鬼は内、福は外
「鬼は内、福は外!」
今日は節分だ。豆まきの音が聞こえる。
ここは東京都の小平。ここで周りとはわざと違う方法で節分を行う者がいる。
そしてやがて来訪者がやってきた。
それはたたら製鉄を行う者。
皆「鬼」と言われて異界の者と言われてきた者達であった。
たたらは目をやられるため片目をふさいでいるものが多い。ゆえに一つ目鬼として扱われているのだ。
とはいえ、奥多摩から里に下りて物を買う時にはふもとの多摩の村々へやって来る。が……節分の時は居場所がないのでこうして小平に来るのだ。何も刀剣だけを売るのではない。大量の薪を必要とするので薪売りでもあるのだ。奥多摩は薪売りの聖地でもある。
「ようこそ」
そこには赤飯が用意されていた。
「すまねえな……植竹」
片目の者が言う。
「いんです。ゆっくりしていってください」
「いいんかい? 身内の者は今日別の家で寝泊まりしてるんだろう?」
そうなのだ。だから「福は外」なのである。「鬼は内、福は内」と言う地域ではないのだ。
下流の者はたたらを行うものを恨む者が多い。樹を大量に伐採するため洪水がたびたび起こるのだ。ゆえにたたらを行う者は「鬼」として扱われるのだ。たたらのせいで本来は穏やかな川である多摩川も氾濫するのだ。
――自分が持ってる剣はたたら製鉄技術者によるものなのに
――お前が持ってる鍬の鉄の部分は誰が作ったものだ
たたら製鉄を行うものは己の心に潜む鬼を封印するためにも竈神社というものを祀る。竈神に心の内側にある怒り……つまり鬼を封じるのだ。鬼が鬼を封じているのである。だから奥多摩や奥秩父には竈神社が多いのだ。
神棚には「竈神社」とあった。
男は神棚に祈りをささげた。
「今日は居場所のねえ『鬼』たちが来るぞ」
「さようで」
すると鬼はたくさんの小判を差し出した。
「ありがとうごぜえます……鬼神様」
「植竹……酒をくれないか」
「へい」
しばらくして植竹は酒を持ってきた。鬼へ盃を差し出す。
「よお、てめえもか秋葉」
修験道の者もやって来る。山岳信仰に身をささげる者も「鬼」扱いなのだ。
「牧、お前もな」
「他家から逃げ出してきた鬼」とは病魔だけではない。実際に疎まれている人たちもそうだ。
狭山茶の壺を牧と呼ばれた鬼はそっともらう。
「山の上じゃ茶はなかなか育たないからな」
ゆっくりと酒を飲む牧。
酒をじっくりと味わった牧は刀の鞘を数本受け取った。
「ふむ……なかなかの鞘だな」
さらにたたらの者がやって来る。
「鬼」たちが集う。
「病魔の神様もきっとここに居るだろうな」
そう言って空の黒い厨子を見る。そう……川の氾濫は様々な病魔も呼び寄せる。ゆえにたたらの者は鬼とされるのだ。
「まったくだ」
ここは鬼の宿。一夜限りの鬼の宿なのだ。
翌日の朝……植竹以外誰も居なくなっていた。
=終=
『植竹家の台所には「鬼の宿の神様」という神棚があり、空の黒い厨子が置かれている。節分の夜、鬼が逃げてきてこの厨子の中に隠れている、と考えられている。』
水野道子「鬼の宿」『西郊民俗談話会』 1981 p16. 採録地小平市小平町
『節分の夜、小川家では他家から逃げ出してきた鬼を迎え入れ、赤飯を炊き、酒を供えて静かにもてなす。』
水野道子「鬼の宿」『西郊民俗談話会』 1981 pp15-16. 採録地小平市小平町
このような昔話は別に小平だけではなく日本各地に点在するが今回は参考文献に従って場所も小平とした。
なお……。
『2月8日と12月8日には1ツ目の鬼が来るのを防ぐため目籠を門口に下げる。』
真中勝子「幸手市の年中行事(二)」1991年 pp28-32. 採録地埼玉県幸手市
とあるように確実にこの「一つ目」とは目に見えない者ではなくおそらく実際に居た者であろう。つまり「目籠を門口に下げる」ことで出禁にするのである。