08 夜中の炊き込みおにぎり
ここ最近、のゆりは理文と一緒に夕ご飯を食べられていない。
というか、朝ご飯も一緒じゃない。
とっても、喜ばしいことに理文は会社で出世した。
同期内では一番早い昇進で、しかもけっこう凄いプロジェクト(社外秘なので詳しくは知らない)のリーダーになったらしい。
が、ここで問題が発生した。チーム立ち上げと別案件が重なり、理文はとっても忙しくなってしまったのだ……それ故、今日ものゆりは一人ご飯。
一人暮らし期間がそこそこあるし、理文の仕事の繁忙期には一人でご飯を食べていたことだってあるのに、今回はだめだ……寂しい。
もう三日も顔を見てない。
三日前は、着替えを取りに戻ってきてちょこっと喋ったけれど、本当にちょっこっとだけ。
『大丈夫? 無理しないでね』
『うん、ごめんな。戸締りに気を付けて。じゃあ』
これだけ。
抱き着いて匂いを嗅ぐ暇なんてなかった。
……え? 皆もやるよね? 好きな人の匂い嗅ぐでしょ?
──だから、のゆりは「はあ」と溜め息を吐きながら、今日も一人ご飯……寂しい……めっちゃ寂しい……。
もそもそと口に運んだご飯は、味がするんだかしないんだかよくわからないし、大好きなビールも飲む気になれない。
テレビでは、天気予報士が明日の降水確率を元気よく伝えている。
けれど、のゆりの心はどんより雨模様。
今日の自分のこの落ち込みようは、昼休みに先輩に言われた言葉のせいである──
昼休み、社員食堂。
のゆりは同期の愛海と一緒にランチを楽しんでいた。
『のゆりちゃん、ちゃんと食べてるぅ? ご飯冷めちゃうよ~?』
愛海は社食の唐揚げ定食に満足そうで、嬉しそうにお箸を動かしながら言う。
『うん、食べてるよ。ほら、ね?』
のゆりは箸を少し持ち上げて、愛海に見せた。愛海は『よしよし』と小さく頷きながら、にこにこと笑う。
理文が最近忙しくて寂しいってことを、愛海に話したから気を使ってくれているんだろう。いつもなら愛海のカレシの話で盛り上がるのに、今日は唐揚げの面白レビューで笑わせてくれる。
──そんな温かい雰囲気の中、隣のテーブルから先輩に話しかけられた。
『残業で家にいないなんて言う男は、みぃんな浮気してるよー』
カタン、と小さな音を立てて、のゆりの箸が止まった。
『可哀想~。ね、井上さんもマチアプやる? 紹介すると、お互いにポイントが──』
その言葉に、のゆりは何も言えず、ただ黙って視線を落とした。
愛海もその声に気付いて、小さくため息をついたように見えた。
そして、そっとのゆりに寄り添うように言った。
『のゆりちゃん、気にしなくていいよ。あの人、いつもあんな感じだもん』
『……うん、大丈夫』
のゆりは笑おうとしたけれど、顔がうまく動かなかった。
先輩は、のゆりが反応を示さないのが面白くなかったのか、入ってきたばかりの新入社員を捕まえてマッチングアプリについて熱弁を振るい始めた。
「──む~」
のゆりは、ごろんと寝っ転がり、漫画アプリを開く。
読むのは『サレ妻劇場』という不穏なタイトルの漫画。
多分、この漫画のこともあって、落ち込んでるんだよなあ……と、思いつつ、じっくり読んじゃうのがのゆりクオリティである。
『サレ妻劇場』第三十三話の内容は過激だった。
いや、過激というより狂気じみている。まさに『修羅場』という単語がぴったりだ。
きっかけは、主人公が夫のスマホを偶然見たことだった。
そこには、夫と愛人が海外のリゾートホテルで撮った写真が残っていた。豪華な部屋で、満面の笑顔を浮かべながらシャンパンを掲げている──しかも、それは主人公の誕生日に「出張」と言って家を空けていた日だった。
その瞬間、主人公の中で何かが切れた。無表情のまま家中の窓を閉め切ると、夫の仕事用スーツや大切な書類、そして愛人からもらったらしいネクタイをまとめて庭に放り投げた。
次に手に取ったのは、ガソリン缶とライター。
しかし、それだけでは終わらない。
燃え盛る炎を見つめながら、主人公は愛人のSNSを執念深く調べ、浮気の証拠を片っ端から集める。
そして、それをネットに投稿していく。
二人が食べたディナーの場所、泊まったホテル、買ったブランド品のレシート──すべて写真付きだ。
投稿はすぐにバズった。
〈ひどい旦那!〉〈この愛人最低!〉とコメントが殺到し、愛人の顔写真には知らない誰かが赤い×印を入れて拡散する始末。
だが、それだけでは終わらない。
夫の会社には匿名で通報が入り、不倫と出張費の不正利用が上司にバレるのだ。
夫は仕事で窮地に立たされるが、怒涛の展開はここで止まらなかった。
主人公は、まだ冷静を装ったまま。次のターゲットは『愛人の婚約者』。SNSで発覚した事実をもとに、新たな爆弾を投下しようと静かに笑っていた──
「……こ、怖い」
声に出して感想を漏らしつつ、こういうのって気になって止まらない。怖いのに読んじゃう。
そんな自分がちょっと嫌になる。
理文が忙しいのはわかっている。信じてる。
でも、あんなに素敵なんだもん。
絶対、会社ではモテモテだよ……って、頭の中でぐるぐる考えちゃう。
自分がこんなことで悩んでいる間も、理文は仕事を頑張っているはずなのに。
わかってるけど、わかってるのに、どうにもこの気持ちが抑えられない。
「はあ……」
のゆりはスマホを胸に押し付けるようにして寝返りを打った。
どうしてこんな気持ちになるんだろう?
愛海の言葉もあったし、理文を疑うなんて絶対に失礼だって思ってるのに。それにこんなこと考えたことなんてなかったのに……。あと、最近、甘いものがちょっと食べられるようになったのも不思議……ってこれは関係ないか。
もう一度、スマホを手に取る。
今度はメッセージアプリを開く。
トーク履歴の一番上にある理文とのやり取りをタップする。
最後のメッセージは、今日のお昼に届いた〈今日は終電で帰れそうだよ〉という短い一文だった。
そのメッセージを見つめていると、ふいに感情が押し寄せてくる。
「浮気なんかじゃない……忙しいだけ……」
のゆりは、そう自分に言い聞かせるようにぶつぶつと呟く。
ピコン! と、『サレ妻劇場』の通知が来た。また更新されたらしい。
「もう読まない……いや、でも続き気になる……」
ぐるぐる悩んでいる間に、スマホがまた光る。今度はメッセージの通知──理文からだ。
〈ごめん、終電間に合わないかも。明日には帰れると思う〉
のゆりの指がスマホの画面をなぞる。数分間、返事を打とうとしては消し、打とうとしては消し……最後に打ったのはたった一言だった。
〈分かった、無理しないでね〉
メッセージと、フレー! フレー! と応援する猫ちゃんのスタンプを送ると、また寝転がる。
胸の奥がチクチクする。
浮気なんて信じてないのに、不安でたまらない。『サレ妻劇場』を読みすぎたせいなのだろうか……?
◇
食器を洗い終え、お風呂でさっぱりした後、バラエティ番組を流しながら絨毯にコロコロをかけていると、突然、玄関の扉がガチャッと開く音がした。
のゆりは思わず手を止め、無意識のまま立ち上がると、玄関へ向かう。
「文ちゃん……」
扉の向こうには、スーツ姿の理文が立っていた。
疲れた顔ではあるけれど、いつもの穏やかな笑みを浮かべている。
「ただいま。なんか、間に合った。あと、明日、午前休もらった。明後日も休み。来週の月曜から通常勤務になりそう」
「文ちゃあん!!」
のゆりは勢いよく理文に飛びつこうとしたが、彼は苦笑いしながら手で制止する。
「待て待て。俺、昨日から風呂入ってないから、」
「嫌だ~~~! 匂いを嗅がせろ~~~!!」
のゆりはそう叫びながら、無理やり理文のスーツに顔を押しつけた。
クンカクンカ!
「あっ、こらっ、やめなさい」
「うん! これ! これだよ! 文ちゃんの匂い!」
スーハー、スーハー!
理文は困ったようにのゆりの頭を軽くぽんぽんと叩き、眉を寄せた。
「……のゆりは、これ楽しいの?」
「楽しい!」
クンカクンカ! スーハー、スーハー!
「俺、腹減ったよー、風呂入りたいよー」
「やだー! 離れたくないー!」
「……じゃあ、風呂一緒に入る?」
理文は小さく笑い、腕の力を抜いてのゆりを抱きしめた。
「そ、それは……無理っ! 恥ずかしい! 離れる!!」
「? ……俺、いまだに、のゆりの『恥ずかしい』の基準が把握しきれてない」
◇
バスルームから「出たー」と報告の声が聞こえてきた。
その声を合図に、のゆりは冷凍庫から作り置きの炊き込みおにぎりを取り出し、電子レンジにセットする。
このおにぎりは、市販の炊き込みご飯の素とともに、鶏肉、舞茸、しめじ、人参、枝豆を入れて、炊いたものを大葉で巻いた具沢山のものだ。
電子レンジが鳴るのと同時に、理文がタオルで髪を拭きながらリビングにやってきた。
「なんか良い匂いする」
「おにぎりだよ〜」
のゆりはキッチンから顔を出して、湯気の立つおにぎりをお皿に盛ると、ソファに腰掛けた理文の前に置いた。
理文は黙ってひとつ手に取ると、ふかふかのおにぎりをかぶりと一口。
「……美味い」
短くそう言うと、嬉しそうにもう一口。
のゆりはその顔を見て、少し満足げに頷きながら、自分も隣に座っておにぎりを頬張る。うん、美味しい!
無言のまま、ぽつぽつとおにぎりをかじる。特別な会話はないけれど、こうして隣で一緒に食べるだけで心がほぐれる。
「あー、満足した」
理文がふと、ぽつりと呟いた。
のゆりは何も答えず、ただにこっと笑って、残りのおにぎりに手を伸ばした。
◇
二人で片付けを終えると、ソファでごろっと横になる。テレビは消して、静かなリビングに時計の針の音だけが響く。
「週末、どこか行く? かなり放っておいちゃったし、買い物でも何でも付き合うよ」
ふいに理文が言う。
のゆりは少し考えるように目を細め、唇をとがらせた後、首を横に振った。
「ううん。家で映画観たい。一緒にゆっくりしよ」
理文はその言葉に驚いたような顔をしたが、すぐに柔らかく笑う。
「そっか。じゃあ、映画観るか」
「うんっ!」
嬉しそうに頷いたのゆりは、そっと理文の肩に頭を預けた。
ほんの少し前までの不安やモヤモヤは、もうすっかり消えていた。
先輩の意地悪も、漫画のドロドロした展開も、まるで何事もなかったかのよう。
のゆりは、一緒にいるだけで幸せなんだなあ、と改めて思いながら、目を細めた。
──そして二週間後、のゆりがどうしてあんなに浮気を心配していたのか、その理由が判明する。
実は、のゆりは新しい命を宿していたのだ。
妊娠すると、ホルモンの変化や体調の変化により、気持ちが不安定になることがあるらしい。
そして、甘いものが食べられるようになったのも、妊娠が原因だ。のゆりの母も妊娠中に味覚が変わったと言っていた。
でも、今はまだそれを知らないのゆりは「映画のお供は何にしようかなあ」などと呑気なことを言っているのであった。
【夜中の炊き込みおにぎり:完】