第5話 今日から私の娘だ
フットマンが紅茶を淹れてくれた。目の前のテーブルに香り高い紅茶と、たくさんのお菓子が並べられていく。
──ぐぅ。
ジリアンの、お腹が鳴った。
その場にいた全員に聞こえたはずだが、誰も笑ったりはしなかった。ただ、微笑むだけで。
「食べろ」
「はい。でも……」
「君のために準備させた。君が食べなければ捨てることになる」
「……はい」
それは困る。
ジリアンは紅茶を一口飲んで喉を湿らせてから、ビスケットを一口かじった。
「……おいしい」
その一言に、フットマンたちの顔が綻ぶ。
「たくさん召し上がってくださいね」
「スコーンはいかがですか?」
「はちみつをたっぷりかけましょう」
「ジャムもありますよ」
「レモンタルトはお好きですか?」
一気に話しかけられて、ジリアンは目を白黒させた。
「……レモンタルト、食べてみたいです」
なんとか絞り出した言葉が、妙に子供っぽくて。ジリアンは恥ずかしくなって顔を赤くした。
「はい。レモンタルトでございますね」
フットマンがレモンタルトを切り分けてくれる。その様子が嬉しそうに見えるのは、気のせいだろうか。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
一口食べると止まらなくなった。優しいレモンの香りが、甘味と一緒に口いっぱいに広がって。
「おいしいです」
ジリアンは、こんなにおいしいものを食べたのは初めてだった。
自分のために用意してもらったお菓子も、人に切り分けてもらったのも、たくさん食べてもいいと言われたのも……すべてが初めてだったのだ。
「……食べながらでいい。聞け」
「あ、はい」
侯爵に言われて、ジリアンは居住まいを正した。
この人は暇ではないと言っていた。話をするためにこの場を設けたのだ。
(それなのに、お菓子に夢中になるだなんて!)
「君は、今日から私の娘だ」
一瞬、意味がわからなかった。
「え?」
ジリアンは驚いてフォークを取り落としてしまったが、侯爵は気にした様子もなく淡々と続けた。
「今週中には首都で手続きを済ませる。魔法使用者登記もだ」
魔法を使う者は帳簿に登記して管理する。そういえば自分は登記されていないのだった、ということをジリアンは思い出した。
「それは、遅れて届け出ても大丈夫なんですか?」
罰せられることはないのだろうか。
「今日になって魔法が使えるようになったことにすれば良い。問題ない」
「……他にもそういう人がいるんですか?」
「そうだ。魔法の発現は3歳から14歳頃に起こると言われている」
個人差が大きいということだ。
「それから、オニール男爵家のことだが」
「はい」
「忘れろ」
「え?」
「あれは貴族としても親としても最悪だ」
侯爵が吐き捨てた。
「親として?」
貴族として最悪、はわかる。けれど、親は親だ。
「普通の親は、8歳の子供を働かせたりしない」
「でも、私は妾の子だから……」
「だとしても。だいたい、親は子に手を上げたりしない」
ジリアンは、自分の腕を見た。
半袖のワンピースから覗く腕には、青黒い痣。それも一つや二つではない。
「これは、転んでしまって……」
昨日と同じ言い訳を繰り返せば、侯爵の眉間に皺が寄った。
「ノアが、君が叩かれるところを見ている。男爵が君の頬を叩くところを」
そろりと視線を巡らせると、部屋の隅にロイド氏の姿があった。心配そうに、こちらを見ている。
「自らの血を分けた子に手を上げるような人間に、君を預けておくことはできない」
「……だから、私を買ったんですか?」
その言葉に、周囲の大人たちの顔色が変わるのがわかった。言ってはいけないことだったのかもしれない。
けれど、ジリアンにはそれしか思い当たることがなかったのだ。
こんな風に優しくしてもらえる理由に。
「私が、かわいそうだったから?」
侯爵は、無表情でジリアンを見つめるだけだった。
「……そうだ」
ややあって、それだけ言って立ち上がった。
「明日には首都に向かう。しばらく戻れないから、そのつもりで。人選はトレヴァーに任せるが、ここに充分な人手を残すように」
「はい」
トレヴァーと呼ばれたのは、口髭をたくわえた一際立派な男性だ。この家の執事頭なのだろうとジリアンは思った。
「明日から、この屋敷の主人はジリアンだ。いいな」
「はい」
使用人たちの返事を聞いて、侯爵は温室を出て行こうとする。
「あの!」
ジリアンは、慌ててそれに追い縋った。
「私は、何をすればいいですか?」
問われた侯爵が、小さく首を傾げた。
「私の、仕事は……?」
働かなければ、生きている価値がない。それが、ジリアンにとってのルール。
「働かせてください」
ジリアンは、必死だった。運良く侯爵の同情を得てここに置いてもらえるようだが、いつ追い出されるかわからないのだ。
侯爵の眉間に再び深い皺が刻まれる。
「働く必要はない」
「私が役立たずだからですか?」
「違う」
「じゃあ、どうしてですか」
「君が、まだ子供だからだ」
納得できずにジリアンは黙り込んだ。子供でも、ジリアンは働くことができるのに。
「……ジリアンに仕事を手伝わせるな。絶対にだ。いいな」
「はい」
トレヴァーの返事を聞いて、今度こそ侯爵は温室を出て行った。
取り残されたジリアンは、涙を堪えることしかできない。
(怒らせてしまった)
ジリアンが、子供だから。
役立たずだから。
「お嬢様」
うつむくジリアンに声をかけたのはロイド氏だ。
ジリアンの前に跪いて、顔を覗き込む。
「申し訳ありません」
ジリアンが謝ると、その顔が悲しそうに歪んだ。
「どうして謝るんですか?」
「旦那様を、怒らせてしまいました」
「旦那様ではありません、お父様ですよ」
「でも……」
「それに、怒ってなどいませんよ」
そんなはずはない。侯爵は怒ったのだ。だからあんなに険しい顔をしていた。
「ここでは、お嬢様が何をしても、何を言っても、怒る人などいませんよ」
(そんなはずない)
ジリアンは、スカートをぎゅっと握りしめた。
(しわがよっちゃう)
また、叱られてしまう。
「大丈夫。大丈夫ですよ」
そんなジリアンを、ロイド氏が抱き上げる。
ジリアンは、今度こそ涙を堪えることができなかった。
「申し訳ありませんん」
優しい腕に抱かれて、ジリアンは目を閉じた。あふれる涙がロイド氏の肩を濡らしていく。
そのまま部屋に運ばれて、あれよあれよと言う間に着替えさせられて。ベッドに押し込められた。
「お疲れなんです。とにかく眠りましょう」
と。
泣きすぎて頭が痛いほどだったが、眠気はすぐに訪れた。
ふわふわですべすべのベッドで、ジリアンは眠った。
これまでの分を取り戻すように、ひたすら眠ったのだった──。