがあった。


「霧島さん、検査結果が出ました。ここ最近、未承認のホルモン系薬物を長期的に摂取していた形跡があります。その影響で、身体に不可逆的な損傷が出ています」


 俺は一瞬、言葉を失った。


「どういう意味ですか」


「簡単に言えば、生殖機能に深刻な影響が出ています。今後、お子さんを望むのはかなり難しいかもしれません」


 病室が静まり返った。俺は検査結果の紙を見つめ、ふっと笑った。


 そういうことか。


 俺と凛華は、かつて本気で家庭を望んでいた。結婚式の日、俺たちは軽井沢の小さな教会で指輪を交換した。彼女は通りかかった花童を見て、目元に淡い笑みを浮かべていた。


 それから俺の肩に寄りかかり、低い声で言った。


「蓮。いつか私たちも子どもを持ちたいわね。一人はあなたに似て、一人は私に似て。家の中が賑やかになったらいい。篠宮家みたいに冷たい場所じゃなくて」


 俺はあのとき、本気で信じた。彼女は俺と一生を過ごしたいのだと。その後、彼女の仕事が安定し、俺たちは子どもを考え始めた。


 だが最近、彼女はよく自分の手で俺にコーヒーを淹れるようになった。俺はそれを、彼女がようやく人の世話を覚えたのだと思っていた。今思えば、笑えるほど愚かだ。


 彼女は俺の子どもを妊娠するのが怖かったのだ。それ以上に、白石透に俺との関係がまだ完全には切れていないと知られるのが怖かった。だから彼女は、俺のコーヒーに薬を混ぜた。一杯、また一杯と。俺が父親になる最後の可能性まで、彼女は自分の手で壊した。


 俺は検査報告書を握りしめた。指の関節が白くなる。だが、崩れている時間はなかった。


 前の人生で陽菜が連れ去られたのは、俺が離婚届を見つけてからすぐだった。今度こそ、先に陽菜を逃がさなければならない。


 俺はすぐに退院手続きをした。病院を出ると、金でしか動かない仲介人に連絡した。


「新しい身分が二つ必要だ。男一人と、二十歳そこそこの女一人。三日後には動けるようにしろ」


 電話の向こうで、相手が笑った。


「霧島さん、そういう仕事は安くありませんよ」


「金は問題じゃない」


 その後、俺は腹心の山崎へ電話を入れた。


「今すぐ陽菜を迎えに行け。マンションには戻るな。いつもの道も使うな。前に話したセーフハウスへ連れていけ」


 山崎は何かを察したのか、声を低くした。


「霧島さん、篠宮のほうですか」


 俺は病院の入口を行き交う人々を見ながら、声を抑えた。


「聞くな。今からは、陽菜の命が俺の命より重い」


 すべてを手配してから、俺は世田谷の別邸へ戻った。車を降りた瞬間、冷たい銃口が額に押し当てられた。篠宮凛華が、目の前に立っていた。


 目は血走り、顔には抑えきれない怒りが浮かんでいる。


「白石透はどこ?」


 俺は彼女を見た。一瞬、何を言われているのか理解できなかった。白石透が見つからなくなった。その最初の反応が、俺を疑うことなのか。


「知らない」


 俺の声は平坦だった。


「知らない?」


 凛華は冷笑した。次の瞬間、彼女の指が引き金にかかった。弾丸が俺の耳元をかすめ、後ろの車のドアへ撃ち込まれた。耳の奥が鳴り、世界の音が一瞬遠のく。


 彼女は一歩ずつ俺に近づいてきた。


「蓮、しらばっくれないで。午前中、あなたは私の執務室にいたわよね。あなたは昔から容赦がない。彼の存在を許せるはずがない。透を返しなさい」


 俺は、彼女の赤く濁った目を見つめた。心に残ったのは、怒りではなく、ただひどい滑稽さだった。


「俺の行動は調べれば分かる。ここで時間を無駄にするより、さっさと探しに行け」


 凛華の目がわずかに揺れた。だがその迷いは、すぐに偏執に塗りつぶされた。


「縛って。スタンガンを使いなさい。透の居場所を吐くまで続けて」


 保镖たちが前に出た。俺は地面に押し倒され、スタンガンを腰に押し当てられた。激痛が一瞬で全身を貫き、体が痙攣する。冷や汗がシャツを濡らした。


「俺は……本当に知らない……午前中は……病院にいた……」


 歯を食いしばりながら、途切れ途切れに声を出した。凛華が手を上げ、いったん止めさせた。


「病院?何をしに?」


 俺が口を開こうとした瞬間、秘書の佐伯亮が慌ただしく駆け込んできた。


「凛華様!白石さんが見つかりました!」


 凛華の顔色が変わった。


「どこ?」


「以前、篠宮から逃げた者たちに連れ去られています!」


 凛華は俺をもう一度も見なかった。すぐに背を向け、外へ走っていく。その走り方は、まるで一秒でも遅れれば、白石透が彼女の世界から消えてしまうとでも思っているようだった。


 俺は地面に縛りつけられたまま、全身に傷を負い、起き上がる力もなかった。彼女の命令がない限り、保镖たちは俺の拘束を解こうとしない。


 俺は彼女の背中を見つめていた。胸の奥が、静かに空洞になっていく。彼女にとって俺は、もう夫ではない。白石透を傷つけるかもしれない、ただの危険物だった。


 意識が闇に沈む直前、俺が考えたことは一つだけだった。よかった。陽菜は、もう逃げた。



 4.病室の外で交わされた約束


 再び目を覚ましたとき、また病院の消毒液の匂いがした。ここ数日、俺は病院でばかり目を覚ましている気がする。まぶたを開ける前に、扉の外から佐伯亮の声が聞こえた。


「凛華様、白石さんのために霧島さんへ手を上げた件ですが、彼が目を覚ましたら、黙ってはいないかと」


 扉越しに、凛華の声が届いた。冷静で、確信に満ち、どこか軽かった。


「先に宥めるわ。蓮は私を愛しているもの。離婚届を出さないと約束すれば、たぶん我慢する」


 俺は目を開けた。天井の白さが、やけに目に刺さった。外で凛華が続ける。


「でも、透のことは必ず守って。蓮は腕が立つし、心も冷たい。本気で透を狙ったら、あなたたちでは止められないかもしれない」


 彼女は少し間を置いた。


「彼には妹がいたわよね」


 俺の指が、シーツを強く握りしめた。凛華の声が低くなる。


「見張っておいて。もし蓮が透に指一本でも触れたら、妹を連れてきなさい。蓮は大人しくなる」


 その瞬間、胸の奥が音もなく裂けた気がした。


 最後の抗争のとき、俺は彼女のために一発の銃弾を受けた。弾は背中から入り、胸を抜けた。彼女の腕の中に倒れた俺は、本気で死ぬのだと思った。


 あのとき、凛華は俺を抱きしめ、目を真っ赤にして言った。


「蓮、これからはもう、誰にもあなたを傷つけさせない」


 けれど今、俺に銃を向けたのは彼女だった。スタンガンで問い詰めたのも彼女だった。陽菜を脅しの道具にしようとしているのも、彼女だった。


 俺は目を閉じた。喉の奥に、鉄の味がこみ上げる。やがて病室の扉が開いた。


 凛華が入ってきた。俺がすでに目を覚ましているのを見ると、彼女は一瞬足を止めた。


「蓮。起きていたのね」


 俺は何も言わなかった。彼女はベッドの横に立ち、上から俺を見下ろした。


「昨日は、少し加減を間違えたわ」


 彼女は一拍置き、続けた。


「でも、あなたは昔から体が丈夫でしょう。このくらいの傷、大したことないはずよ」


 俺はその言葉を聞きながら、ひどく知らない女を見ている気分になった。昔の彼女は、俺が少し怪我をしただけで眉をひそめた。ある夜、俺は手の甲を刃物で浅く切られたことがある。医者がただの皮膚の傷だと言っても、彼女は夜中に車を飛ばして病院まで連れていき、傷を縫わせた。


 そのあと、俺に傷を負わせた相手の手を一本潰した。今の俺は、スタンガンで気を失うほど痛めつけられた。それでも彼女は、このくらいの傷と言った。


 俺が返事をしないでいると、凛華は眉を寄せた。少し苛立っているようだったが、それでも我慢して椅子に座った。


「白石透は、あなたの立場を脅かす存在じゃない。私の中で一番大切なのは、今でもあなたよ」


 笑いそうになった。一番大切。もし俺が一番大切なら、なぜ離婚届を用意した。なぜ薬を盛った。なぜ白石透のために、俺の額へ銃口を押し当てた。


 だが俺は何も暴かなかった。まだその時ではない。ただ淡々と言った。


「分かった」


 凛華は明らかに安堵した。彼女はきっと、俺がまだ昔の霧島蓮だと思っているのだろう。彼女の言葉ひとつで機嫌を直し、何もかも飲み込む男だと。


 その後の二日間、凛華はたまに病室へ顔を出した。だが滞在時間は、毎回十分にも満たなかった。看護師によると、彼女はほとんどの時間を白石透の病室で過ごしていたらしい。


 彼に食事を食べさせ、薬を用意し、会社の書類まで彼の病室に持ち込んで処理していたという。俺のところへ来るのは、白石透が眠っているときだけだった。ベッドのそばに座っても、彼女はただスマホを見ているだけだった。


 その冷めた横顔を見ていると、初めて彼女に出会った日のことを思い出した。あの年の冬、彼女は篠宮家から追い出された。篠宮家の実の娘である篠宮椿を傷つけたからだ。誰もが彼女を、恩知らずな養女だと言った。


 だが俺だけは知っていた。あの日、先に凛華を地下室へ閉じ込めるよう命じたのは篠宮椿だった。凛華が逃げ出してきたとき、全身は血まみれだった。


 俺は彼女を助け、自分の古いアパートへ連れ帰った。彼女が目を覚ましたとき、最初に言ったのは礼ではなかった。


「私を助けて、あなたは何を得るつもり?」


「今のお前に、俺が欲しがるものなんてあるのか?」


 俺はそう言って笑った。彼女は長い間、俺を見つめていた。そして、ふいに目を逸らした。


 それから俺たちは、あの古いアパートで一緒に暮らした。俺は彼女に銃を教え、彼女は俺に料理を教えた。彼女の味噌汁はひどくまずかったが、俺は毎回残さず飲んだ。


 やがて彼女が篠宮家に戻りたいと言ったとき、俺は理由を聞かなかった。ただ、分かったと言った。彼女が権力を望むなら、俺が奪った。彼女が居場所を望むなら、俺が道を敷いた。


 彼女が最も高い場所へ立ちたいと言うなら、俺は一歩ずつ隣で登った。あのころの俺たちは、互いを一番信じていた。命を預けてもいい恋人だった。だが今はどうだ。俺が命をかけて守った女は、最後に俺を一番深く傷つける人間になった。



 5.爆発のあとに向けられた銃口


 出ていく日、俺は予定より早く退院手続きを済ませた。山崎はすでに陽菜を連れて新しい身分と航空券を受け取りに向かっている。あと数時間で、俺たちは東京を離れられる。


 薬の入った袋を手に、入院棟の廊下を歩いていたとき、不意に配薬用のワゴンにぶつかった。薬瓶が床に転がる。俺がかがんで拾おうとすると、誰かが先にその瓶を拾って差し出してきた。


 顔を上げると、そこに白石透がいた。まだ顔色は悪く、口元には痣が残っている。病衣を着た姿は、清潔で、害のなさそうな青年そのものだった。


 彼は柔らかな声で言った。


「霧島さん。顔色が悪いです。看護師さんを呼びましょうか」


 俺は彼の目に浮かぶ気遣いを見つめた。妙な気分だった。彼は前の人生で、俺がすべてを失うきっかけになった男だ。だが今の人生で見れば、ある意味では、凛華の偏執と愚かさを映し出す鏡に過ぎない。


 俺は答えず、首を横に振った。


「俺から離れろ。凛華が俺たちが会ったと知れば、また狂う」


 白石透は固まった。俺はそのまま歩き出そうとした。だが数歩進んだところで、背後から轟音が響いた。


 建物全体が大きく揺れ、火災報知器が耳をつんざくように鳴り出す。廊下は一瞬で混乱に包まれた。看護師の悲鳴、逃げる患者たち、通路の奥から流れてくる濃い煙。


 胸の奥が、嫌なふうに沈んだ。俺はすぐに非常階段へ走った。角を曲がったところで、ふと後ろを見た。


 白石透が人波に押され、床に倒れていた。揺れで外れた天井材が、まっすぐ落ちて彼の脚を押しつぶしている。顔は痛みで真っ白になっていたが、彼は歯を食いしばり、声を上げずに耐えていた。


 俺は足を止めた。頭の中に、凛華が彼のために狂う姿が浮かんだ。そして前の人生で、陽菜が死んだ顔も浮かんだ。


 俺は行くべきだった。今すぐ逃げなければならなかった。それなのに次の瞬間、俺は小さく悪態をつき、彼のもとへ引き返していた。


「動くな!」


 俺はその場にしゃがみ込み、天井材の端を両手でつかんだ。石膏ボードに金属の骨組みが絡み、まるで一人分の命を丸ごと押さえつけているように重かった。


 白石透は呆然と俺を見た。


「どうして……」


「無駄口を叩くな!生きたいなら這い出ろ!」


 額に血管が浮くほど力を込めた。彼は歯を食いしばり、隙間から少しずつ体を引き抜いた。煙はさらに濃くなっていく。


 俺は彼を抱え起こし、よろめきながら出口へ走った。扉が近づいたところで、白石透は突然意識を失った。俺は負傷した体で彼を肩に担ぎ、引きずるようにして外へ出た。


 ようやく病院の正面玄関から転がり出たとき、俺は体力を使い果たし、彼と一緒に地面へ倒れ込んだ。


 遠くで急ブレーキの音がした。凛華が車から飛び降りてきた。彼女は一目で白石透を見つけ、顔色を変えた。


「透!」


 彼女は地面に膝をつき、白石透を腕に抱き込んだ。震える指で彼の呼吸を確かめる。彼がまだ生きていると分かった瞬間、ようやく息を取り戻したように表情を緩めた。


 そして、俺を見た。そのわずかな安堵は、すぐに怒りへ変わった。


「霧島蓮。どうしてあなたが透と一緒にいるの?」


 声は恐ろしいほど冷たかった。俺は地面に這いつくばったまま激しく咳き込んだ。喉は焼けたように痛み、口の中には血の味が広がっていた。


「ただの……偶然だ」


 凛華は冷笑した。


「偶然?病院が爆発して、偶然あなたが透のそばにいた。ずいぶん都合のいい偶然ね」


 そのとき、佐伯亮が一人の怪しい男を押さえつけながら走ってきた。


「凛華様、捕まえました。裏口から逃げようとしていました」


 凛華はすぐに銃を抜き、男の額へ押し当てた。


「誰の命令で爆発を起こしたの。霧島蓮?」


 男は一瞬固まった。だがすぐに、憎悪に満ちた目で俺を見た。そして凛華へ向かって叫んだ。


「そうだ!あんたが霧島さんを裏切ったからだ!全部、霧島さんの指示だ!」


 血が一気に冷えた。嘘だ。あるいは、最初から俺に罪を着せるつもりで用意された男だったのだ。


 だが、凛華は俺に弁明の機会を与えなかった。彼女はその男を一発で撃ち殺した。そして銃口を、俺へ向けた。


「あなたは透に嫉妬している。彼を殺そうとしたのね?」


 俺は地面に手をつき、必死に顔を上げた。


「俺は、今そいつを助けた」


「黙って!」


 再び銃声が響いた。左脚に激痛が炸裂し、俺は地面へ崩れ落ちた。視界が暗くなる。血が一気にズボンを濡らしていく。


 凛華は俺の前に歩み寄り、ハイヒールの踵で傷口を踏みつけた。痛みで全身が痙攣し、声すら出なかった。彼女は俺を見下ろしていた。まるで、ようやく従わせた敵を見るように。


「蓮。これが、透に手を出した代償よ。次に彼を狙ったら、潰すのは片脚では済まない」


 そう冷たく言い捨てると、彼女は白石透を抱き上げて去っていった。一度も振り返らなかった。痛いかとも聞かなかった。なぜ俺が火の中から白石透を助け出したのかも、聞かなかった。


 俺は地面に這いつくばったまま、震える手でスマホを取り出した。通話がつながった瞬間、山崎の焦った声が聞こえた。


「霧島さん?」


 俺は歯を食いしばり、ほとんど声にならない声で言った。


「すぐに陽菜を連れて取引場所へ行け。新しい身分と航空券を受け取れ。そのあと、病院の裏口へ来い」


 山崎は一秒だけ沈黙した。


「お怪我を?」


 俺は、遠くで凛華が白石透を抱いて去っていく背中を見た。そして、笑った。


「ああ。今度こそ、本当に行くべき時だ」


 山崎が到着したころ、俺の左脚はほとんど感覚がなくなっていた。陽菜も来ていた。彼女は俺の血まみれの脚を見た瞬間、涙をこぼした。


「お兄ちゃん、何があったの?」


 俺は手を伸ばし、彼女の涙を拭った。


「大丈夫だ。ここを出るぞ。今日から、東京に霧島蓮はいない」


 俺の声は静かだった。


 だが、これ以上ないほどはっきりしていた。



 6.彼女はようやく、俺が消えたことに気づいた


 白石透が目を覚ましたとき、凛華はずっとベッドのそばにいた。彼の手を握り、俺にはもう向けられなくなった優しい目で彼を見ていた。


 彼女は低い声で言った。


「透、ごめんなさい。私が行くのが遅くなって、つらい思いをさせたわ」


 白石透は顔色が悪く、声もかすれていた。


「凛華さんは、どうやって僕を見つけたんですか?」


 彼は少し間を置いた。


「あのとき……僕のそばに、誰もいませんでしたか?」


 凛華の目に、一瞬だけ複雑な色が浮かんだ。彼女はもちろん、俺がそこにいたことを知っている。だが、言わなかった。


「いなかったわ」


 彼女は優しく布団を整えた。


「廊下の奥であなたを見つけたの。そばには誰もいなかった」


 白石透は目を伏せた。数秒後、かすかに呟いた。


「そうですか」


 凛華は彼が怖がっているのだと思ったのか、すぐに宥めた。


「もう考えないで。全部終わったわ。これからは私があなたを守る。二度と誰にも傷つけさせない」


 白石透は彼女を見つめ、静かにうなずいた。凛華は長い時間、彼に付き添った。病室を出ると、佐伯亮に命じた。


「城東の庭付きの別邸を整えなさい。数日後、透をそちらへ移すわ。あそこなら警備も厚い」


 佐伯は頭を下げた。


「承知しました」


「それから、霧島蓮のところへ金を届けて。以前あの人が好んで使っていた装備も渡しなさい」


 佐伯は一瞬固まった。


「凛華様……」


 凛華の目が冷たくなった。


「伝えて。金を受け取って、どこへでも消えろと。二度と私にまとわりつくな。透にも近づくな」


 彼女はそこで少し黙った。


「二人ほど見張りをつけなさい。あれだけ重傷なら、遠くへは行けない。もう余計なことをさせないで」


 凛華は、俺がまだ東京にいると思っていた。昔のように、どこかの私立病院で傷を治しているのだと。彼女が本気で探せば、必ず見つかると思っていた。


 だが、一日経っても佐伯は俺を見つけられなかった。二日経っても、どの病院にも俺の記録はなかった。三日目には、陽菜の姿まで消えていた。


 凛華は執務室に座ったまま、佐伯の報告を聞いていた。指先が少しずつ強く握り込まれていく。


「どういう意味?人が消えた?」


 佐伯は頭を下げた。


「公立病院、私立病院、裏の診療所、すべて確認しました。霧島さんの姿はありません。妹の霧島陽菜さんも、まるで最初から存在しなかったように足取りが途切れています」


 凛華の胸に、意味の分からない重さが沈んだ。ありえない。左脚を撃たれ、あれほどの重傷を負った男が、陽菜を連れて消えるはずがない。


 佐伯は少しためらってから、声をさらに低くした。


「もう一つ、報告があります。霧島さんが以前病院で受けた検査記録を見つけました」


 凛華は顔を上げた。佐伯の声は、さらに沈んでいた。


「記録によると、霧島さんは長期にわたってホルモン系薬物を摂取していました。その影響で、身体に不可逆的な損傷が出ています。医師の判断では、今後子どもを持つことはかなり難しいとのことです」


 空気が凍りついた。凛華の顔色が変わった。


「何ですって?」


 彼女が俺のコーヒーに薬を混ぜ始めたのは、最近のことだった。この時期に俺との子どもを作らないため。白石透の前で、俺との関係を曖昧に残したくなかったため。


 だが、すでに不可逆の状態になっているとは思っていなかった。つまり、彼女が俺へ銃を向け、スタンガンで痛めつけていたとき、俺はもうすべてを知っていたのだ。


 離婚届のことも。薬のことも。白石透のためなら、彼女が俺を壊せることも。


 それなのに、なぜあんなに静かだったのか。なぜ問い詰めなかったのか。なぜ前の人生のように、狂ったように怒らなかったのか。


 凛華の脳裏に、俺が彼女を見ていた目が浮かんだ。冷たく、死んだように静かで、まるでもう彼女など重要ではないと言っているような目だった。


 胸の奥で、何かがざわめいた。電話を切ったあと、彼女は白石透の病室へは戻らなかった。足は自然と、会社の西側にある訓練室へ向かっていた。


 そこは、かつて俺たちがよく使っていた場所だった。俺はここで、彼女に射撃を教えた。初めて彼女が的の中心を撃ち抜いたとき、彼女は子どものように興奮していた。


 俺は彼女の後ろに立ち、手首を支えながら笑った。


「凛華、お前は生まれつき銃が似合う」


 彼女は振り返った。


「じゃあ、あなたは?」


「俺は、お前の隣に立つのが似合う」


 今、訓練室はがらんとしていた。壁にはまだ標的の紙が掛かっている。だが床には薄く埃が積もっていた。


 凛華は入口に立ったまま、ふと胸の中まで空になったような気がした。彼女は踵を返し、執務室へ戻った。


 扉の前に着いたとき、白石透が壁際の金庫の前に立っていた。彼はうつむき、何かを見ているようだった。


 凛華の目が一瞬で冷える。


「何をしているの?」


 白石透の体が強張った。振り返った彼の顔には、戸惑いが浮かんでいた。


「僕……こういう金庫を見たことがなくて。ただ、少し気になっただけです」


 彼の目は相変わらず澄んでいて、温かかった。凛華は数秒彼を見つめ、警戒をゆっくり解いた。


「これは虹彩認証よ。開けられるのは、私と蓮だけ……」


 言いかけて、彼女は突然言葉を止めた。白石透が彼女を見上げる。


「蓮?」


 凛華は答えなかった。目を認証部分へ近づけると、金庫の扉が静かに開いた。


 次の瞬間、彼女は動けなくなった。


 金庫の一番目立つ場所には、離婚届が一通だけ残っていた。彼女は確かに覚えている。ここには二通あった。そのうち一通は、俺の分だった。今、それがない。


 凛華の呼吸が、一拍遅れた。俺が持っていったのだ。俺はずっと前に見つけていた。彼女が離婚を準備していたことも、俺を人生から消そうとしていたことも、すべて知っていた。


 それでも何も言わず、静かに、本当に消えた。


 白石透がそっと尋ねた。


「凛華さん、結婚していたんですか?」


 凛華ははっとして振り返った。白石透の目は、やはり優しかった。本当に彼女の説明を待っているだけのように見えた。


 凛華は胸の奥の動揺を押し込めた。


「ええ。昔、結婚していたわ。でも、もう終わったことよ。今さら話すのは、遅すぎたかしら」


「遅くありません。嫉妬はしますし、あなたの過去も知りたいです。でも、僕が現れる前に、あなたのそばに誰かがいてくれたことは、少し嬉しいです」


 白石透は彼女の手をそっと握った。凛華の心が、また少し柔らかくなる。


 彼女は白石透を抱きしめた。


「もう誰にも私たちを邪魔させない。これからは、ずっとあなたのそばにいるわ」


 そう言いながらも、彼女の頭には俺の顔が浮かんでいた。病院の前で血まみれになりながら、白石透を抱き上げる彼女を見ていた俺。


 その目には恨みすらなかった。ただ、完全な冷たさだけがあった。



 7.白石透の本性


 白石透が城東の別邸に移ってから、凛華はほとんど毎日彼に付き添った。会社には形だけの楽な役職を与え、いつでも自分の視界に入る場所へ置いた。


 仕事が終わると二人で別邸へ帰った。白石透は彼女のためにスープを作り、どうでもいい小さな話を柔らかな声で語った。彼は優しく、静かで、俺のように強引ではなかった。


 だが日が経つほど、凛華は理由もなく苛立つようになった。白石透が手作りのスープを運んでくると、昔、俺が料理を覚えようとして手の甲に油の火傷を作ったことを思い出した。


 白石透が銃を持つと、そのぎこちなさに、俺が引き金を引くときの無駄のない横顔を思い出した。誰かと組み手をしたくても、保镖たちは本気で彼女に手を出せない。白石透は何もできない。


 俺のように、彼女と真正面から打ち合い、最後の一瞬で力を止めて、決して彼女に怪我をさせない相手はどこにもいなかった。


 ある日、凛華は会社の用件があると周囲に告げ、一人で郊外の古い家へ向かった。そこは、俺が彼女を救ったあと、二人で暮らしていた家だった。


 家は小さく、玄関脇の郵便受けは錆びていた。リビングのソファとテーブルには薄く埃が積もっている。だが壁には、俺たちが初めて撮った写真がまだ掛かっていた。


 写真の中で、俺たちは笑っていなかった。俺は黒いジャケットを着て、肩にまだ傷を負っていた。彼女は俺の隣に立ち、顔色は悪かったが、目だけは珍しく穏やかだった。


 凛華はその写真を見つめた。心臓が少しずつ締めつけられていく。彼女は多くのことを思い出した。


 俺が彼女に銃を教えるとき、後ろから手首を支えてくれたこと。俺が彼女のために銃弾を受け、目を覚ました第一声で、彼女が怪我をしていないか尋ねたこと。彼女が篠宮家を奪い返した夜、酔った勢いで俺に抱きつき、こう言ったこと。


「蓮、あなたがいなかったら、私は何者にもなれなかった」


 それなのに、自分はいつから変わってしまったのか。俺の強さに飽きたのか。それとも白石透の清潔で柔らかな雰囲気に騙されたのか。


 だが最初に彼女が愛したのは、彼女のために血路を開ける俺の冷酷さだったはずだ。白石透に銃を教え、会社へ入れ、自分の隣へ置こうとしたのも、結局は彼を俺に近づけようとしていたからではないのか。


 一つの考えが、凛華の中に鮮明に浮かんだ。俺を探し出さなければならない。


 凛華はすぐに佐伯へ電話をかけた。その声には、これまでにない焦りがにじんでいた。


「霧島蓮を探して。手段は問わない。世界中をひっくり返してでも、必ず見つけなさい」


 だが一日経っても、二日経っても、佐伯が持ってくるのは悪い知らせばかりだった。


「航空機の搭乗記録はありません。新幹線の記録もありません。密航ルートにも、それらしい人物を見た者はいません。新しい身分を使っている可能性が高いです。痕跡の処理を手伝った者もいるはずです」


 凛華の苛立ちは日に日に強くなった。白石透が、ただ彼女がどこへ行っていたのか尋ねただけでも、彼女は声を荒らげるようになった。白石透が傷ついたような顔をすると、少しは罪悪感も覚えた。


 だが、それ以上に俺が見つからない焦燥が彼女を支配していた。彼女は初めて気づいた。かつて必ず自分の後ろに立っていた男が、今度こそ本当に去ったのだと。


 深夜、城東の別邸は恐ろしいほど静かだった。凛華はリビングの床に座り込んでいた。周囲には空の酒瓶が転がっている。彼女は瓶を握ったまま、指を震わせ、低く呟いた。


「蓮……戻ってきて。お願い……私が悪かった……」


 何本目かも分からない酒を飲み終えたあと、彼女はソファに手をついて立ち上がった。二階へ上がり、シャワーを浴びようとした。客室の前を通りかかったとき、中から白石透の声が聞こえた。


「篠宮凛華は今、霧島蓮を探すことしか考えていない。完全に乱れている。動くなら今が一番いい」


 凛華の足が止まった。扉の向こうで、白石透は声を潜めて続けた。


「この前の病院の爆発は、かなり上手く組んであったんだ。なのに彼女が急に別の場所へ行ったせいで計画が崩れた。罪をかぶせる予定だった男も、その場で撃ち殺されたしね」


 彼は小さく笑った。


「それにしても、霧島蓮が僕を助けるとは思わなかった。惜しかったな。彼が消えていなければ、まだ篠宮凛華を揺さぶる駒に使えたのに」


 凛華の全身の血が、一瞬で凍りついた。彼女は勢いよく扉を開けた。白石透が振り返る。彼の顔から血の気が引いた。手にしていたスマホが床に落ちる。


 凛華は一歩で近づき、彼の首をつかんで壁へ叩きつけた。


「言いなさい。誰に送り込まれたの」


 声は、歯の間から押し出したように低かった。白石透は首を絞められ、顔を赤くしながらも、唇を噛んで何も言わなかった。


 凛華は彼を床へ投げ捨てた。そして扉の外の保镖たちへ命じた。


「地下室へ連れていきなさい。しっかり吐かせて」


 ほどなくして、佐伯が資料を持って駆け込んできた。


「凛華様、分かりました。白石透は、篠宮椿と幼なじみです。篠宮椿を精神病院へ送ったあと、彼はずっとあなたの周囲の人間へ接触していました」


 凛華は冷たく笑った。


 そういうことか。篠宮椿。篠宮家の実の娘。あの女を精神病院へ送ったのは凛華だった。世間では、篠宮椿は自殺したことになっている。だが、その自殺未遂の裏にどれほど多くの人間が関わっていたのか、知る者は少ない。


 白石透が近づいたのは、愛のためではない。篠宮椿の復讐のためだった。


 地下室で、白石透は椅子に縛られていた。全身に傷を負っている。それでも目だけは、まだ折れていなかった。


 凛華は彼の前に立ち、上から見下ろした。


「椿のために来たのね。あなた程度が、私を篠宮家から引きずり下ろせると思ったの?」


 白石透は顔を上げた。その目には、はっきりと憎しみが宿っていた。


「椿の名前を呼ぶ資格なんて、あなたにはない。今あなたが持っているものは、本来すべて彼女のものだった。あなたはただの、居座った泥棒だ」


 凛華の目が冷えた。


「私のものは、永遠に私のものよ。守れなかったのなら、あの子に資格がなかっただけ」


 白石透は突然笑った。その笑いには、隠しようのない嘲りがあった。


「資格?霧島蓮がいなければ、あなたは今日まで生きていられたのか?彼がいなければ、篠宮家を奪い返せたのか?自分が強いと思っているのか?あなたは、自分を本当に愛していた男を、自分の手で追い出しただけだ」


 凛華の顔から血の気が引いた。白石透は続けた。


「病院の爆発の日、僕を助けたのは彼だ。なのにあなたは彼を信じなかった。彼の脚を撃った。篠宮凛華、彼はもう一生あなたを許さない」


「黙りなさい!」


 凛華は手を上げ、白石透の脚元へ発砲した。白石透は痛みに体を震わせながらも、なお笑っていた。


「あなたが愚かだったんだ。僕に簡単に騙されて、踊らされて。浮気したのもあなた。彼に薬を盛ったのもあなた。彼の脚を撃ったのもあなた。今さら後悔して、何になる?」


 凛華の銃を握る手が震えた。目は赤く、異様な光を帯びていた。


「全部、あなたのせいよ。あなたが私に近づかなければ、私は蓮を傷つけなかった。あなたが私たちを引き裂かなければ、こんなことにはならなかった」


 白石透は彼女を見た。声はかすれていたが、一言一言ははっきりしていた。


「違う。あなたには、愛される資格がなかっただけだ」


 地下室が、一瞬静まり返った。


 次の瞬間、銃声が響いた。


 白石透の声は途切れた。凛華はその場に立ち尽くしていた。銃口は下を向き、目は狂気と空虚で満たされている。


「見つけるわ。蓮がどこにいても。必ず連れ戻す」



 8.海辺の花屋


 俺と陽菜は本州を離れたあと、いったん北海道へ渡り、それから九州へ移った。最後に、海沿いの小さな町で足を止めた。


 そこは東京から遠く、篠宮家の目も届かない。霧島蓮を知る人間もいなかった。俺は新しい名前を名乗り、陽菜も新しい身分を得た。俺たちは通りに面した小さな店を借りた。


 陽菜はずっと花屋を開きたいと言っていた。だから俺は、古い雑貨屋だった店を改装した。入口には木の看板を掛けた。


 店の名前は、日和花屋。


 天気のいい日は、海風が通りから店の中へ吹き込んでくる。風には潮の湿った匂いと、花の香りが混じっていた。


 俺の左脚は完全には治らなかった。雨の日や湿気の強い日は、鈍く痛む。ときどき鉢植えを運ぼうとして足元がふらつくと、陽菜はいつも慌てて駆け寄ってきた。


「お兄ちゃん、無理しないで」


 俺は笑って、彼女の頭を軽く撫でた。


「分かってる」


 陽菜は時々、不安そうに尋ねた。


「あの人……また来るのかな」


 彼女が言っているのは凛華のことだ。


「来ない。これからは誰にも邪魔させない」


 そう答えながらも、俺は準備を怠らなかった。新しい身分。別の逃走経路。現金。いつでも出られる車。


 もう二度と、自分の運命を誰かの手に預けるつもりはなかった。


 日々は少しずつ過ぎていった。凛華は現れなかった。たまに昔の伝手から、いくつか噂が流れてきた。


 篠宮凛華は性格が変わったらしい。いくつもの敵対組織と激しく争っているらしい。怪我をしてから誰も信じなくなり、周囲の人間を何度も入れ替えているらしい。


 それでも彼女はまだ俺を探していて、海外ルートも、一男一女の新しい身分も、すべて調べ尽くしたらしい。だが結局、何の成果もなかった。


 やがて噂は少なくなった。俺はそれを聞いても、心は少しも揺れなかった。


 もう俺には関係のない話だった。


 半年後のある夜。俺は花屋の扉を閉め、家へ帰ろうとしていた。街灯の下で、海風が看板を小さく揺らしている。


 その瞬間、背後から誰かの手が俺の肩をつかんだ。意識より先に体が動いた。俺は体をひねり、肘を後ろへ打ち込む。相手は素早くかわした。


 狭い路地で何手か交えたところで、俺は相手の顔を見た。


 動きが止まった。


 篠宮凛華だった。


 彼女は黒いコートを着ていた。記憶の中より顔色が悪い。だが、その目だけは相変わらず恐ろしいほど強い光を宿していた。


 彼女は俺を見つめていた。失ったものをようやく取り戻したような目だった。声が震えている。


「蓮。ずっと探していたの」


 彼女は一歩近づき、俺の手に触れようとした。俺は身を引いた。


「触るな。何の用だ」


 凛華の目に痛みが走った。彼女は焦ったように俺を見た。


「私が間違っていたの。白石透は篠宮椿の復讐のために私へ近づいた。病院の爆発も彼が仕組んだのよ。彼はずっと私たちを引き裂こうとしていた。もう彼は処分した。蓮、今なら分かる。私が愛していたのは、ずっとあなただった」


 俺は彼女を見て、笑った。その笑みには、何の温度もなかった。俺は一歩ずつ彼女へ近づいた。


「愛していた?だから離婚届を隠して用意していたのか。だから俺のコーヒーに薬を混ぜて、俺が一生子どもを持てないようにしたのか。だからスタンガンで俺を拷問したのか。だから病院の前で、俺の脚を撃ったのか」


 凛華の顔が少しずつ青ざめていく。俺の声は、どんどん冷たくなっていった。


「篠宮凛華。それがお前の言う愛なら、吐き気がする」


 彼女の目に、一瞬で涙が浮かんだ。凛華は俺の手首をつかんだ。


「ごめんなさい。償わせて。私と一緒に戻って。あなたが欲しいものは全部あげる。篠宮警備保障の株も、権力も、金も、全部。だから戻ってきて」


 俺は彼女の手を振り払った。凛華はよろめいた。


「いらない。俺たちはとっくに終わっている。離婚届は、お前が最初に用意したものだろう。俺にとって、お前も篠宮家も、もう何の価値もない」


 凛華は明らかに動揺した。再び俺の服の裾をつかみ、声に初めて卑屈さが混じった。


「やり直せるわ。蓮、お願い。もう一度だけ、私に機会をちょうだい。私は変わる。もう二度とあなたに苦しい思いはさせない。誰にもあなたを傷つけさせない」


 その瞬間、彼女は昔、俺が裏路地から救い出した女にひどく似ていた。強がりで、傷だらけで、脆い女。


 だが俺の心は、少しも動かなかった。


 俺は彼女を見て、一語ずつ言った。


「篠宮凛華。俺はもう、お前を愛していない」


 彼女の体が固まった。俺は続けた。


「昔の霧島蓮は、お前が自分の手で撃ち殺した。今の俺は、陽菜とこの花屋を守って、静かに生きていきたいだけだ。俺たちは別々に歩く。もう二度と会うな」


 俺は背を向けた。だが凛華は、背後から俺を抱きしめた。腕に力がこもり、声には狂気がにじんでいた。


「嫌よ。蓮、あなたは行けない。私と戻るの。あなたが望んでも望まなくても、必ず連れて帰る」


 路地の入口から足音がした。黒服の保镖たちが、素早く俺たちを囲む。俺は彼らと交戦した。


 だが、左脚の古傷はまだ治りきっていない。長くは持たなかった。体力が少しずつ削られていく。


 凛華は路地の入口に立っていた。その目には、失ったものを取り戻した狂喜が浮かんでいた。彼女は静かに言った。


「蓮。もう抵抗しないで。私と帰りましょう?」


 俺は息を乱しながら、彼女の見慣れた、けれど見知らぬ顔を見た。そして突然、力を抜いた。


「分かった。お前と戻る」


 凛華は固まった。次の瞬間、その目に激しい喜びが広がった。


 彼女は駆け寄り、俺を抱きしめた。声は震えていた。


「やっぱり。蓮、私は知っていたわ。あなたが本当に私を捨てられるはずがないって。今度こそ大切にする。ずっと愛する。もう二度と……」


 彼女の言葉が終わる前に、俺は手を伸ばした。彼女の腰のホルスターから、正確に拳銃を抜き取る。


 凛華の瞳孔が大きく開いた。


「蓮……」


 海辺の町の夜を、銃声が切り裂いた。


 弾丸は彼女の肩を撃ち抜いた。凛華はよろめき、傷口を押さえながら信じられないものを見るように俺を見た。


 俺は銃を地面に投げ捨てた。冷えきった目で彼女を見た。


「篠宮凛華。お前が俺に撃った一発を、返しただけだ。これで、俺たちは何も借りがない」


「蓮……」


 彼女の目から、ようやく涙がこぼれた。


 俺は背を向けた。


 もう二度と、彼女を見なかった。


 海風が路地を通り抜ける。背後に残る血の匂いも、俺の人生に残っていた篠宮凛華への最後の執着も、すべて吹き散らしていった。


 その夜、俺は陽菜を連れて町を出た。さらに遠い場所へ向かった。そこも海沿いの小さな町だった。観光客は多くなく、生活の流れはゆっくりしていた。


 俺はまた、通りに面した店を借りた。今度の花屋は坂道の先にあった。扉を開けると、遠くに海が見える。


 陽菜はその場所をとても気に入った。彼女は毎朝、届いた花を店の前へ運び、丁寧に茎や葉を整えた。俺はカウンターの奥に座り、ときどき客の花を包んだ。


 左脚はまだ痛む。雨の日は、特にひどい。だがその痛みは、むしろ俺に教えてくれた。


 過去は本当に終わったのだと。


 最初のころ、陽菜はまだ心配そうに聞いた。


「お兄ちゃん、あの人はまた私たちを見つけるかな」


「もう来ない。たとえ見つけても、俺は二度と戻らない」


 日々は、少しずつ穏やかになった。


 その後、篠宮凛華は東京へ戻ったと聞いた。肩の傷はきちんと治療しなかったらしい。雨の日には、腕が上がらないほど痛むという話も聞いた。


 彼女はまだ俺を探していたらしい。だが、二度と見つけることはできなかった。


 また別の噂では、彼女は提出されなかった離婚届を今も金庫にしまっているという。深夜、一人で訓練室に座り、空の標的を見つめていることもあるらしい。


 その話が俺の耳に届いたとき、俺は一人の老婦人のために花を包んでいた。彼女が買ったのは、白椿の花束だった。


 俺はその花を見た。心は驚くほど静かだった。


 白椿は綺麗だ。


 だが、もう誰かに贈りたいとは思わなかった。


 俺はもう、篠宮凛華のために命を投げ出す霧島蓮ではない。結婚記念日に、一晩中彼女の帰りを待つ夫でもない。


 ただの花屋の店主だ。妹を守り、海風に包まれながら、ようやく手に入れた穏やかな人生を生きる男だ。


 篠宮凛華が後悔していようが、苦しんでいようが、俺を探していようが。


 もう、俺には何の関係もなかった。



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