06 新田さんの奥さんの噂
社食の焼きそばって、なんだか物足りない。
じゃあ食うなよ、という話なのだが、しかし。今日はどうしても焼きそばが食べたい気分だった。
理文に限らずとも、あるはずだ。『今日は〇〇の口』、もしくは『〇〇の気分』、『絶対〇〇を食べたい』という日が。
〇〇に入るのはカレーだったり、ラーメンだったりすると思う。
理文の場合はそれが焼きそばだったという話だ。
朝の通勤中にたまたま聞こえた会話で、とか、中吊り広告で見て、とかではない。
電車を下りた瞬間、ふと思ったのだ。
焼きそばが食べたい、と。
「……」
でも、これなら普通に日替わり定食でよかったかも知れない。理文は思った。
不味くはない、決して。でも、食べたいと思っていた期待に応えてくれる美味さではない。
これでは、ますます焼きそばが食べたくなってくるではないか。
理文は、咀嚼したものを飲み込むと、はあ、と溜め息を吐き、「……焼きそば食べたい」と呟いた。
「何言ってんスか? もう食ってるじゃないっスか」
スかスか言う三個下の後輩・山田の言葉に、理文は「そうなんだけどさ」と返し、「そうなんだけどなあ……」と、続け、目の前の後輩の選んだ日替わり定食を見やる──今日の日替わり定食は、豆腐ハンバーグとトマトのサラダ。そして白米、大根とわかめの味噌汁だ。山田はそれに追加注文とした冷奴と杏仁豆腐をプレートに載せている(どれだけ豆腐が好きなんだ?)。
「……やっぱり、日替わり定食にすればよかった」
「俺の豆腐御膳はあげないっスよ」
「要らない。あー、焼きそば食べたい……」
「だから、食ってるじゃないっスか」
うひゃひゃ、と笑う後輩に、理文は声を潜めて「社食の焼きそばって具、少なくない?」と聞き、同時に「あ」と気が付いた。
不味くはない。でも、物足りない。そう思ってしまう理由が『具が少ない』ということである、と。
「そっスか? こんなもんっスよ? 実家もこんな感じでしたもん。んで、出てくると『なーんだ、焼きそばかよー』ってガッカリするんス。山田家のガッカリメニュー三位でしたね、焼きそばって」
そう言うと、山田は豆腐ハンバーグを箸で大きく切って頬張り、「んめえ〜」と何かの動物のように鳴いた。
午前中にリーダーにしこたま叱られた男の表情とは思えない幸せそうな顔だ。
そして、山田家の『ガッカリするメニュー』第一位と二位は一体何なのだろう……。
「んん? もしかして、新田さんの実家の焼きそばって、めっちゃ美味いとかっスか? ぽいっスよねえ。新田さんの家の飯、レベル高そうっスもん」
ご機嫌なスかスか後輩の言葉に、理文は「そんなことないけど」と答え、焼きそばをもそもそと口に運ぶ。
理文が答えた言葉に嘘はない。
というより、理文の実家では焼きそばが食卓に上がったことはないので、美味いも不味いもないのだ。だから、レベルどうこうの話でもない。
まあ、手作りの料理が並んだこと事態が稀なのだけれど。
……いや、稀どころか皆無かも?
理文は一般家庭の『普通の食事』を知らない。
おそらくは、彼らよりは豪華で華やかな食事だったのだろう。
確かに食卓に並んだ料理はどれも美味かった。レベルとやらも高いのかも知れない。
しかし、それが嬉しかったか? と問われれば、答えはノーだ。
「へ〜? じゃあ、奥さんの焼きそばがめっちゃ美味いとかスかね?」
山田の問いに、理文は「あ、それだ」と反射的に答えた。
社食の焼きそばは具材が少なく、麺がメインだ。
だけど、妻・のゆりの作るそれは具沢山──赤パプリカ、黄パプリカ、ピーマン、玉ねぎ、しめじ、豚バラ肉が入っていて、麺は少なめ。ちなみに太麺で、市販品の粉を使う。
これは、彼女の実家の焼きそばレシピだそうだ。
「山田は(たまに)鋭いな」
これで期限を守ることとと敬語を使えれば、言うことはない……ことはないのだが、仕方がない。
だって、山田だもの。
という言葉は流石に飲み込んだ。
だって、理文はこいつの先輩だもの。
「でっしょー? てか、ガッカリメニューランキング三位の焼きそばを美味く作れる新田さんの奥さんって、かなりの料理上手ってことじゃねっスか!? やっべえ、いいなあ。俺のカノジョ、飯めっちゃ不味いんスよね。まっ、その代わり、超絶可愛いからいいんスけどー」
「なんだそれ、俺の奥さんだって超絶可愛いよ」
山田の言葉に少しばかりムッとした理文は言い返した。
理文はのゆりの料理がとんでもなく下手だとしても、全然問題ないし、むしろ『超絶可愛い』と思う気持ちの方が面積が広い。
「うおっ、惚気けられた……! てか、新田さんも惚気けるんスねー。やべえな、パネエなー」
何が、『ヤバい』のだろうか。
山田とは、たったの三歳違いなのに、奴の言葉の意味が分からない。……全然分からない。
それはともかく、とりあえず……──
「山田、リーダーには今みたいな話し方はしないようにな? あの人、そういうのに厳しいんだから。あと、ポーズでいいから少し落ち込みなさい」
「マジですっげえ! 同期らに話してもいいっスか?」
「……こういうとこなんだよなあ」
理文は、ふっと笑ってから皿半分ほど残っている焼きそばをやっつける作業に取り掛かった。
◇◇◇
「ただいま」
「おかえりなさあい」
理文が帰宅すると、のゆりに出迎えられた。
「今日のご飯、焼きそばだよ」
「おっ、やった!」
のゆりの言葉に理文の口角が上がる。
部屋の前に来た時から予感があったのだ。
というより、匂いで何となく予想が付いた。
「なんと、ビールもあるのだ〜」
へへん! と得意顔ののゆりの頭を撫でると「もっと撫でて」と強請られた。
……もう帰宅しているのだし、髪を崩してもいいだろう。
一生懸命わっしゃわっしゃ撫でてやろう。
可愛い可愛いしてやろう。
のゆりは、理文が『可愛い』と言っても信じないので、念を込めて撫でてやろう。
「うあ〜、文ちゃん、もういい〜〜っ、もう要らない〜〜っ」
◇
「──今日ね、会社行く途中でビビビッときてね」
のゆりの好きなメーカーのビールは、いつの間にか理文の好きなものになった。
そのビールで乾杯し、具沢山の焼きそばに箸を付けようとした時、のゆりが言った。
「今日はどんな『ビビビッ』?」
のゆりは、よく『ビビビッ』とくる。
「『焼きそば食べたいなあ』の『ビビビッ』」
「ふはっ」
「?」
「いや、俺も『今日は焼きそばの口』だなあ、ってずっと思ってたから」
「えっ、それはすごいね、運命だねっ! どうしよう、お祝いの乾杯でもう一本ビール開けちゃう?」
「それはだめ。まだ水曜なんだから、我慢しなさい」
「…………はあい」
のゆりは、すぐお祝いしたがるし、酒好きだ。しかも、ザル。理文より強い。
「どうせなら金曜に開けよう。のゆりの好きな映画、ロードショー放映あるし、観ながら飲も」
のゆりは、某国民的アニメ映画が大好きで、既にDVDを持っているのに、テレビでのロードショーを観たがる。
「それって、最高! わーい! 楽しみー!」
「金曜、何食べる?」
食事中に、二日後の食事について話すというのも可笑しな話だが、理文とのゆりの間では割と普通だ。
そして、理文はこの『普通』を気に入っている。
「うーんとねぇ……」
のゆりは、そう言うとグラスに注がれている金色の液体をくぴりと飲み、「何でもいい?」と首を傾げて聞いてきた。
「いいよ。明日、会社早く上がれる日だから買い物できるし」
「たこ焼き。私、たこ焼きが食べたい。たこの他にね、ウィンナーとか、チーズとか、コーンとか入れたい」
焼きそばとたこ焼きで、ソース味が被るとは言わずに、理文は「いいね、やろっか」と答える。
「わーい! たこ焼きパーティーだー! 楽しみ〜!」
遅い時間にソースを摂取すると、のゆりは胃もたれするからサクッと食事を終わらせて、あとはツマミでも摘むとするか。
理文は明日の買い物リストを頭の中でまとめながら、具沢山の焼きそばを頬張り、「最高に美味い」と言い、「これだよなあ」としみじみといった様子で続ける。
のゆりは「大袈裟ぁ」と言ってけらけら笑うけれど、理文にとっては大袈裟なんかではない。本気でそう思う。
「本当に美味い」
「ふふっ、文ちゃん、焼きそば好きだねえ。手抜きメニューなのに」
酒を飲んでも赤くならないのゆりが、頬をほんのり赤くする様子を見て、理文は「うん、好き」と小さく呟き、グラスをぐいっと煽った。
今日も今日とて、理文の妻はとっても可愛い。
……でも、可愛いと言っても、どうせ『文ちゃんのほうが可愛いよ!』と返ってくるので言うのはやめておこう。
そうだ、代わりに……「もう一回撫でる?」。
「ううん、もう要らない」
「……」
「焼きそば、おかわりあるよ」
「手強いなあ」
「え、何?」
「ううん、何でもない」
──翌日、山田の同期である後輩に、朝の挨拶ついでに「山田から聞きましたよぉ」と言われた内容を、理文はしっかり頷いて肯定した。
【新田さんの奥さんの噂:完】
料理レベル
のゆり:★★★★★☆☆☆☆☆
理 文:★★★★★★★★★★