3 温度差
当時、何処に居たかで、やはり温度差はあるわけです。
私はほぼ被災なしの地域に住んでたので、娘が中学生になるくらい迄、みんな「あの時何してた?」との会話がありました。
これが「東灘にいて〜」「新長田に住んでて〜」とか言われると…聞いた側もどうしてこんなに気軽に聞いてしまったのか、と考えてしまうのでしょう。
私が聞いた一番すごい話は、娘の中学のカウンセラーの先生の話です。
当時高校生だった先生は、明日からの修学旅行にワクドキしながら眠りについて、起きたら家族四人生き埋めになってたそうです。
お父さんが「遺書を書こう」と声を掛けて、みんなで遺書を書いてたら、掘り起こしてもらえて助かった。キャリーに荷物を詰めてあったので、それを持って避難所に行きました、と言うものでした。生き埋めと言っても、とりあえず一部屋くらいのスペースはあったようです。(きっと玄関や窓、外に出る部分が全部埋まってて、部屋自体は隙間になってて、無事だったんでしょうね)
先生は、後で遺書を読み返したら、修学旅行に行きたかった〜とか大したことは書いてなかった、とおっしゃってましたが、日常を当たり前に生きるって、とても大事ですよね。
長年お世話になってる美容師さんは、ちょうど高校受験の時で、自分は大丈夫だったけど、着る物一つ持ち出せなかった子たちが、市から支給されたお揃いのダウンにジーンズで受験に来てましたよ、とおっしゃってました。
他、二階に寝ていたけど一階が崩れて、目覚めた場所が一階になってた、という地震中にも寝ていたツワモノの話
父親の世話してる熱帯魚の水槽がベッドの横にあって、そのせいで揺れる度に水がビチャビチャに自分にかかって、揺れが収まると同時に親子喧嘩になった話があったりと、関西人の業なのか、最後に笑いを取ろうとする話術に恐れ入るばかりです。
ちなみにうちの夫は、布団しか置いてない部屋にいたのに、「地震の時は机の下」というのが頭の中にあったので、わざわざ机の下まで行ったらしいです。
そこまで行かんでも、落ちて来るもんなんか無いのに、避難訓練って身につくもんやなあ(笑)と、笑ってました。