中編
「……うっかり旦那様に矢を向けたら、そのままうっかり刺さると思うか? それともあの戦場の立ち振る舞いからして、気づいて矢を鷲掴みにするか……」
「暗殺計画ですか? 姫様は血の気が多くて困る」
メイド服を着たバトゥラ──もとい女装をした騎士であるバトゥールは掃除の合間に嫌そうな顔をした。それを見て同じくヤカモズから連れてきた侍女──セネットは苦笑した。
「アイシャ様、そのイタズラは度が過ぎますわ」
「そうか? 二番目の兄様は叩っ斬ったぞ?」
「あのお方は規格外なので一緒にしちゃ駄目でしょうよ……」
「それにしてもバトゥラ、来て三ヶ月だがまったくバレないな」
「俺の美貌のおかげでしょう」とバトゥールが胸を張る。実のところシュテルンの人間よりも華奢な体のせいだと思うのだが、バトゥールの名誉のために黙っておく。セネットも同じような顔をして口を閉ざしていた。
アイシャとバトゥール、セネットの三人は幼馴染のようなものだ。母の護衛騎士の息子のバトゥール、そして乳母の娘のセネット。幼少期から常に一緒だったが、まさかバトゥールまで輿入れについてくるとは思わなかった。
──セネットに惚れているのは知っていたが、まさかここまでとは。
本来ならセネットの母でありアイシャの乳母であるヤマンが来る予定だったが、旦那に絶縁状を叩きつけるのに手こずっていると言う。
「結婚生活の成績表のようなものです。同じ墓に入るにもそれ相応の点数がいります」とセネットは穏やかに笑う。
アイシャとしては追い先短いヤマンを異国に連れてくる気はなかったが、良い機会だとヤマンは決めたらしい。元気なのは嬉しいが、異国の水が合うかが心配だ。
「成績表か。いまのところ私と黒豹が同じ墓に入れるかは怪しいな」
「初夜の放棄からの放置。アイシャ様が身罷れるまでに点数を稼いでいただかないと」
「本当だ。だからこそ、遊んでもらわないと。黒豹の仔兎は退屈が嫌いでイタズラ好きなのだ。間違って旦那の尻に矢を放つかもしれん」
アイシャのことをあの黒豹が「仔兎」と呼んでいるのは知っている。リスニングの能力も上がったものだ。白い髪と赤い目。確かに兎に似ているだろうが、その仔兎は黒豹を仕留められることを忘れてはならない。
「はは、笑えますね。新聞社に垂れ込みますか、『鬼神閣下、間抜けにも嫁に尻を射られる!』」
「しかしながら、最後にまともな会話をしてからもう二ヶ月目だ。床入りもまだ。ならば、やることはひとつ。獲物を狩りにいかねば」
そう言ってアイシャは立ち上がった。貴族らしいドレスには慣れないが、アイシャの好みに沿ったシンプルなもののおかげで忌避感は薄い。「もうそのお顔が乗っかっているだけですべてのお洋服が似合ってしまいます……!!」とどこかのデザイナーが言っていたが、まったく商人はどの国でも口が上手いものだ。
「セネット、伴を頼むぞ」
「もちろん、姫様。あと、次からはシュテルン語でしかお話ししませんからね」
「ヤマンに年々似てきたな」とセネットを皮肉れば、セネットは今日一番嫌そうな顔をしたので、アイシャは吹き出してしまった。
◇
堂々と狩りに行く、と言ったものの、人間の関心の引き方がアイシャにはわからない。欲しかったのは兄の黒豹だけの人生だったので、殺気の集め方は知っているが興味の集め方は知らないのだ。
執務室にいるエルンストを訪ね、ノックをする。扉を開けた補佐官はアイシャを見て抱えていた書類を盛大に落とした。
アイシャは膝を下りそれを拾ってやると、「お、お、奥様!! それは私がやりますので……!!」ととてつもなく取り乱していた。
書類はシュテルン語で書かれていたので一瞬では読み取れないが、「エルフ」の文字があった。エルフとの交流もあるのかとアイシャは感心した。
あそこは排他的な種族だ。だが、月下族にはなぜか好意的だった。あまりにもかけ離れた種族のせいか、「エルフ目線では一瞬で死んでしまうアホだが気の良い国民性」のせいか、彼らは珍しく有効的にヤカモズの人間に接してくれている。
「エルンスト、いる?」
「いらっしゃいます!!」
「入って良い?」
「あっ、まっ、待ってくださいね、本当にすぐにお通しするので、一旦お待ちを……!!」
「わかった」
一旦扉が閉められて、部屋の中でドンガラガッシャーンと派手な音がした。耳の良い月下族の前で隠し事などできるはずがない。「私の仔兎が!? 私の格好は変じゃないか!? 着替えるべきか!?」「奥方がお待ちですので……!!」「そうだ、冷えた廊下に置いておいて風邪でも引いたらどうする!?」との会話が聞こえた。そんな柔な民族ではないことは確かなのだが、エルンストは何か違うものが見えているのだろうか?
エルンストはアイシャに敬意を払っている。それは確かだ。居心地の良さを徹底しており、そしてアイシャに対する制限はこの家ではない。訓練場は好きに使っていいし、馬で城内の範囲なら駆けていい。なんならエルンストの黒馬を貸してくれた。立派な軍馬だ。アイシャの待遇は想像していた何倍も素晴らしいものだ。
だが、エルンストの気持ちはわからない。連合国の姫への敬意の可能性だってあり得る。つまり、貴賓扱いのためにこのように丁寧な扱いをされているのではないか? とアイシャはずっと考えている。
それに──妻というよりは愛玩動物のように可愛がられている気がする。主に執事長や侍女長、だいたいの使用人にニコニコと見守られている。彼らの目は子供を見守っているようだと思ったが、エルンストの「仔兎」呼びからしてもペットの可能性があるだろう。
ペットならば、家を出ない範囲で好きにさせるだろう。温かい部屋にフカフカのベッド、栄養たっぷりのご飯を与えるだろう。
──そう、四十年生きるペットならば。
「……自虐が過ぎるな」
「姫様?」と背後に控えたセネットが心配そうに声をかけてくるが、軽く手を振って問題ないと示す。
ようやく扉が開き、髪が乱れたエルンストがアイシャを見つめて目を見開いた。部屋の真ん中に突っ立って何を驚いているのか、と思ってすぐ、エルンストは柔らかく目を細めた。
「美しいな。雪の妖精のようだ。君は水色も似合うのだな」
ファッションチェックだった。確かに薄い青のドレスを着ているが。こまめな男だ。ヤカモズにはいない性格の男である。
「それで、何か用があったのか?」
「エルンストの顔を見に来た」
「ウグッ……」とエルンストが胸を手で押さえたので、先程の補佐官が「閣下、気を確かに!!」と声を張り上げている。アイシャの体調の前にエルンストの方が自分を心配した方がいい。
「……そ、そうか。久しいな」
「エルンスト会いに来ない、悲しい。どうして?」
「会いに来てご機嫌を取りに来るべきじゃないか?」と言えば、エルンストが天を仰いだ。なにか居るのだろうかとアイシャも天井を見上げたが、なにもなかった。
「すまない、どうにも忙しくてな……」
「そうか。じゃあ、頼みがある。聞いてくれる?」
「なんだ!? 言ってみなさい!!」
今度はすごい勢いで食いつかれたので、アイシャは思わず仰け反った。体幹が強くなかったらよろめいていただろう。そのまま、アイシャは言った。
「フラミンゴが飼いたい」
「フラミンゴ」
「ピンクの鳥。足長い」
「私の足も長いが?」
「そうだね。フラミンゴ飼っていい?」
「もちろんだ。手配する」
「楽しみだ、ありがとうエルンスト」
アイシャはニコッと「言質は取ったぞ」という圧のある笑みを向けると、エルンストは「グッ……」とまた胸を押さえて片膝を床についた。「エルンスト様、耐性が足りないのです、耐性をつけるべきです……!!」「耐性がつく前に致死量の摂取で死ぬだろう!? ……問題ない、毒の耐性をつけてる途中でな……、すまない、アイシャ。気にしなくていいから早く部屋に戻って暖かくしていなさい」と真剣な眼差しで言われた。
「毒はつらい。お大事に」
アイシャは後ろに控えていたセネットを連れて部屋を出た。自室へと向かいながらも、気になったことをセネットに聞いてみる。
「成人してから毒の耐性をつけられるものなのか? 私は子供の頃に耐性をつけたが……」
「きっと最近外国からやってきた新種の猛毒なのでしょう。鬼神の名を守るのも大変ですね」
「そうだな。しかしフラミンゴを用意できるか実物だな」
アイシャが悪童のように笑うと、セネットは首を傾げた。
「フラミンゴとはどこの生き物なのですか?」
「知らん。姉上に教えてもらったが、伝説上の生き物の可能性もある」
「姫様……好きな方に意地悪はしてはいけませんよ」
セネットはいつもこうやってアイシャを嗜める第二の姉のような存在だ。だからアイシャは振り返って、少女のままの顔で笑う。
「意地悪ではない、これは意趣返しだ」
◇
「保護色という概念の欠片もないな。なぜこんな生き物が絶滅せずに生き永らえている? それにこの足の細さはなんだ? 強度も耐久性もなさそうだ、折れたら一貫の終わり、捕食されて終わりだろうに」
「姫様、用意してもらってなんて発言を……」
「姫様、シュテルン語をお話ください」
バトゥールからは責められ、セネットからは叱られた。しかしながら、あのおねだりから一月ほどでフラミンゴがやってきて、さらには飼育場所もきちんと設置された。二羽のフラミンゴを見ながら、今アイシャは外でティータイムを楽しんでいる。
そばに控えていた他の侍女はヤカモズ語を話すアイシャに不安そうな顔をしている。なのでアイシャはわざとらしく、「素敵」とシュテルン語で感想を述べて微笑んだ。
それだけで彼女たちはホッとしている。
「奥様がフラミンゴに注目したおかげで、首都の貴族ではフラミンゴを飼うのが流行っているようですよ!! さすがはアイシャ様、慧眼ですわ」
「そうなんです、このピンク色を保つのが難しいとかで……!! ですが我が公爵家ではこのような鮮やかな色をしております、それは試行錯誤を繰り返したからで……!!」
「すごい、みんなありがとう。嬉しいよ」
フラミンゴは水場の中のなにかを啄んでいる。あの首の長さも不可解だ。どうしてどこもかしこも折れやすそうなんだ?
アイシャはただ難題をエルンストにふっかけて、どう対応するかを見たかっただけなのだ。「君のためにそこまではできない」と言われてもそれは全然良かった。
それなのに、こんなにもたやすく、玩具を与えるような感覚でフラミンゴを連れてきた。
わからない。わからないからこそ、アイシャはまた黒豹を試さなければならない。月下族を飼い慣らしたいのならば、それ相応の覚悟が必要だ。命すらも差し出すような覚悟が。
「温室にミントを植えた」
今度は事後報告をしてみた。突然やってきたアイシャにやはりエルンストは慌てふためいていたが、アイシャの報告に何度か静かに瞬きをする。
ミントの生命力はヤカモズでも有名だ。というか、姉のディライと植えたら温室の花壇全部の花を枯らした挙げ句、花壇の王として君臨してしまった。
母に怒られてミントティーをしこたま飲まされてから、アイシャはミントティーが大嫌いだ。
「そうか。ミントが好きなのか?」
「ミントティーは目が覚める。エルンストは忙しい。ミントティーは適切」
「私のために……?」
「だから薔薇は焼き払った」
アイシャが薔薇を焼き払ったとき、周りの侍女たちは「奥様ーッ!! 火は使ってはなりません!! 火傷してしまいます!! 白魚も嫉妬する美しい御手が!!」と慌ててはいたが。
見事なバラ園の一角の花壇にミントを植えたので、あの豪奢で素晴らしいバラ園がミント園になるのも時間の問題である。それを考えてアイシャはわくわくした。これならばさすがにエルンストも怒るはずだ。
さあ、黒豹よ、牙を見せるがいい!
ならぬものはならぬと吠えれば良いのだ!!
「……私のことを考えてくれたのだな……。私はなんと慈悲深き妻を天から授かったのか……」
アイシャは自分のリスニング能力を疑った。それからエルンストの判断力を疑った。疲れすぎて思考がぶっ飛んだ結果か、耐性をつけている毒に脳をやられたか。
「……それで、君のその左手の人差し指の火傷はなんだ……? 仔兎の毛皮を炙る火など、私が許すとでも? それに、その火傷に誰も気づかなかったのか?」
確かに、アイシャはうっかり左手の人差し指を軽く火傷したが、別に痛くはなかったので放置していた。間近でよく見てもわかるかわからないか、微妙なラインの怪我だ。いや、怪我と言えるほどでもない。なのに、なぜエルンストは気づいた?
──この黒豹は、なにかおかしい。
いや、最初からおかしかったのか? あの兜をかぶらずに戦場を駆けていたときから、この男は私を狩る側の生き物だったのでは?
アイシャはゾワゾワとした怖気に襲われて後ずさり、慌ててエルンストの執務室を飛び出して、常駐している医師の元へと走った。何度か会ったことがあるが、穏やかそうな顔の好青年だった。
医務室の扉を開け放ち、アイシャは医師を見つけて叫んだ。
「エルンスト、頭変になった!!」
「今更何を……?」
「助けて!!」
「もう手遅れです。アレと馬鹿につける薬はこの世にありません」
なんということだ、とアイシャは絶句した。エルンストが手遅れ。なら、アイシャはどうすればいい?
またこの国の男と再婚するのか?
エルンストが死んだせいで姉を引っ張り出されたらたまったものではない。アイシャは姉の代わりにここに来たのだ。ならば、言うことは決まっている。
「エルンストが死ぬのなら私も死ぬ。それが妻の努め」
後ろでドンガラガッシャーン!! とけたたましい音がなったと思ったら、エルンストが薬棚に頭を突っ込んでいた。それを見て医師が「……旦那様、さすがの慧眼です。特効薬は確かにその棚に場所にありますから」とすべてを諦めたような顔でそう言った。
◇
「セネット、あの黒豹はおかしい」
「そうですね」
「そうですね、ではないぞ!? この間、『月下族以外の人間がどこまで逆さ吊りに耐えられるか知りたいのであなたの右腕であるフリント卿を貸してください』と言ったら『構わんが、あの男は重いからだいぶ強度の高い大木に吊るさないと駄目だな。こちらで手配する。……しかし、さすがだな。捕縛された場合においての逆さ吊りの拷問への耐久試験か、君の慧眼にはつくづく驚かされる』だぞ!? 驚いたのは私の方だ、なぜそうなる!?」
「姫様は最長八時間でしたよね」
「違う、違うのだ!!」
「シュテルン語でお話ください」
ハッとアイシャは我に返り、やはり不安そうにアイシャを伺う侍女たちの顔を見て失態を悟った。だが、いまはセネットにしか話せないことだ。
「最初は愛なのかと思った。顔だけは良いと言われて育ってきたからな。黒豹も好むのかと思った。だが、すべてを許すことが愛か? 放任ではなく? 愛しているから望むものをすべてあげたい? それとも、愛していないからこそすべて望むものをやろうという慈悲なのか?」
「姫様……」
アイシャは顔を上げた。公爵家の侍女の一人──同じ十八歳の少女に向けてシュテルン語で問う。
「わたしは、可哀想か? 四十まで生きられない。だから、可哀想だから、みんな優しい?」
その侍女はさっと顔を青褪めて、泣きそうに顔をくしゃりと歪めた。アイシャの元に駆け寄って、両膝をついてアイシャの両手を握りしめる。
「いいえ、奥様は、アイシャ様は可哀想ではありません! 誇り高く、愛らしく、そしてなによりも優しいお方です。だからこそ、みんなが好きになるのです。旦那様の命の恩人でもある貴方様を……!!」
「恩人?」とアイシャが聞き返すと、侍女は唇をキュッと噛んだ。それから、「旦那様にお聞きくださいませ。アイシャ様の不安をお伝えになれば、きっとお話くださいます」と泣きそうなままに笑う。
アイシャは頷いて、「旦那様に、言伝。夜に、部屋に来てと」と伝えた。その侍女はしっかりと頷いて、「いきなりの無礼を失礼いたしました」とアイシャの手を離した。体温が消えた手が、妙に寂しい。
「姫様、焦る必要は……」
「バトゥラはお黙りなさい」
ピシャリとセネットがバトゥールの口出しを阻んだので、アイシャは苦笑した。
「焦るなと言われても、無理だ。……残された時間が私達は違うのだから」
◇
部屋に入ってきたエルンストは、どこからどう見ても緊張した面持ちをしていた。妻の部屋に入るのに緊張する夫など、存在するとは思わなかった。
アイシャは座っていたソファから立ち上がり「こっちへ」と向かいのソファへとエルンストを誘導する。久しぶりに自分で入れた紅茶は渋いが、目を覚まさせるには十分だ。
「どうぞ」
アイシャが作法通り紅茶を淹れると、物珍しそうにエルンストがそれを見つめた。「ちょっと、味が失敗」と小さく笑ってみせると、強張っていた顔が少し緩んだ。
「君にお茶を淹れてもらえるなど、後世に語り継げる栄誉だな」
「大げさ」
アイシャは小さく笑いながらエルンストがティーカップに口をつけたのを見つめ、自らもティーカップの冷めた紅茶に唇をつけた。
「エルンスト、わたし、あなたの恩人?」
「……誰かから聞いたのか?」
「うん。でも誰か、絶対教えない」
頑なな言葉で秘密は守るという意思を見せると、エルンストは嬉しそうに微笑んだ。そんな顔もできるのか、とアイシャは驚く。
「一年前だ。レヘン渓谷で起きたスタンピードは覚えているか?」
「覚えている。酷かった」
スタンピード──魔物の大量発生を示す言葉だ。魔物は空間に突如現れる亀裂から呼び寄せられ、この世界に降り立つ。その亀裂の存在はまだ謎に満ちており、全国魔法連盟が真相究明に勤しんでいると聞く。
シュテルンとヤカモズの国境付近にあるレヘン渓谷に現れた亀裂は大きく、強い魔物が多く排出された。そして近くの村をすべて壊滅させたのだ。
多くの死人が出た。シュテルン人もヤカモズ人も、民間人も軍人も関係なく、みな等しく死んだ。
シュテルン共和国から正式にヤカモズ王国に支援が要請されたのもまたこの時のことであった。アイシャは二番目と五番目の兄とともにヤカモズの軍を指揮する立場となり、戦場に駆り出された。
まあアイシャは二番目の兄の副官のようなものだったので、そこまでの活躍はしてはいない。
だがアイシャはエルフから友誼の証として王家に送られた複合弓──名弓アルギュロスを持つものとして、多くの魔物を屠った記憶はある。
「やたら大きなデーモンを覚えているか?」
「デーモン?」
「君たちのいうところのシェイタンだ。二足歩行で知能が高く、非常に攻撃力の高い種族の魔物をそう呼んでいる」
悪魔──たしかに悪魔めいた姿をした、大きな魔物がいたような気がする。知性が高く、途切れ途切れだが言語めいたものを話していた記憶がある。それが悪魔の言葉だったのか、見知らぬ言語だったのかアイシャにはわからない。
「覚えている。なにか言葉のようなものを話していた」
「あれは悪魔語と我々は呼んでいる。文法が存在し、まだすべては解明されてはいないが、『王よ来たれり』と言っているようだ。あれは儀式の呪言だ。王を顕現させようとしていた」
「王?」
「魔物の王だ。魔王と呼ぶべきか。私を含めた四人を生贄に王を召喚する前に、白鎧の弓使いにあっさりと倒されてしまったが」
「え」とアイシャは瞬きを繰り返した。それを見て、エルンストはクスクスと笑う。
「デーモン六体に囲まれた私と軍人三名はここで死ぬのだと理解した。だが、救世主は空から降ってきた。その白鎧の弓使いは、まずは着地とともに一体の脳天に矢を手で突き刺した。ずいぶんと小柄で、身につけた鎧は正式には鎧とは言えないほどの簡素なものだったが、胸当てと肩当てには上質なプラチナが使われていた。ひと目でわかったよ、その者がヤカモズの守護天使だと」
「しゅ?」
「『守護天使』」とエルンストがヤカモズ語で言い直したので、アイシャは口をぽかんと開けてしまった。完璧な発音のヤカモズ語だ。
「ヤカモズ語が喋れるのか?」
「まあ、討論できるほどではないが」
「なぜ早く言わない! ……いや、言わない方が賢明だ、私がシュテルン語を覚えるべきなのだから。怒ってすまないな」
アイシャが前髪をくしゃりと握りつぶして苦い感情を持て余すと、エルンストは「君を驚かせたかっただけだ」とシュテルン語で言った。
「その守護天使は大きな弓を背負い、目にも留まらぬ速さで他の四体の眉間を貫いた。あれほどに正確に射抜く弓の使い手など見たことはなかったよ。私はようやく我に返って、残りの一体を剣で薙ぎ払った。それを見て君はなんと言ったか覚えているか?」
「……覚えてない。でも、よくないこと」
アイシャは頭を抱えたくなった。たぶん、「足手まとい」とか「死にたくないなら田舎に帰れ」ぐらいは言っていたかもしれない。アイシャは最初、シュテルン共和国との連合に納得がいかなかったのだから。なぜ弱いやつと組まなければならない、と兄とともに憤慨していたぐらいだ。
「『死ぬと理解したのなら、華々しく死ね。最期まで硬直したまま屠られるつもりか? 勇敢に戦い、勇猛に散れ。ここは戦場なのだから』と」
「……ご、ごめんね……?」
アイシャが縮こまりながら、恐る恐る遅い謝罪をすると、エルンストはさらにくしゃりと顔を柔らかく崩して笑った。
「いや、君の言うとおりだ。ヤカモズの民の高潔さを感じたよ。そして感じた。君たちの生き様を」
その言葉を聞いて、アイシャは胸が苦しくなって喉がキュッと締まるような感覚さえした。どうして、と。その言葉だけが胸の中に溜まっていく。どうしてそんなにも尊重してくれるのに、と。どうして、どうして。
アイシャはそれを飲み下すために、残りの冷めた紅茶を飲み干した。胃の奥底に流れて消えてしまえばいい。こんな、足掻くような気持ちなど。
「……ねえ、エルンスト、教えて」
「ああ、君が知りたいことは何でも話そう」
「……変なこと、聞く」
「もちろん、構わない。何でも言ってくれ」
アイシャは安心して息を吐いて、ゆっくりと吸った。一番恐ろしいことを口にする。
「なんで、わたしたち交尾しない?」
ガシャーン! とエルンストの笑顔が張り付いたまま手からティーカップが落ちた。アイシャは「言い方間違えたか? なんて言うんだ?」と焦りながらも、とりあえず用件だけは伝えるために尽力する。
「初めての夜、まだ。なんで?」
「……いや」
「なんで、わたし、好きじゃない? 小さいから? 子供みたい?」
「そんなことはない!!」
アイシャが肩を震わせるほどの大声で否定されて驚くと、エルンストはハッと我に返ったように「待ってくれ、アイシャ」とワタワタし始めた。
だが、アイシャはここで攻勢の手を緩めたらエルンストに話をなあなあにされた挙げ句、温かいミルクティーを飲まされてまた一人で寝かされるはずだと思った。野生の勘がそうはっきりと言っている。
「わたし、なに足りない? 身長? 顔? 頭? 胸?」
「君はぜんぶ揃っているッ!!」と怒号にも悲鳴にも近い声をエルンストが上げるが、じゃあぜんぶ揃っている妻に対して何もしないで放置とはどういう了見か、とアイシャは頭にきた。
「再婚するのか?」
そう聞いたのは、失敗だったかもしれない。エルンストの顔が一気に青褪めたからだ。
だが鋭利な言葉でこの男を傷つけなければ、本音は漏れてこないとアイシャは思った。
「わたしが死ぬ、そのあと再婚する。子供、いないほうがいい」
「……は?」
「わたしが死ぬ、エルンストは四十ぐらい、まだ結婚できる。子供、できる。だからそうする?」
はく、とエルンストが唇をわずかに動かした。動揺する様を見て、アイシャは最後にエルンストの心臓を突き刺すつもりで言葉を口にした。
「可愛らしい仔兎はペット、妻になれない、交配する相手にもなれない?」
──心臓を突き刺すつもりで言った言葉は、エルンストにまっすぐ届いたようだった。なぜなら、一人掛けのソファごと横転したので。
「エルンスト!?」
アイシャはエルンストに駆け寄って、肩を揺らした。息はある。心臓も動いている。それなのになぜか白目を剥いて気絶していた。アイシャは急いで外へと向かって、一番近い執務室の扉に体当たりをして押し開けた。ちょうどこの間、エルンストの執務室で書類をぶちまけていた補佐官が目を丸くしてアイシャを見ている。
「エルンスト倒れた!!」
「一体なにしたんですか!?」
「交尾しないのわたし死んだあと再婚するせいか聞いた!!」
そう言ったらなぜか補佐官まで白目を剥いて気絶したので、アイシャは医師を呼びに走ることになったのだった。




