07 黄色のほわほわ
──大事件発生。
「い、の、う、え、さぁん♡ 今日、残業代わってくれなぁい?」
のゆりは猫撫で声の先輩に、『井上ではなく、新田です』と心の中で呟きながら、断りを入れる。
「すみません……今日は、どうしても外せない用事がありまして……」
最近ようやく失恋から立ち直った先輩は、つまらなそうに「あっそ」と言い、他の社員に「ね〜え」と甘え声で話しかけに行く。
その後ろ姿に、のゆりは思わず安堵の息を漏らす。
先輩は、どうやら本日二十時より異業種男女交流会(別名:合コン)があるらしい(二十時開始なのに定時に退社したいのはこれ如何に、などとは突っ込んではいけない)。
普段ののゆりならば、日々の安寧を得る為に二つ返事で引き受けるのだが、いかんせん。大事件発生の為、お引き受けできない。……無念なり。
ああもう、こうしていられない! さっさと帰宅しなければ!
〈かぜひいて相対した〉
あの理文の打った文字とは思えない誤字のメッセージ。
これを大事件と言わず、何と言うのか!
のゆりは、パソコンの電源を切り、「お先に失礼します! お疲れ様です!」と言い、会社を後にした。
帰宅すると、理文がベッドで丸まって寝ていた。
クローゼットから布団を出してかけると「のゆり?」と鼻声で呼ばれた。
「ごめん、起こしちゃった?」
「……だいじょぶ」
大変だ! 話し言葉が平仮名だ!
やっぱり大事件! いや、大、大、大事件……っ!!!
ドラッグストアで買った熱冷ましシートを、ぺたっと貼ると「これ、さむい」とグズられ、「我慢しようねえ」と宥める。
「熱、何度あるの?」
「……さんじゅうななど」
「え〜? ほんとに? もっと高いんじゃない?」
のゆりが理文の首に触れながら問うと、「たす、いちどにぶ」とぽそりと返事が返ってきた。
37度 + 1度2分 = 38度2分。
高っ!!
「もうっ、なあんで嘘吐くの〜?」
「……ごめん」
「可愛いから許した!」
「のゆりのほうがかわいい」
「……」
なんだなんだ? 今日の旦那様ってば、いつもの三割増で可愛いぞ。
しかも、目が潤んでて、頬っぺも赤いし……五割増で色っぽい。
なんだなんだ? 誘惑してるのか?
うん、してる。誘惑してる。これは、誘っていやがる。
うむ、やぶさかではないぞ。
「……さそってないよ」
「しまった! 口に出てた! ごめんね! 襲わないから怖がらないで!」
「ん」
あ、ぷいってされた!
これは、怒ってるか、照れているかの二択。
後者であれ……!
「えっと……あっ、お薬飲んだ?」
「……まだ。なにもたべてないから」
「そっか、じゃあ何か食べよっか。白いプリンと、バニラアイスと、みかんゼリーと、りんごヨーグルトと、桃缶と、スポーツドリンク買ってきたけど、どうする? それとも何か作る?」
「きいろのほわほわ……」
「『黄色のほわほわ』ね。分かった、ちょっと待ってねー」
のゆりは「よしよし」と理文の頭を撫で、サイドボードに蓋を緩めたペットボトルを置き、立ち上がる。
『黄色のほわほわ』、これは、ただの卵粥のことである。
幼い頃、のゆりが風邪をひくと、いつも母か祖母が、『黄色のほわほわ』を作ってくれた。
中学生になった頃、友人間でのゆりだけが卵粥のことを、『黄色のほわほわ』と言っていることに気が付き、その呼び名は封印した……のだが、のゆりの兄がペロッとバラしてしまったのだ──井上家では卵粥のことを、『黄色のほわほわ』と呼ぶ、と。
それから、新田家では卵粥のことを『黄色のほわほわ』と呼ぶようになった(開き直った、とも言う)。
そんなわけで(?)、『黄色のほわほわ』を作る!
まずは、土鍋に水を入れて、ぽちっと点火。
沸騰待ちの間に、冷凍ご飯をレンジにイン。600Wで、一分半加熱。
次に、ボウルに卵を割り入れ、溶きほぐす。真っ黄色になるまで、がっしょがしょ! がっしょがしょ!
お湯が沸いたら、加熱ご飯を投入して中火で煮立たせ、鶏ガラスープの素を小さじ一、粉末の昆布茶を小さじ一を入れる。
そして、卵を回し入れ……おっと、ネギを忘れてた! ズバババと切って、えいっと投入。
少し煮立たせたら、はい、完成。
何の捻りもアレンジもない卵粥、もとい『黄色のほわほわ』の出来上がり。
「文ちゃん、できたよ〜」
のゆりの言葉に、理文はむくりと体を起こす。
「食べられそ?」
「うん」
「あーん、する?」
「……じぶんでたべます」
ちえっ。残念。
ぷくっと頬を膨らまし、のゆりも自分の茶碗に『黄色のほわほわ』をよそう。
「いただきまあす」
レンゲで掬い、ふうふうと息を吹きかけ、少し冷めたところでぱくり。
「う〜ん?」
食べ慣れた優しい味だけど、健康体ののゆりには一味足らない。
ごま塩かけたい。味噌溶かしたい。
でも。
「はー、うまい。しみる……」
理文の、ほっとしたような声を聞き、たまにはいっか、とレンゲを口に運ぶ。
「早く良くなってね、文ちゃん」
◇◇◇
翌日、理文は全快……というわけではないが、前日よりも熱が下がり、発する言葉が平仮名ではなくなっていた(ちょっと残念、などとは思ってはいけない)。
そして、のゆりといえば理文の風邪がうつる……なんてことは起こらず、今日も今日とてすこぶる元気である。
ナントカは風邪をひかない、とは言うけれど、のゆりは十八歳の時の大風邪以来、風邪をひいていない。
なので、理文に看病されるというイベントはまだ発生しておらず……まあ、その代わり、のゆりは夏バテしやすいので毎年せっせと甘やかされているわけだが。
「下がってるよ、37度4分!」
のゆりが言うと、理分が「夜にはもう平熱かもな」と言って、バニラアイスにスプーンを入れる。
「愛情たっぷりの『黄色のほわほわ』のおかげだねっ」
「ふはっ、自分で言うんだ?」
「言う。あと、文ちゃん、そういう顔してた」
「バレてたかー」
「棒読みだ! ……って、もうこんな時間」
時計を見れば、8:33……あ、今、8:34になった──いつもの時間より、四分も遅れてる。
「今日もできるだけ早く帰ってくるつもりだけど、無理そうなら連絡するから……」
のゆりは、先週セールでゲットしたジャケットを羽織りながら「何か欲しいものあったら、メッセージ送ってねー」と、言って、どたどたと慌ただしく玄関に向かう。
すると、毛布を被った理文もフローリングをぺたぺた鳴らして付いてくる。
どうやらお見送りをしてくれるらしい。
普段は理文のほうが先に出るので、新鮮だ。
「行ってくるよ、ハニー! 治ったら、いっぱいいちゃいちゃしようね!!」
おふざけの中にちょっとの本音を混ぜ込んで抱き着くと、耳元で囁かれた。「風邪が治ったら襲ってね、ダーリン」
「ひえっ!」
のゆりは、変な声が出た。
「いってらっしゃい」
「へい! いってきますです!」
「『へい』って……ふはっ」
「い、いってきます!!」
「気を付けて」
「へいっ!!」
「ふはっ」
またもや吹き出す理文をドアでシャットアウト。
それから、早足でエレベーターホールに向かって、一階ボタンをぽちり。
ああ、もう、熱が出そう。
自分だけしか乗っていないエレベーターの中、熱くなった頬を押さえ、のゆりはぽそりと呟く。
「……早く良くならないかなあ」
のゆりはエレベーターの鏡に映る真っ赤な自分を睨みつけ、今日も残業は絶対にしない! と決意した。
【黄色のほわほわ:完】
(平熱になっても、病み上がりだから今夜は襲えないんだな)