02 ふわふわして温かいもの
短編初掲載日:2022/08/22 改稿:2023/08/10
カタカタカタカタカタカタ、タン。
そして再びのカタカタ……エンドレスカタカタ。たまに気持ちを込めて、両隣に人がいない時にしかできない強めのターン。
のゆりは閑散としたフロアで残業をしていた。
本当は定時で帰れるはずだったのに。
今日は華の金曜日なのに。
子供の頃から大好きな国民的アニメ映画(ノーカット版)が放送される金曜日なのに。
理文と『たこ焼きパーティーをしようね!』と約束していた金曜日なのに!
そんなハッピーフライデーに残業。
しかも自分のミスではなく、やらかした先輩の尻拭いの為の残業。
……朝の占いは一位だったのに。
あんな嘘っぱちな占いコーナーなんて、もう絶対に見てやらないんだからな(見る)。
気が強く、女性社員を『敵か、味方か』で考えるような取扱い注意な先輩は、とある日から変わった。
とある日──いつだったか頼み込まれてのゆりも参加させられた合コンで知り合った男性と交際をスタートさせた日のことだ。
それからの先輩は絶好調。
うっかりカレシの話をしてしまった新卒の女の子を泣かせた人と同一人物か? と疑うほどの変貌を遂げた。
周囲がびっくりするほど穏やかになり、当たりの強さが嘘みたいに薄れていったのである。
春が来た先輩は取扱い注意レベル10から、レベル4くらいまでに下がり、仕事はそれはもう捗るようになった。
しかも私語で恋バナまで振ってくるのだから驚いたなんてものじゃない。驚天動地だ。
恋って、すごい! いつまでも末永くお幸せに!
のゆりは先輩の幸せを心の底から願ったし、祈っていた。
が。
つい先日、とうとう破局してしまった、らしい。
詳しくは分からないが情報通の後輩椹谷くんによると先輩が振られたとか、何とか。
結果、先輩は仕事で大ポカをやらかした。
そして、そのフォローを頼まれたのがのゆりである。
ちなみに先輩は今日の昼過ぎに体調不良で早退している……。
「『──の資料を添付しました。ご確認ください。よろしくお願いいたします。』と……」
集中力が切れてくると文字の打ち間違いが多いのゆりは、逸る気持ちを落ち着かせて口の中で言葉を呟きながら文字を打ち、二度ほど文章を目で追ってから送信ボタンをクリックした。
時刻は二十二時を少し過ぎた頃。
どうやら日付が変わらないうちに自宅には帰れそうで一安心だ。
「ふう」と、息を吐いて、大きく伸びをする。
途端。ぐう──お腹の虫が「お腹すいた!」と鳴いた。
当たり前だ。昼は食堂に行けず、栄養補助食品一本と缶コーヒーだけだったのだから。
忙しいのゆりにお腹の虫は気を遣い、残業が終わるまで鳴かなかったのだろう。
しかし残業が終わった今、遠慮をなくした虫はぐうぐう鳴きやがる。静まりたまえ。
上司やまだ残っている隣の島の社員に挨拶をして帰り支度をしながらも、のゆりは何を食べようかと考える。
たこ焼き? だめだ。のゆりは寝る前にソース系を食べると翌日高確率で胃がもたれる。
では、ヘルシーに野菜スープ? だめだ。なんだか全然気分じゃない。しっくりこない。
ガタンゴトン。
金曜日で浮かれている者が多い電車内でも、のゆりの頭の中は『何食べよう』だった。
そして、ようやくしっくりくるものを見つけた。
──やはり米だ。お米を食べよう! おにぎりだ!
のゆりは最寄りの駅に降り、数あるコンビニの中で一番お世話になっているセブンマートに寄ることにした。個人的におにぎりが一番美味しいコンビニである。
あまり食べないデザートコーナーに足が向かってしまうのはもう癖だ。
理文の好きなシリーズのプリンがラストワンで嬉しい。もちろん悩むことなく手に取って、今度はおにぎりコーナーへ。
しかし、のゆりの愛してやまない鮭ハラミおにぎりは売り切れだった。
それも当然、のゆりの第一希望の鮭ハラミはおにぎりの好きな具ランキング上位。第二希望のツナマヨも勿論ない。
二つとも、こんな時間まで残っている海苔の佃煮とは違うのだ。
のゆりは、しかたないと諦めてプリンだけを持ってレジへ向かう。
……理文のお土産が買えただけ良しとしよう。
のゆりの晩ご飯が『ふりかけご飯』に決まった瞬間である。
◇◇◇
「ただいまあ」
「おかえり。残業、お疲れ様」
のゆりが帰宅すると理文に出迎えられた。
「文ちゃんにプリン買ってきたよ。お土産」
お土産のプリンを渡すと理文は「やったー」と言ってから、「んん?」と首を傾げた。
「のゆり、もしかして腹減ってる? 簡単なのでいいなら、俺作るけど?」
「食べる! 食べたい!」
のゆりが食い気味に返事をして、「やっぱり文ちゃんはエスパー! 大好きー!」と理文に抱き着くと、「腹の音がすごいんだよなあ」と笑われた。
「仕事終わって退社してからずっと鳴ってたよ」
「ふはっ、じゃあこの状態で帰って来たってこと?」
「うん」
「あははっ!」
いや、笑い過ぎでは……?
そう。会社で上司に挨拶をしている時からのゆりのお腹の虫はぐうぐう鳴いていたのだ。電車でも、コンビニでも、ずっと。
「はあ、面白かった。あ、風呂に浸かってきな。その間に用意しておくから」
「はあい」
実に良妻!
のゆりは理文のことを心の中で称賛しつつ、とっておきの桃の香りのバスボムが溶けたお湯に体を沈める。
ふい~、とおまぬけな声と共に肩から力が抜け、先輩への憤りも溶けていく。
……失恋は辛いことだ、ミスもするだろう。
のゆりだって理文に振られたら、辛くて悲しくて仕事どころではない。
風呂から上がり、濡れた髪を適当に拭きながらフローリングの床をぺたぺた歩いていくと、良い匂いがのゆりを迎えた。
「ん〜、美味しそうなにおいがする~」
ぐおおおおお! お腹の虫は進化し、もはや怪物である。
「のゆり。髪、きちんと乾かしな? 風邪引くよ」
眉を顰める理文に、のゆりは「いいの、大丈夫!」と答えるが、彼は納得がいっていない様子だ。
「まあいいや。座って待ってて」
「……はあい」
まあいいやと言いながら、なぜそんな諦め口調なのか。
あと、のゆりの髪は直毛で、尚且つ短いからそんなにきちんと乾かさなくても平気なのに。
と、思いつつ、待っている間にタオルで髪を丁寧に拭く。
理文はかなりきちんとしている部類の人間だ。
学生時代には部長や学級委員長になったことが多く、まとめ役や教えたりするのが上手な頼りがいのある兄貴肌で、先輩にも後輩にも好かれている。
そして、何でも卒なくこなせるタイプで、一緒に暮らし始めてから、家事は分担しているのだが理文の方が多く担っている。それくらい彼は器用だ。
一方のゆりは、大雑把でマイペース。
学生時代にリーダー役なんてなったこともなければ、頼られる側ではなく、もっぱら頼る側。
要領は悪くはないが、飛びぬけて良いところがあるわけでもない十人並みの人間である。
そして、同棲を始めて気が付いたことなのだが、大味でいつも同じ味付けになってしまうのゆりよりも、繊細な味覚の違いが分かる理文のほうが料理が上手い。
料理教室でも通おうか。
男は胃袋で掴めと先人も言っているし。
ちょっと真剣に考えよう──同期の愛海が料理教室に通っているらしいので、来週詳しく聞いてみよう。
そんなことをつらつら考えていると、目の前にランチョンマットが敷かれた。
そしてその上に白米が入ったどんぶりが乗せられる。
米オンリー? と思っていると、まさかそんなはずもなく。隣には焼いた皮なしの塩鮭と急須、いりごまとネギの薬味皿と茶碗蒸しが並んだ。
「冷蔵庫の中、たこ焼きの具材以外何もないから簡単なので悪いけど」
「ううん。全然っ悪くないよ、美味しそう!」
「急須の中ほうじ茶だから、米に鮭乗っけてお茶漬けにして食べて」
「はーい、いただきまーす!」
どんぶりに見合わない米の量に納得しつつ、鮭と薬味をたっぷり乗せてから急須のほうじ茶を注ぐとふわあと湯気がのゆりの顔を包んだ。
木のスプーンで鮭をほぐし、ふうふうと冷まして口に運べばもう止まらない。
絶妙な塩加減の鮭は、両面しっかりと焼き色が付いていて、そんなひと手間が『美味しい』を二倍にしていた。
「あちち」
夢中で食べていると、冷えた自家製麦茶が入ったのゆり専用のグラスが置かれた。
やはり良妻である。是非とも嫁に欲しい。
「ありがとう、お茶漬け美味しかったよ。コンビニで鮭おにぎり買おうと思ってたのになくてがっかりしてたから、本当に嬉しい」
「はは、よかった。茶碗蒸しは腹に入らなそう?」
「入る! お茶漬けに夢中で忘れてただけ」
「ゆっくり食べな」
「うん!」
具なしの茶碗蒸しはとろとろで美味しかった。
もしかしてのゆりは具なしの茶碗蒸しの方が好きなのかも知れないと思ったほどだ。
理文曰くとっても簡単に作れるらしいが、果たして同じものがのゆりに作れるかは甚だ疑問である。
小さめのココットに入っていたので、三口で食べきってしまった。
「はあ、美味しかったあ。ごちそうさま」
「ん。お粗末様でした」
「お粗末じゃないよ?」
「はいはい」
お茶を飲んでリラックスしていると、むくむくとのゆりの中から温かい何かが現れる──お腹の虫、もとい怪獣がまた進化したのだ。
このふわふわして温かいものの正体を、のゆりは知っている。
「──だなあ」
「ん? 何か言った?」
「うん、幸せだなあって……」
にこにこ顔ののゆりに理文は「ずいぶん安い幸せですね」なんて言い返すけれど、敬語になってるので照れているのは、まるっとお見通しだ。
「はあ、私の文ちゃんが今日もとっても可愛い」
「またそれか。俺はいつになったら格好良いって言われんの? 言っとくけど、俺のこと可愛いって言うののゆりだけだからな?」
しみじみ呟くのゆりに、理文は唇を尖らせる。
いかんいかん。
男子は可愛いより格好良いが言われたいのだ、と親友のみっちゃんが言っていたではないか。
「……マサフミクン、カッコイイヨー」
何か違う。
言っていて違和感この上ないセリフだ。
だって理文は可愛い系だ。異論は認めない。
「ったく。……皿、片したら寝るぞ」
「え、待って、待って。片付けは私がやるよ」
立ち上がって素早く食器を持っていく理文に付いていくけれど、広い背中に阻まれて皿に触らせてすらもらえない。
「ご飯も作ってもらったのに……」
「いいよ。今日はサービス」
今日はと言うが、今日もが正しい。
こんなにのゆりを甘やかしてどうするつもりだ、新田 理文!
「なんだかな~~も~~~」
「はは、またのゆりが一人で何か言ってる」
「……文ちゃん、好きぃ」
「知ってます」
「ねえ、あんまり私のこと甘やかしたら、だめだよ?」
「なんで?」
「文ちゃんがいなきゃ何にもできなくなっちゃうからだよ!」
「いいな、それ」
「ええ?」
「いいよ、何にもできなくなっちゃって」
「なんてこった……」
これはいかん、やられっぱなしだ!
のゆりは皿洗いをしている理文の背中にどーんと抱き着いて「愛してるー! 結婚してくれー!」と、のゆり的に胸きゅんする言葉を叫んだ──来春実写化が決定している映画の原作である少女漫画のヒーローの渾身のプロポーズである。
嫁に来い! 新田 理文!
「結婚してくれって……もう、してるんだよなあ」
「ん? あれ? ほんとだ。してたね」
そういえば、のゆりが嫁だった。
先週、二人で役所に婚姻届を出していたことを思い出し、「えへへ」と誤魔化すと「頼みますよ、奥さん」と呆れ口調が返ってきた。
──やっぱり、可愛い。
愛する旦那様の耳は真っ赤なのであった。
【ふわふわして温かいもの:完】