第15話 最期の願い
守らなければ、と思った。
誰にも頼らずに一人で旅に出た小さな女の子は、その夜も一人で眠りにつこうとしていて。その姿を見た瞬間、勝手に足が動いていた。自分の仕事は彼女について必要な情報を集めることであり、彼女を助けることではない。それなのに、放っておけなかった。
『私には、生まれてきた意味がわからないの』
彼女の震える声に、思わずその肩を抱き寄せて。
話しながら眠ってしまった彼女を、『守らなければ』と強く思った。
旅をしながら少しずつ表情を変えていく彼女を見て安心した。少しずつ、だが確実に、彼女は自分が愛されていることを、愛される権利があることを知り始めた。彼女自身に価値があるのだということを、理解し始めていた。
次いで感じたのは、怒りだった。
彼女をこんな風にした、彼のことが憎いと思った。
* * *
「どうして、ジリアンを虐待したんだ?」
アレンの問いかけに、オニール氏は表情を変えることはなかった。暗闇の中で、ただアレンの瞳をじっと見つめて、そして深く息を吐く。
「……ジリアンは、決して家の外に出してはならなかったからだ」
オニール氏がグンッと泳ぐ足を蹴った。2人の視界の下で、少女の姿のジリアンがモヤになって消える。そして、今度はもっと小さな少女の姿が現れた。まだ幼児と呼べるほどの小さな少女が、大きなカバンを手に佇んでいる。
「あれの母親は、私の子を身ごもったことを黙って屋敷から姿を消した。その3年後、親族に連れられて、ジリアンがオニール男爵家の屋敷に来た。母親が死んだので男爵家で引き取れないかと言われて、仰天したよ」
オニール氏がぎゅっと眉を寄せた。その日のことを思い出しているのだろう。
「そして、すぐに分かった。あの子が『予言の子』だと」
「予言?」
「オニール男爵家に古くから伝わる予言だ。口伝で当主にだけ受け継がれてきた。『ヒトの歴史が終わりを迎える時、その岐路に立つ子がこの家に生まれるだろう』と」
いつの間にか、オニール氏の手には一通の手紙が握られていた。男爵家の地下で大切に保管されていた、あの手紙だ。『ありがとう、友よ』という一言と、『ヴィネ』の紋章だけが記されていたそれを、アレンも見せてもらった。その静謐さに、思わず息を呑んだことを覚えている。
「『ヴィネ』と『オセ』は、神の予定から解き放たれた唯一の血族だ」
「どういうことだ?」
「かつて、『欲望』と『意思』とを等しく持った者が現れた。それが『ヴィネ』と『オセ』の先祖だ」
オニール氏が視線を向けた先には、2人の男が立っていた。
「ヒトというものは『欲望』も『意思』も持っている。だが、多くはどちらか一方が大きいのが普通だ。だから、それを制御する『理性』が必要になった。そうやって、魂のバランスを保とうとした」
2人の男の胸元にはそれぞれ3つの光が浮かんでいて、それらは全く同じ大きさで輝いている。
「彼らはその2つを等しく持った。そして、『理性』でそれを制御するのではなく、『理性』によってそれらを大きく成長させた。結果、最も完成された魂を得た」
2人の男が剣を手にとって、巨大な黒い陰に立ち向かっていく。
「ヒトの『欲望』が『死者の国』に送り込まれる度に、ヒトの滅びが近づく。だから、彼らは『欲望』の根源となる戦争を止めようとした」
「魔族の皇帝を倒そうとしたのか」
「そうだ。……だが、勝てなかった」
男たちは深い傷を負い、そして海を渡る。
「海を渡った『ヴィネ』と『オセ』は、『オセ』の『仮面』の魔法を使って、王国の人間に紛れた。この手紙は、2人が交わしたものだろう」
2人は固い握手を交わして、そして消えた。
「そして彼らは、子孫に全てを託した」
次に現れたのは少女のジリアンと、金髪に榛色の瞳を持つ少年だった。
「それが、ジリアンとハワード・キーツ」
「そうだ」
オニール氏が、苦痛に耐えるように再び眉を寄せた。
「……私は、あの子を守りたかった」
小さなジリアンの隣に、金髪の少女が現れた。彼女がジリアンの手から玩具を奪い取り、その頬を叩く。
「ジリアンに冷たくあたるモニカを見て、良い考えだと思った。あの子を家に縛り付けてしまえば……。何も知らず、どこにも行かなければ。自分を役立たずだと信じて疑わなければ……。苦しむことはないと思った」
小さなジリアンが背を丸めてうずくまる。
(その考えは、正しかった)
あのままオニール氏がジリアンの虐待を続けていれば。確かに彼女は、こんな目に合わずに済んだかもしれない。
「だがあの日、マクリーン侯爵が来た。……私よりも、あの子を守るのに相応しい人だ」
マクリーン侯爵が手を差し出し、そして少女のジリアンがその手をとった。2人が暗闇の向こうに消えていく。その背を見つめるオニール氏の瞳に何かが光るのを、アレンは確かに見た。
何もかもが消えた。
暗闇の中、アレンとオニール氏の2人だけになる。
「せめて近くで見守ろうと首都に家を買ったが、そこにハワード・キーツが来た」
「……『欲望』に支配されたんだな、その日から」
「そうだ。何かに操られていると分かっているのに、制御できない。自分の『欲望』を満たすことで頭がいっぱいになったんだ」
オニール氏が、アレンの手を離した。
「ジリアンには、黙っていてくれ」
「どうして」
「どんな理由があろうと、私があの子にしたことは許されることではないからだ」
彼は全てを秘密にしたまま、敢えて憎まれ役のままでいようと言うのだ。
「あの子を惑わすな」
それでも、アレンは首を横に振った。
「ジリアンは愛されていたと知る権利がある」
「愛、か……」
オニール氏が深く息を吐いた。
「私はただの卑怯者だ。あの子のためと言いながら、結局、何も教えなかった。……あの子の困難に、共に立ち向かう勇気を持てなかった」
もしもオニール氏がジリアンに虐待などせず、彼女を大切に育てていれば。いずれ来る困難の時のために、彼女にあらゆることを教えていれば。
「……たらればの話は無意味だ。私はジリアンを虐待し、あの子から尊厳を奪った。それが事実だ」
暗闇の向こうに、再び蒼い光が灯る。だが、今度は様子がおかしい。不穏な空気が、蒼い光を飲み込もうとしているのが分かる。
「時間がないな。『欲望』がジリアンの魂を取り込もうとしている。早く、連れて帰れ」
「あなたは?」
「ここで『欲望』を抑える。私も『ヴィネ』の血を継いでいるんだ。2人が帰るまでの時間を稼ぐくらいはできるだろう」
「そんな……!」
オニール氏がアレンの背を押した。アレンの身体が、とうとう蒼い光に触れる。
「秘密は守れよ」
「……」
返事をしないアレンに、オニール氏が苦笑いを浮かべる。そして、軽く手を振った。
「ジリアンを、頼む」
「わかった」
アレンが確かに返事をしたと同時に、今度は蒼い光に全てが包まれた。
* * *
次に目覚めた瞬間、アレンは見慣れた王の執務室にいた。慌てて起き上がれば、同じように起き上がったジリアンと目が合う。だが、その視線は大きな背によって遮られてしまった。
「ジリアン!」
マクリーン侯爵がジリアンの肩を抱き、その顔を覗き込む。
「身体は?」
「大丈夫です」
「……やはり、行かせるんじゃなかった」
「馬鹿なこと言わないでください。おかげで、私は真実を知りました」
力強い言葉に、侯爵が頷く。
その頃になって、アレンは一つの違和感に気づいた。
「……あ」
アレンの隣には、穏やかな表情でオニール氏が横たわっていた。だが。
「息を、してない」
アレンの小さな声に、真っ先に反応したのはジリアンだった。
「そんな!」
ジリアンが転がるようにしてオニール氏に駆け寄り、その胸に耳を寄せた。心臓が動いていないのは一目瞭然だ。
「……何があった?」
「彼が、『欲望』を抑えて俺たちが帰る時間を稼ぐと……」
マントイフェル教授の問いにアレンが答えると、ジリアンが目を見開いた。オニール氏が自分のためにそんなことをするとは思わなかったのだろう。
「『死者の国』に、魂を囚われてしまったのだな。……彼は、もう帰ってこない」
マントイフェル教授の言葉に、ジリアンの表情が歪む。
「どうして……」
アレンは口を噤んだ。それが、彼の最期の願いだから。




