天邪鬼が待つサンタクロース
サンタクロースを信じていたのは小5の時までだった。12月の半ばぐらいだろうか、親から、
「もう知っていると思うけど...クリスマスのプレゼントは何がいい?」
と聞かれた。
まさしく、俺はそのときにサンタクロースがいないことを知ったわけだが、ええと、そのときに何を親に頼んだのかは覚えていない。
サンタクロースがいるんじゃないかと信じていた自分を恥ずかしいと思うわけでもなく、ああ、やっぱりいないんだ、と思った次第である。
ただ、天邪鬼なものだから、サンタクロースがいるんじゃないかと信じる世界があってもいいと思うわけだ。いないことが解っていても、NASA のサンタクロース探索地図をみて、ああ、サンタは今はこのあたりを飛んでいるんだな、と思ってもいいじゃないか。
でも、いないのは確かだ。
サンタクロースがいないのは、今の時代に魔法使いや妖精がいないのとは訳が違う。魔法使いは、まさしく現代科学では成しえない魔法を使う場合もあれば、どうやっても到達できない魔法を使うこともある。例えば、世界が滅亡してしまうような魔法とか、時間をさかのぼってしまう魔法とか、そういうひとりの人間の力では大きすぎるようなものを「魔法」として扱ってしまう。
同じことは、超能力にも言える。ちょっとしたスプーン曲げのようなものならば、実害はないけれど(いや、スプーンが曲がること自体は困るのだが)、例えばテレポートをしてしまうとか、念力で物体を飛ばしてしまうとか、レールガンを打ち出すとか、そういう超能力はやっぱりひとりの人間の能力を超えてしまうところなので、ちょっと信じがたいところがある。
ただし、コンピュータが頭脳の延長であるように、自動車やバイクが足の延長のように、飛行機やショベルカーがあるように、人間の能力の延長上にあるとか、動物の力を人間が借りてそれを拡大するとかいう現実ならば今の現代にはある。
よく言われることだが、それは昔の人から見れば「魔法」のように見えるだろう。空を飛ぶこと、遠くの人と話すこと、何光年の彼方にある星の姿をみること。
そんなことは昔の人は想像だにしなかったかもしれない。
いや、本当に想像しなかったのだろうか?
現実に作ることはできなくても、想像はできたかもしれない。ダヴィンチがヘリコプターの原型を考えたように、昔の人も空を飛ぶことを想像しただろう。いまでこそ、ダヴィンチの図しか残っていないが、もっと、他の人は別な想像をしていたかもしれない。
それは、妖精とか魔法使いとか、未確認飛行物体とか、超能力者とか、そういう形ではなく、何か自分たちの延長線上の者を想像しただろう。
ひとつは「神」だ。
形而上学ということで、自分たちとは違った階層にいる人達...いや神なので神達を想像するのである。もちろん、神達と言ったが、一神教もあれば多神教もあるのだから、それぞれの宗教観として想像をしていただろう。
それは、原始的な宗教観でいえば、太陽であったり月であったり、風であったり雨であったりしたかもしれない。いまでこそ、自然現象として理解されてはいるが、その裏にある風を吹かせる神や、雷を鳴らす神がいたとしても不思議ではない。それは、米に宿る神かもしれないし、山や海に住まう神かもしれない。
それらの想像の神は、なにも原始において、無知だからというわけでもなく、考え無しに生まれたものでもない。当時の人々が、何かに対して理解を求めた上で、なんらかの結論を得たときの様々な神の産物が、そこにあるに過ぎない。
辻褄をあわせること、論理的な矛盾がでないこと、けれども、どこか現実離れしてフィクションであること、けれども、一定の法則を持ちつつ破綻しないこと。
フィクションである SF 小説は、科学的な根拠を持ちつつも、どこからか非現実性を帯びてくる。とくに、フィリップ・K・ディックの小説などは、思想のフィクションである実験場と言ってもいい。
だから、クリスマスがキリスト生誕の日であるよりも、サンタクロースという想像の産物を生みだした人たちの心情を想う。彼らは何をサンタクロースに託したのであろうか?
始めてしまった争いを一時停止するためのサンタクロースなのか、それとも、止まってしまった争いを再び始めるためのサンタクロースなのか。
ひとりの決断では留まれない争いを、皆がなにとはなく同調してしまう共通の認識に、一時的にでも止めるサンタクロースという無存在にはそんな力があるのかもしれない。
【完】
ウクライナの平和を願いつつ。




