第31話 黒い儀式
あれは、私がまだ8歳の頃。
領地での暮らしは穏やかで楽しくて、何一つ不自由はなかった。だけど、どうしても足りない何かがあって……。
『少しだけ、寂しいです』
思わず綴ってしまった本音。
風に乗って飛んでいく手紙を見て、ようやく『しまった』と思ったけれど、もう手遅れで。やっぱり、返事は返ってこなかった。
その晩は、『怒らせたんだわ』そう思って、泣きながらベッドで丸くなった。
そんな私に、優しく声をかけてくれたお父様。
手紙を見て、飛んできてくれたのだ。
『ごめんなさい』と謝る私を、優しく抱きしめてくれた。
けれど翌朝、お父様は寝込んでしまった。
首都から領地までを一日もかけずに帰って来たんだもの。相当無茶な魔法を使ったんだわ。
嬉しかったけど、同時に悲しかった。
私のためなら、お父様はどんな無茶だってしてしまう。
そう、思ったの。
* * *
「起きなさいよ、グズ」
ジリアンを起こしたのは、刺々しい少女の声だった。
「……モニカ嬢?」
重たいまぶたを持ち上げると、そこにはかつて見慣れた青い瞳。
「もう昼よ。魔力も回復したでしょ?」
起き上がろうとしたが、それは叶わなかった。両手と両足が、縛られている。
「どういうことですか?」
「何よ。私があんたを拾って、ここで介抱してやったっていうのに」
「介抱?」
(縛っておいてよく言うわ)
急いで状況を把握するために視線を巡らせた。今いるのは古びた小屋だ。目を閉じて『千里眼』で辺りを探る。街のほぼ中心、労働者階級が多く住む住宅街の真ん中だと分かった。
(どうして、わざわざ見つかりやすい場所に……?)
「あんたのそういうところ、嫌いなのよ」
──パチンッ!
モニカ嬢がジリアンの頬を打った。
「なんでもお見通しですよって顔。気色悪い」
──パチンッ! パチンッ!
何度も打たれるが、ジリアンは黙って耐えた。
(今が翌日の昼なら、黒い『魔法石』は王宮に届いている。オニール男爵もモニカ嬢も手配されていて、所有している不動産だって特定されてる)
だから、待てばいいのだ。
待っていれば、すぐに誰かが助けに来てくれる。詰んでいるのは、モニカ嬢の方なのだから。
「……あんた、助けが来ると思ってるでしょ?」
この問いには、無言を返した。教えてやる謂れはない。
「そろそろここも見つかるわ。そうよね?」
モニカ嬢が、ニタリと笑った。
「大好きなお父様とお友達のアレン様に助けてもらうのよね、今度も」
チクリと、ジリアンの胸がいたんだ。
「あんたは助けられてばっかり。お荷物なのよ。出来損ないのジリアン・オニール!」
そう。ジリアンは、いつも助けられてばかりだ。
あの夏の日。ノアを客人として迎え入れたあの日から、ずっとずっと。
「あんたのせいだからね? あんたのせいで、これからみんな死ぬんだからね?」
そう言って、モニカ嬢が脇に置いてあった麻袋を広げた。中には、あの黒い『魔法石』。
「それは……」
「お父様が取り引きをしている間にね、あいつらの船からとってきたの」
魔大陸から来た商人の船。そこにはオニール男爵と取引した量の10倍近くの黒い『魔法石』があったということだ。
(オニール男爵の他にも、取り引き相手がいたんだわ……!)
「この石ね、魔大陸でなんて呼ばれてるか知ってる?」
「知らない」
「『儀式』よ」
「え?」
「さあ、儀式を始めましょう?」
モニカ嬢がジリアンの周囲に石をまいた。そのうちの一つを手にとって、そのまま口に含む。昨夜見た、霜の巨人族の男の姿と重なった。
「何してるの!?」
──ボリっ、ボリッ……ゴクンッ。
咀嚼音に続いて、彼女の喉が鳴った。
飲み込んだのだ。霜の巨人族の男と同じように、黒い『魔法石』を。
──ズズズズズズ。
モニカ嬢の青い瞳が、凶悪な気配が膨張するとともに真っ黒に染まっていく。
「私の勝ちよ、ジリアン。いちばんは私! あんたなんかじゃない!!!」
彼女の叫びは、最後まで聞き取ることが出来なかった。なぜなら、その喉から不穏な音が漏れ出したからだ。
「ボギチ ホズバネ=ケ ヨゲベ エラ ジケシネソド ルレツ アオシィマゴ ォソ」
全く意味のわからない言葉の羅列。
(呪文!?)
魔大陸では、複雑な魔法や儀式のために呪文を使うと聞いたことがある。彼女がその呪文を知っているはずなどない。
(黒い『魔法石』の中に、儀式のための呪文が組み込まれていたの!?)
モニカ嬢が──正確には、彼女の中に取り込まれた黒い魔法石が──唱える呪文に応えて、周囲にばらまかれた黒い魔法石が輝きを増していく。
──ブワッ!
真っ黒なモヤが、溢れ出した。昨夜、霜の巨人族の男から溢れ出したものとは比較にならないほどの量。そして、身体を押さえつける凶悪な気配。
その黒いモヤは小屋いっぱいに広がって、すぐに収束した。拳ほどの大きさに凝縮された塊が、ジリアンの胸に飛び込んだ。
避けることは、できなかった。
「ぐぅっ!」
黒い塊は、すぐに暴れだした。ジリアンの胸の中で、右へ左へ暴れまわる。こみ上げる痛みに、ジリアンは呻いた。
「ほら、行って?」
モニカ嬢が、ジリアンを縛っていた縄を切った。
黒い瞳が、勝ち誇ったようにジリアンを見下している。
「時間いっぱい、もがき苦しめばいいわ」
彼女の言葉を聞き終わる前に、ジリアンは小屋を飛び出していた。
(止まらない!)
暴れまわっていた黒い塊は、やがてジリアンの魔力と溶け合って一緒になった。そして、身体の中を渦を巻きながら膨張していく。
(身体が熱い……!)
本能的にわかる。
このままでは、この黒い魔力は弾けて暴走する。爆発に近い何かが起こるだろう。ただし、炎魔法とは比較にならないほどの威力を生み出すはずだ。
(首都から、離れなきゃ)
このままでは、首都を巻き込む。離れなければ。
(魔法はだめ。少しでも魔力を外に出せば、そこからあふれてしまう!)
魔法は使えない。暴走しそうになる魔力を抑えつけながら、自分の足で走るしかない。
(だから、こんな真ん中に……!)
郊外にいたジリアンを、わざわざ首都の中心まで運んで拘束していたのは、こういう理由だったのだ。
(走れ! 足を止めるな!)
「お姉ちゃん!」
「どうしたの?」
尋常ではない様子で走るジリアンに、子どもたちが声をかける。少し前に知り合った子供たちだ。しかし、それに答える余裕は、今の彼女にはない。
「お嬢ちゃん!」
「どうしたんだい!」
商店の店主たちが、口々にジリアンに声をかける。
(はやく! 離れなきゃ!!)
足が痛い。靴などとうに脱げている。
息が上がる。呼吸ができない。
(苦しい!)
それでも、ジリアンは足を止めるわけにはいかないのだ。
「ジリアン!!」
商店街を抜けて、噴水広場に差し掛かった時だ。
大好きな人の声。けれど、今だけは。
今だけは、聞きたくなかった声。
(だめ……!)
足を止めないジリアンの前に、上空から舞い降りる人影。
「止まれ!」
マクリーン侯爵だ。その手がジリアンの腕を捉えた。
「だめ!」
その腕を振り払う。
「ジリアン! 落ち着け!」
侯爵の表情が歪んでいる。何が起こっているのか、分かっているのだ。
(だめ、止まらない……!)
黒い魔力が、今にもジリアンの身体を突き破ろとしている。
「どいてください」
「できない」
「お父様!」
問答している間にも、ジリアンの中の黒い渦が大きくなっていく。
(抑えられない……!)
こうなってしまっては仕方がない。自分の足で行くべきだが、それもできそうにない。
「私を、遠くへ飛ばしてください。うんと遠くへ」
「ジリアン……」
ジリアンの懇願に、侯爵の表情がさらに歪んだ。
「誰も、死なせたくないんです」
痛みが増して、ジリアンはその場にうずくまった。駆け寄った侯爵がその肩に触れようとしたが、黒いモヤに弾かれる。
「お願いします」
涙と黒いモヤで視界がにじむ。
(ああ、これで最期なら。ちゃんと顔を見たいのに……)
「……わかった」
「ありがとうございます」
ふわりとジリアンの身体が浮き上がった。侯爵の風魔法の気配に包まれる。
(あたたかい)
あの日と同じだ。
寂しいと訴えたジリアンのために、無理を押して帰ってきてくれた日の夜。ジリアンを抱きしめてくれた、あの腕の温かさと同じ。
本当は、ずっとずっとその温かさに抱かれていたい。けれど、それは叶わぬ願いになってしまった。
「さようなら」
最後の言葉は、届いただろうか。そんなことを思いながら、ジリアンは目を閉じた。次に目を開ける時には、ジリアンは一人だ。
一人きりで、死んでいくのだ──。




