第22話 一粒の涙
瞬きを一つ。
気がつくと、周囲から魔法の気配が消えた。
「え?」
驚いて声を上げたのはジリアンだけではない。正面に向かい合うハワードも、後ろでジリアンを援護していたアレンも、ポカンと口を開いて驚いている。
その一瞬の間に、ハワードが操っていた骸たちが糸が切れた人形のように崩れた。
──グシャッ。
骸が自重で潰れる音を聞いて、ジリアンはハッとした。
(呆けている場合じゃない!)
魔法が消えても、魔法騎士には剣がある。グイッと涙を拭い、立ち上がる。風に乗って消えていったノアを見送りながら、それでも握ったままだった剣の柄を両手で握り直した。
──タッ!
ジリアンが踏み込むのと同時に、ハワードが魔力を練った。だが、その魔力が霧のように消えていく。
魔法が消えた理由は分からない。だが、今が好機だ。
「ちっ」
舌打ちしたハワードが剣を抜く。ジリアンの後ろでは、アレンも駆け出したのが気配で分かった。
──ギンッ!
初手は防がれた。だが、ハワードの身体がグラリと傾く。その隙を、ジリアンは見逃さない。
──ギンッ、ギンッ!
2手、3手と連続して斬り込んだ。
──ギンッ!!
4手目、ハワードの剣が宙を舞う。彼を守るものは、何もなくなった。
「……っ!!!!」
ジリアンは躊躇わなかった。その腹に深々と刃を突き刺す。一瞬遅れて、そこにアレンの剣が追い打ちをかけた。
「ぐぅっ……っ!」
2本の剣に腹を貫かれたハワードの口から血が溢れ出す。とうとう彼の肉を切り裂いた感触に、ジリアンの背がブルリと震えた。
──ズルッ。
二人が剣を引くと、ハワードの身体が砂浜の上に崩れ落ちた。──雪が、降り始めていた。
「……あっけないな」
虚ろな瞳で曇天を仰いでいたハワードが、ポツリとこぼした。ジリアンとアレンがその傍らに座り込むと、今度は震える手で懐に手を入れる。思わず身構えたジリアンだったが、彼が取り出したのは何の変哲もない一枚の紙だった。
「渡しておく」
震える手で差し出された血塗れの紙は、ジリアンではなくアレンがひったくるように受け取った。その様子に、ハワードが苦笑いを浮かべる。
「ただの手紙だ。古い、な」
ハワードがふぅと息を吐いた。
「ジリアン」
名を呼ばれて、ジリアンは彼の榛色の瞳を覗き込んだ。彼の四肢は端の方から少しずつ黒いモヤに包まれていく。
(『黒い魔法石』と『死者の国』の魔力を使った代償ね)
このまま、人の形を保つことも出来ずに彼は消えていくだろう。
「……私は自分の生き方に後悔をしていないし、今でもこんな世界は消えてなくなればいいと思っている。悪いことをしたとも思っていない」
その物言いに、アレンがジロリとハワードを睨みつけた。
「そうね。私も、あなたを許すことなんて出来ないわ」
その望みのために、あまりにも多くのものを奪っていったのだ、彼は。
「……ならば、なぜ泣いている」
問われて、ジリアンははじめて自分が泣いていることに気づいた。藍色の瞳にジワリジワリと涙が滲む。
「そんなの、分からないわ」
「……君は馬鹿だ」
──ポタッ。
ついに我慢できずにこぼれ落ちたジリアンの涙が、ハワードの血に濡れた頬に触れた。
その雫が、キラリと光った。
「え?」
驚くジリアンを尻目に、涙の雫はキラキラと輝きを増していった。そして一粒の宝石に姿を変えた。
「……『クェンティンの寂しさに思いを馳せて、その瞳から一粒の涙が落ちた。そして、その涙は一粒の宝石に姿を変えた』」
アレンが諳んじたのは、あの物語の一節だ。
「『クェンティンの冒険』……?」
かつてジリアンが真似をして旅に出た、あの物語だ。主人公クェンティンの仲間が彼の生い立ちと、それ故の孤独への恐怖を思い、涙した場面。今まさに、それと同じことが起こったのだ。
「忌々しい。あれも王家が残した神話の一つだったのか、……ゴホッ」
ハワードが吐き捨てるように言い、同時に血を吐いた。その四肢はすでに黒いモヤに包まれ、消えかかっている。やがて、真っ青に染まる頬が、榛色の瞳が、淡い金の髪が、闇の向こうに消えた。
「私は、君のそういうところが嫌いだ」
それが、ハワード・キーツの最期の言葉になった。
* * *
共に海を渡ってきた君と離れ離れになって、もう50年になる。
人族に紛れて生きるために、別々に暮らすことを選んだのは正解だっただろう。だが、寂しいよ。こうして君に届くはずもない手紙を書くのも、これで最後にしようと思う。
一つだけ秘密にしていることがある。
君に『仮面』の魔法をかけたときに、君の身体に細工をしたんだ。大したことじゃない。君の特別な瞳に、ほんの小さな仕掛けをした。
君の瞳にだけは『仮面』の魔法が効かないようにしたんだ。私がどんな姿をしていても、君だけには真実の姿が見える。
なぜ、そうしたのかって?
この魔法は、時に自分を見失いそうになる。一つ、また一つと仮面をかぶる度に、自分以外の誰かになりすます度に、私は誰だったのかを忘れそうになるんだ。
だから、だ。君だけは、私の真実の姿を忘れないでいてほしい。
この小さな仕掛けは、君の瞳に宿った『古の魔法』と共に血によって引き継がれていくだろう。いつか私の子孫と君の子孫が出会った時には、驚くだろうな。それを思うと、腹を抱えて笑い出したい気分だよ。
……これで最後にしよう。お別れだ。
ありがとう、友よ。
* * *
血塗れの手紙は、ところどころインクが消えかかっていた。きちんと最後まで読むことができたのは奇跡と呼んでいいだろう。なんといっても、数百年前に書かれたものだ。
「……だから、私にはいつだってハワード・キーツの真実の姿が見えていたのね。私の瞳に、オセの先祖が残した仕掛けが引き継がれていたから」
ジリアンがそっと手紙を撫でるのを、アレンが複雑そうな瞳で見つめていた。
「そんな顔しないで。だからといって、彼を許したりしないわ」
改めて周囲を見回した。そこには、何も残っていない。ジリアンとアレン以外の、何も残っていないのだ。
「だけど、彼をここまで駆り立てたものもまた、憎いと思う」
言いながら、ジリアンはそっと手紙を懐にしまい込んだ。
「私だけは、覚えていてあげようと思うの。それくらいは、許してよね」
寂しそうに微笑んだジリアンを、アレンは思わず抱きしめた。雪の中で冷え切っていた身体に、わずかな温もりが灯る。
「俺は嫉妬深いんだ」
「知ってる」
「だけど、それ以上に」
息を飲み込むようにして言葉を切ったアレン。その金の瞳が、ジリアンを見つめた。
「君のそういうところを愛しいと思ってる」
ポロリと、再びジリアンの瞳から涙がこぼれた。アレンが思わず彼女の身体を掻き抱けば、途端に細い肩が揺れて嗚咽がこぼれる。
様々な感情がジリアンの胸を締め付ける。そうして押し出された涙が、アレンの胸を濡らして溶けていった──。




