04 一番可愛い顔を見る方法
目が覚めたのは、あと一時間半ほどで昼になる時刻だった。
体を起こしたのゆりが寝ぼけ眼をこすると、「おはよう」と声がかけられた。
そろそろ起こそうかと思ってた、と言う理文の手には洗濯物があって、それを干している途中というのが分かる。
彼と同じ時間に眠ったはずなのに、なんでこうも違うのだろう?
ぼんやりする頭で考えながら「おはよう」と朝の挨拶をむにゃむにゃ返す。
換気の為開けられている窓からはそよそよと気持ちの良い風が入ってきていて、部屋に洗濯したばかりの衣服からは柔軟剤の良い匂いが漂い、外からは子供達のきゃいきゃいはしゃぐ声が聞こえる。
そして、ちらりと確認したゴミ箱の中は空っぽだ──昨夜の痕跡が一切ない、爽やかで穏やかな土曜日の朝である。
のゆりは、理文に「シャワー浴びてくるー」と、声をかけてからフローリングの床に足を下ろして風呂場に向かった。
体力をつけなきゃなあ、と思いながらシャワーを顔に当てる──シャワーでの洗顔は肌に良くないと聞くけれど、のゆりはついついやってしまう。
時間のない平日には、丁寧に肌のお手入れができるのに休日になると途端に面倒になってしまうのはなぜだろう。
女子力の高い親友のみっちゃんには『休日こそしっかりするもんでしょ?』と言われるけれど、できないものは仕方がない。
だが、しっかりしたいという気持ちだけは持ってる、と言い訳したい。
シャワーを浴びてさっぱりしたら、のゆりはようやく目が覚めた。
部屋に戻ると、マグカップを傾けた理文がテレビを見ながら寛いでいる様子が目に入った。
ブラックコーヒーが似合いそうな理文であるけれど、彼と付き合いの長いのゆりは、彼が好むのが牛乳に加糖タイプの濃縮キャラメルコーヒーポーションを入れたものだということを知っている。
むしろ、ブラックコーヒー派なのはのゆりである。
豆から挽く、なんてこだわりはないので専らインスタントコーヒーばかり飲んでいる。
電気ケトルに一杯分の水を入れてスイッチをオンにして、空のマグカップにインスタントコーヒーの粉を入れ、頭を拭きながらお湯が沸くのを待つ。
このケトルはのゆりの一人暮らし時代から使用しているケトルで、もうそろそろ七年目に突入する。
もうそんなに使っているのかあ、と思っている内に、ぱちんっとスイッチがオフに切り替わった。
お湯が沸いたサインだ。
お湯を注いで真っ黒な液体でマグカップを満たしたら、テレビを見ている理文の隣に腰を下ろして、ゆっくりゆっくりコーヒーを啜る。
──何ともなしに見たテレビ画面には、シュークリームが映っていた。
もっと詳しく言えば、数量限定のシュークリームを試食したアイドルが、目を溢れんばかりに開き「と〜っても、美味しいですぅ」と、言いながら体をくねらせる様子が映っていた。
甘党の彼には堪らない特集なのだろう。
そう思いつつ、テレビを眺めながらコーヒーを飲み進める。
アイドルの食レポは微妙だったが、緊張した面持ちで「た、卵の味が濃厚なカスタードクリームを、か、固めのシューでサンドしました!」と、ふくよかな店主が喋っている様子は、とても好感が持てた。
テロップが流れ、その店はK駅の近くにあるということが分かった──K駅は最寄りから二駅しか離れていない。
機会があれば理文に買ってこよう。
──ふと時計を確認すれば、もう正午を少し過ぎていた。
もう昼か、と自覚した瞬間、くう、とのゆりのお腹が鳴る。
「のゆり、腹減った?」
「うん、減ったあ」
「そういえば、のゆりは朝食べてなかったな」
「遅く起きたからそれはいいの。ね、文ちゃんは? 朝ご飯何食べた? ていうか、何時に起きたの?」
「七時半頃に起きて、バナナ一本食べて、ちょっと仕事してから九時頃走りに行って……あー、バナナしか食べてないや」
理文が「あ、これも飲んだよ」と言って、空のマグカップをのゆりに見せる。
「そうなんだ。じゃあ、文ちゃんもお腹減ってるんじゃない?」
「んー、減ったかも?」
「お昼ご飯、何食べる?」
「何食べよっか?」
疑問形の会話が終わると、テレビから「ヤバいです!」という先ほどのアイドルに引き続いて微妙な感想の声が聞こえてきた。
今度は何を紹介しているのだと見てみれば、ドアップで映し出されたのは箸で持ち上げられてる麺の映像だった。
「豚骨醤油スープが縮れ麺によく絡まりあってて、ヤバいくらいに美味いっす!」
ヤバい、ヤバい、と言って麺を啜るのは番宣で番組に出演したらしい可愛い系の顔をした肩が華奢な男の子だ。
女子中高生に大人気! という紹介文が表示されているが、女子高生を卒業して随分経つのゆりには、欠片も彼の良さが分からなかった。
はっきり言って、タイプじゃない。
だが、彼が食べているラーメンはとても魅力的に見えた。
つやつやの麺が綺麗で、目が話せない。
思わず、ごくりと喉が鳴る。
「ふはっ」
隣の理文が吹き出す。
そして、
「今日の昼は、ラーメンにするか」と、言って、また笑い出した。
後に聞けば、のゆりがぱかりと口を開けていた横顔が面白かったそうだ。
が、そんなに面白い顔をしていたのだろうか?
いやはや、理文の笑いのツボが分からないのゆりである。
さてさて、今日は冷蔵庫の中が空っぽになることが多い土曜日だ。
今週の土曜も例に漏れず、冷蔵庫の中身はすっからかん──牛乳も理文が飲みきった後で、ニンジンが一本入っているだけという、なんとも切ない状況である。
なので、どうせ買い出しに行く予定だった二人は、外で昼食を食べることにした。
◇
二人で住むマンションから八分の場所に、そのラーメン屋はあった。
理文がジョギングをしている際に見つけた、彼曰く「気になってたラーメン屋」だそうだ。
赤い看板には黒い毛筆フォントで店舗名が力強く書かれている。
同じフォントで『拉麺』と書かれている白い提灯が吊るされていて、『ここはラーメン屋だぜ!』という主張が強い。
並んでいる人達の最後尾に着き、理文に「何味が美味しいかなあ」と聞くと、「見て決めよっか」と、スマートフォンに表示されている店のメニュー表を見せてくれた。
「わあ、どれも美味しそ……あ、文ちゃん、見て。『麻婆豆腐拉麺』だって。初めて見た」
「俺はここの店じゃないけど、食べたことあるよ」
「へえ、美味しかった?」
「……まあ美味かったけど、」
言葉をそこで一旦区切った彼は並んでいる客に配慮したのか、のゆりの耳元で小さく「リピートするまでではないかなって思った」と囁いた。
「なるほど、参考になった。……んー、じゃあ、どうしよっかなあ」
「俺は、決めた」
「え、何?」
「この『醤油チャーシュー麺』」
理文はメニュー表の中で一番写真が大きいラーメンを指差した。
分厚いチャーシューが六枚乗ったそれは、平面だというのにとても美味しそうだ。
「『当店一番人気!』って書いてあるね、大盛りにするの?」
「んー、半チャーハンも頼むからやめとく。のゆりは?」
「うーんとね、この『海老味噌拉麺』と、こっちの『軍鶏特製塩拉麺』で迷ってるんだけど……」
これとこれ、とのゆりが深刻な顔で指差しながら言うと、理文は親指と人指を使って画像を大きくして、「海老が細麺で、軍鶏が太麺だって」と教えてくれた。
「のゆりは、麺は太い方が好きだから『軍鶏特製塩拉麺』じゃない?」
「おおっ、さすが文ちゃん。これにする!」
食べるメニューが決まり、理文と犬が二足歩行している動画を見ている内に順番がきた。
券売機に入れるお金は二人の共有の財布からだ。
のゆりよりも食べる量と給料が多い理文に多めに出してもらっていて、この財布から引き落とし以外の諸々を出す。
家計簿はアプリでつけていて、それも共有している。
席は、壁にぴったりくっ付いている小さめのテーブルに通された。体格の良い理文は少し窮屈そうだ。
見渡した昼時の店内は満席で、男性客が八割を占めている。
実はのゆりはラーメン屋にあまり来たことがない。
昔、家族でスキー場に行った時と、友人らに連れて行ってもらった時の、数えるほどの記憶しかない。
その内の一回が理文となので、彼とラーメン屋に入ったのは二回目になる。
茶色く日焼けした壁に貼られているメニューを見ていると、大学生風の金髪の女性店員が「おまちどさん」と愛想なく言って、ゴトンと重い音を立てて器を三つテーブルに置いた。
のゆりは太麺が沈む透き通ったスープと対面し、「わあ」と声を上げた。
トッピングは大振りなチャーシューが二枚と、半熟の味玉とたっぷりのネギ──メニュー写真と同じだ。
れんげと割り箸を理文から受け取り、「いただきます」と二人で手を合わせてパキッと割り箸を割る。
レンゲをスープに沈めて掬って、口に運ぶ。
旨みがぎゅっとつまったスープは、昆布の香りがした。
それから箸で持ち上げた麺をレンゲに畳んで、その上にネギをちょんと乗せてから、ふうふう冷ましてから口に含む──のゆりはラーメンを啜れない。
熱くて、はふ、と音が漏れた。
太麺はコシのあるモチモチとした食感で、濃厚なスープと良く合っていた。
チャーシューは肉厚で柔らかく、噛むと肉汁が溢れ、半熟の味玉はねっとりと濃い味がして、箸が止まらない。
のゆりがようやくどんぶりを半分やっつけた頃、理文はラーメンを食べきって、レンゲで綺麗な半円のチャーハンを掬っていた。
夕飯は野菜多めのメニューにしないとなあ、と見ていると、「食べる?」と言ってチャーハンが乗ったレンゲをこちらに寄せてきた。
所謂、『あーん』というやつだが、照れる期間はとっくに過ぎているので、のゆりは、ぱかっと素直に口を開けた。
咀嚼したその瞬間、卵で閉じ込められた刻みメンマとネギの旨みが口の中に広がった。
米がぱらぱらで、舌で具材一つ一つ感じられるのも面白い。
「美味い?」と、聞く理文に、のゆりはこくこくと頷いた。
チャーハンは、絶品だ。
醤油味が香ばしく、お世辞なしにとにかく美味しい。
特別なものは何一つとして入っていないのに、どうしてだろう。
「美味しい!」
のゆりが飲み込んでから感想を言うと、理文は嬉しそうに笑ってから頷いた。
「もっと食べる?」
「ううん。ラーメン入らなくなっちゃう。……ていうかさ、文ちゃんっていっつも私に色々食べさせようとするよね」
「そう?」
「そうだよ。なんで? 太らせたいの?」
「違うけど?」
「……じゃあ、なんで?」
何も言わずにただ微笑む理文を前に、のゆりは怒る顔を作ろうとして失敗した。
……チャーハンが美味しいせいである。
◇
結局、大きなチャーシューを一枚、理文に食べてもらうことになったがラーメンは完食した。
「美味しかったー、お腹いっぱいー」
「だなあ」
そこまで大きくない店なので、長居はせずにさっさと退出して、来た道を戻る。
次はスーパーに買い出しだ。
ラーメン屋とスーパーは逆方向なので十五分程歩くが、腹ごなしに丁度いい。
「ねえねえ、文ちゃん」
「ん?」
「スーパーに、シュークリームって売ってるかな?」
甘いものを好まないのゆりには、スーパーにシュークリームが売っているかのかが分からない。
「売ってるけど、なんで?」
「文ちゃんが食べてるところが見たいから」
「え? 何それ。なんで?」
「文ちゃんはね、甘いものを食べている時の顔が一番可愛いからだよ。……今日はスーパーので我慢してね? 今度、すっごい美味しいの買ってくるから」
理文は、一瞬ぽかんとしてから吹き出した。
──その日の夕飯の後、理文は一番可愛い顔をのゆりに見せてくれた。
【一番可愛い顔を見る方法:完】