05 好きな子、って言った
最高気温が地獄の釜みたいだった夏が急に終わったと思っていたら、ハロウィンもあっという間に終了。
オレンジと黒から赤と緑に変わった街を見たのゆりは、忙しないなあ、という感想を持った。大体、まだクリスマスまで三週間もあるのになあ、とも思う。
とはいえ、のゆりもクリスマスシーズンはわくわくする口だ。
もうのゆりの元にサンタクロースは来てくれないけれど、飾りは可愛いし、街も華やかで、音楽も気分が上がる。
今この瞬間もクリスマスが待ち遠しい。
そういえば、理文は今年は何を作るのだろう、と食いしん坊なのゆりの口角が上がる。去年はかなり本格的なローストビーフと、カラフルなベーグルサンドを作ってもらった。
どちらも美味しくて、のゆりは食べ過ぎた。
美味しそうに食べるのゆりを見てとっても嬉しそうにしていた(ように見えた)けれど……でも、待って? こんなカノジョでいいのか……? いや、良くない。
全然良くないぞ、ぽやぽやのゆり!
今年こそ、のゆりがとびっきり美味しいものを作って胃袋を掴んでメロメロにしてやらねば!!!
──理文とのお付き合いが二年目に突入する頃、のゆりはこういった経緯から決意をした。
社外での勉強会が終わり、「今から戻ります」と電話で報告すると「直帰でいいよー」という返事が返ってきた。
現在の時刻は16:03。
平日にこんな早く帰れるなんて、ちょっと……いや、かなりテンションが上がる。
帰ったら、サブスクのドラマでも見ながらゆっくり荷造りでもしよう、とスマートフォンをタップする──来月から、理文とのゆりの同棲生活が始まるので引っ越し準備をしなければいけないのに、まだ何一つ作業が進んでいない。
でも、まあ何とかなるだろう。多分。
『☆簡単なのに豪華なクリスマスレシピ☆』の文字を見ながら、お気楽なのゆりはそんなことを思った。
チーズと生ハムとオリーブのピンチョス、トマトのチキン煮込み……あ、これなら難しくないかな。
ん? 何だこれ、ぱて・ど・かんぱーにゅ……? ……何かの呪文?
でも、画像を見るととても美味しそう。見ているだけでワインが恋しくなってくる。
スマートフォンでのゆりでも作れそうなクリスマスのレシピを検索中なのに、気付けば『のゆりが食べたいもの』ばかりに目が移る。ついでに『お酒と相性が良いもの』にも、のゆりは大変弱い。なんせ、食いしん坊なので。
だけど。
あー、もう、こんなんじゃだめなんだってば〜……と、思いながら顔を上げると、リクルートスーツを着たにこにこ顔の女の子がいることに気が付いた。
女の子は緩む頬を手で押しながら、スマートフォンに文字を打ち込んでいて……と思った次の瞬間に、女の子は通話をしていた。
そして、「うん、そうなの。うん、内定出た。超嬉しいっ」と周囲を気にしながら小さな声で、しかし、嬉しくて堪らないというような声で言った。
のゆりも、この季節に内定を貰った。
『文ちゃん、私、内定貰ったよ』
──薄手のトレンチコートでは寒かったあの日。
のゆりは彼の会社の定時時間を今か今かと待って、でも時間ぴったりにかけてはだめだと考えて、三十分待とうかなと思ったのに……結局、我慢できずに定時から十五分過ぎて通話ボタンをタップした。
お祈りレターやお祈りメールばかりを貰っていたから、その日届いたそれを、のゆりは詐欺かも知れないと疑った。
だけど、四回読んでようやくそれが採用の連絡であると気が付いた。
駅のトイレの個室でのゆりはちょっとだけ嬉し泣きをして、父と母にメッセージを送った。兄には送ってない。だって、どうせ夕飯の席で聞くだろうし。
祖父と祖母にも送ってないが、これは彼らがメッセージアプリを使用していないからで、兄へ送らない理由と同じな訳では無い。
そんなこんなで、涙が引っ込んだのゆりは、トイレから出て駅中にあるチェーン店のカフェに入店した。
温かいソイラテを注文し、一人掛けのソファーに座り一息付けばまたスマートフォンを取り出す。
〈井上 のゆり、内定出ました!〉
一ヶ月前に大手出版社から内定が出ている親友のみっちゃんからは、即返事が届いた。
〈おめでと〜! お祝いしよ〜! 酒盛りじゃ〜!〉という文言とハート乱舞のメッセージに「ふふっ」と声が漏れて、のゆりは慌てて口を押さえて周囲をこそりと見渡す。
誰ものゆりに不審な目を向けていないのを確認し、メッセージの確認を再開。
大学の仲の良い子達からも、みっちゃんと同様の返事が届いていた。
のゆり以外は夏に内定を貰っていて、大層気を遣われていたのだ。
友人達とのメッセージのやり取りが終われば、次は好きな人への報告だ──のゆりを妹みたいと可愛がってくれる新田 理文こと、文ちゃん。
メッセージよりも電話で言いたくて、途中まで打っていた文字を全部消した。
18:45。理文は三コールで電話に出た。
報告をすると、理文は感嘆の声を上げてから『おめでとう』と言ってくれた。のゆりの希望がそう聞こえさせたのかも知れないが、彼の声はとても弾んでいた。と、思う。……そう思いたい。
『お祝いしよっか。のゆり、何食べたい? 何でもご馳走するよ』
もうっ、のゆりの周りはみーんな、お祝いしようって言うんだから!
と、呆れたふりをしながらも、実は嬉しいし、その嬉しさは隠しきれていない。
『やったぁ! 私、お寿司がいいっ』
大声にならない程度に言ったが、弾んでいるのはバレバレだろう。
ご馳走という言葉が嬉しいのはもちろんだけど、会う約束をするということが嬉しい。それに二人で会うのは久しぶりだ。
『じゃあ、回らないとこでも行く?』
ふはっと吹き出した音と共に、理文は言った。
『えっ、そういうお店に私みたいなのはまだ早いよ。……前にバイトの皆で行った百円皿のとこがいいな。ほら、文ちゃんの好きな餡蜜とか、抹茶プリンとかスイーツが食べられる回転寿司』
『ん? そんなんでいいの?』
『うん。私ね、今、サーモンとか納豆巻きが食べたい気分なの。それに、回らないお店は私の初任給で文ちゃんにご馳走したいから、今回は回転寿司がいいな』
『……回ってる抹茶プリンが食べたくなってきました』
『やだ、そこはお寿司のネタ言ってよ』
のゆりが笑うと、理文も電話越しに笑った。
理文ものゆりもお寿司は大好きなので、『美味しい』は共有できるだろう。
もう予想だけで、最高に楽しいし、最高に美味しい。
いつ行ける? と聞こうとしたところで、電話の向こうから『新田くぅん』と甘えと媚びを多分に含んだ声がのゆりの耳に届いた。
その時、のゆりは思い出した──あ、そうだ。私、『妹枠』だった。
誰とお話してるのぉ? と遠くから聞こえる声に、理文は何と答えるだろう。
自分が妹枠なのは自覚しているけれど、彼からそれを聞くのは嫌だ。
先程までの浮かれたのゆりの気分がどんどん萎んでいく。
でも、この立ち位置を選んだのは自分だ……きちんと受け入れて、ちゃんと失恋しなくちゃ。
のゆりは歪む視界でそう決めた。
だけど、耳に届いたのは『妹』という回答ではなかった。
女の声で発せられた、面白くなさそうな『ふーん』だった。
『新田くぅん』と同じ声だけど、今耳に届いた『ふーん』は、それよりも大分低く、誰が聞いても機嫌が悪いのだろうと分かるもので……あれ? ということは、理文はのゆりに聞こえないように彼女に何かを言って、その言葉が彼女を不機嫌にしたのではないだろうか?
『新田くぅん』には、理文のことが大好き! というのが気持ちが込められていた──のゆりも彼のことが大好きだから、よく分かる。
なのに、たった三秒で『ふーん』。
一体、理文は彼女に何と言ったのだろう……?
のゆりは、いけないと知っていながらも期待してしまう。
だって、『妹みたいな子だよ』や、『ただの後輩だよ』の返答に『ふーん』はない気がする。
まあ、気がするだけだけど、でも。
もしかして、『一番仲の良い女の子』くらいは言ってくれたり……なんてことは、ないだろうか。
のゆりの『一番仲の良い男の人』はダントツで理文なのだけど、理文にとってもそうだったり……なんてことは、ないだろうか。
……これは期待し過ぎだろうか。
のゆりが脳内をお花畑にさせまいと格闘していると、理文が気まずそうに言った。
『……今、俺が言ってたのって聞こえてた?』
『ううん、聞こえなかったよ』
のゆりが素直に答えると、『そっか、なら良かった』と、理文が安堵の息を吐く。
なら良かった?
のゆりは、全然良くない。
だから、のゆりは聞くことにした。
悩んだのはほんの一秒程度だ。
『良くない。……文ちゃん、「誰とお話してるの?」って聞かれてた』
『……』
『なんて答えたの?』
のゆりが聞くと、理文はたっぷりと間を空けてから、彼らしくない小さく自信なさげな声で答えた──
◇◇◇
「わっ、これ、ぱて・ど・かんぱーにゃ?」
「おしい。pâté de campagne」
「パテ・ド・カンパーニュ!」
「うん」
「美味しそう!」
なんとかかんとか引っ越しが終わり、クリスマスに間に合ったのゆりはまだ開けていない自分のダンボールを背に、ご馳走に感動していた──当然、理文の荷ほどきは全て終わっている。
結局のゆりはパテ・ド・カンパーニュを作ることが出来ず、デパ地下のお惣菜にお世話になった……。
忙しくて時間がなかったのだ、という言い訳をしたいが……まあ、そういうことだ……(意地悪なツッコミはやめてほしい。人には得意不得意というものがある←これが真の言い訳である)。
しかし、忙しかったのも嘘ではない。
なんせ走り抜けるように終わってしまう師走である。
仕事ももちろんだが、開催の理由が不明な会社の忘年会への参加や、絶っっっ対に開催したい友人達との飲み会、兄の弾丸『妹に会いに来てやったぞ』ツアーなどなど、イベントが盛り沢山な十二月の引っ越しは、本当に、本当に、本当〜〜〜に、面倒で大変だった(……まあ、面倒で大変なことのほとんどを理文がしてくれたのだけれども)。
理文と会うのだって二週間ぶりだ。
でも、今日からは『いってらっしゃい』『いってきます』『ただいま』『おかえりなさい』が言い合える。
「あ、想像よりもずっと美味しいっ」
「のゆりの買ってきたワインと惣菜も美味いよ。でも、高かったろ?」
「えへへ、うん。ちょっとだけ奮発したんだあ。『これからよろしくね記念』に」
「…………じっくり味わいます」
あれ? 理文が敬語だ。
この会話のどこで照れたんだろう──彼は照れると敬語になる。本人は直したいと思っているようだけど、のゆりは一生このままでいてほしいなあと思っている。
「作るの大変だった?」
「ううん、全然」
「ほんとに?」
「本当に」
「……文ちゃん、あのね」
「うん?」
「来年は私が美味しいの作るね! 再来年も、その次の年も、ずっと、ずーっと作るから!」
「それはそれは。……楽しみにしてます」
アルコールを摂取しても顔に出ない理文の顔が赤い理由を考えて、痛い勘違いでも、過度な期待でもないなあ、と結論付けたのゆりは、決して自惚れ屋なんかではない。
のゆりはそれが堪らなく嬉しい。
「メリークリスマス!」
のゆりのご機嫌が移ったのか、それとも何か面白かったのか「ははっ」と笑う理文を見て、のゆりも声を上げて笑った。
──余談ではあるが、のゆりは来年のクリスマスも、再来年のクリスマスも次の年のクリスマスも、ずーっと理文の作る呪文みたいな料理を食べることになるのだが……今ののゆりには与り知らぬことである(南無!)。
【好きな子、って言った:完】