表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/102

第2話 旦那さまよりも偉い人


 マクリーン侯爵本人が訪ねてきたのは、その翌日のことだった。


 いつも通りに庭の手入れに精を出していたジリアンの耳に、馬蹄(ばてい)の音が聞こえてきた。立派な馬車が、道の向こうからやってくるのが見える。

 門のすぐ外に停まった馬車から降りてきたのはロイド氏で。


 その隣には、もう一人の紳士が立っていた。


 黒々とした瞳が印象的で力強い顔立ちの人だ。(はがね)色の髪は後ろに流して、きっちりと整えられている。歳の頃は、ロイド氏よりもいくつか上だろうか。

 ロイド氏のそれよりも立派な仕立てのフロックコート、手には洒落(しゃれ)たステッキと艶々(つやつや)のトップハット。

 どこからどう見ても、壮年の立派な紳士だ。


「ようこそいらっしゃいました」


 慌てて駆け寄ると、その紳士がジロリとジリアンの顔を見た。

 その様子に、ジリアンは慌てて顔を伏せる。


「申し訳ありません」


 思わず謝罪するジリアン。頬が紫色に変色しているし、唇が切れて血まめができている。今の自分が(みにく)い顔をしていることを思い出したのだ。


「……あの後、また叩かれたのですか?」


 尋ねたのはロイド氏だ。


「……転んだだけです」


 ジリアンが答えると、二人は押し黙ってしまった。


「旦那様をお呼びします。応接間へどうぞ」


 沈黙に耐え切れずにジリアンが言うと、二人の表情はさらに険しくなった。


「君は、自分の父親を旦那様と呼ぶのか?」


 紳士が口を開く。

 この二人は、ジリアンが男爵の娘であることを知っているのだ。


「……」


 ジリアンは何も言えずに黙るしかない。なんと答えればよいのか、わからないのだ。

 誰に命じられたわけでもなく、いつの間にかジリアンは男爵のことを『旦那様』と呼ぶようになっていた。そうすれば、男爵が機嫌を(そこ)ねる回数が減ったから。


「そうか」


 紳士は一言だけ言って、ズカズカと庭へ入ってきた。


「あの!」


 ジリアンも慌てて後を追うが、足が長さが違うので追いつくだけで息が上がった。

 その様子を見た紳士が立ち止まって、険しい表情のまま一つ息を吐いた。


(しかられる!)


 そう思ったジリアンだったが、(しか)られることはなかった。その代わりに。

 

「ノア」

「はっ」


 短く返事をしたロイド氏が、ひょいとジリアンを抱き上げた。


「あ、あの!」


 突然のことに慌てるジリアンの背を、ロイド氏が優しく撫でる。ポンポンと、まるで子供をあやすように。


「大丈夫ですよ」


 そして安心させるように笑顔を向けてくれるロイド氏に、ジリアンは顔を赤くしたのだった。


「行くぞ」


 紳士はどんどん奥へ進んで、あっという間に玄関に着いてしまった。


「あの、私が……」


 ──カンカン!


 案内しますと続くはずだった言葉は、紳士がドアノッカーを叩く音に(さえぎ)られてしまった。


「……」


 一度目は誰も応えなかった。

 当たり前だ。いつもはジリアンが真っ先に応対するのだから。


 ──カンカン!


 二度目は、一度目よりも大きな音が鳴った。


「ジリアン! いないのか、ジリアン!」


 屋敷の中で男爵が呼んでいる。


(行かなきゃ)


 ジリアンはロイド氏の腕から下りようと身じろぎしたが、ぎゅっと抱く力を強くされてしまった。下ろして欲しいとロイド氏の顔を見上げるが、ニコリと笑顔が返ってきただけ。


(このままじゃ、男爵にしかられちゃう)


「大丈夫ですよ」


 ロイド氏が再びポンポンとジリアンの背を撫でる。

 そうこうしているうちに、玄関の向こうからドタドタという足音が聞こえてきた。次いで、ドアが開かれる。開いたのは、もちろん男爵で。


「……」


 男爵が、紳士を()め付ける。頭から足先まで、値踏みするように。しかし、すぐ隣のロイド氏に気づいて男爵は腰を折った。


「これはこれは、ロイド様!」


 今度はロイド氏に抱かれているジリアンを見て、顔を(しか)める。


「当家の使用人が、何か失礼を?」


 ──バキッ!


 男爵が言うや否や、何かが折れる音が鳴り響いた。

 ジリアンと男爵の肩がびくりと揺れるが、ロイド氏は涼しい顔でジリアンの背を撫でている。


「使用人だと?」


 怒っている。この紳士は、とてつもなく怒っている。


 それだけは、ジリアンにもわかった。

 折れたのは紳士が持っていたステッキで、折ったのはその紳士だったから。


「貴様の娘ではないのか?」


 紳士がジロリと男爵を(にら)みつけた。


「……失礼ですが、どちら様ですかな?」


 男爵も負けじと紳士を睨みつける。


「ゴホン」


 咳払いをしたのはロイド氏。


「こちらは、クリフォード・マクリーン侯爵閣下です」


 ロイド氏が告げる。

 すると、男爵は口と目をポカンと開いて何も言えなくなった。次いで、顔色が赤から白、そして青へと変わる。


「ここここ、これは、たいへんな失礼を……」


 男爵が床につきそうなほど頭を下げるのを見て、ジリアンも驚いた。


(旦那様よりも、偉い人なんだ)


 ジリアンにとって、この世で最も偉い人は男爵だった。その男爵が、顔を青くして体を震わせて頭を下げている。その態度からは、恐怖すら感じられる。


 ジリアンは『男爵よりも偉い人がこの世には存在する』ということを、このとき初めて知ったのだ。


「どうぞ、こちらへ……」


 男爵がへこへことマクリーン侯爵とロイド氏を案内する。

 応接間に案内されてソファに座ると、侯爵はロイド氏に両手を差し出した。首を傾げるジリアン。すると。

 

 ──ひょい。


 なんと、ロイド氏はジリアンを侯爵の膝の上に下ろしてしまった。


「え!」


 驚くジリアンと男爵。そんな様子など気にも留めずに、侯爵はジリアンの腰に両手を回した。


「じっとしていろ」

「は、はい」


 ジリアンには、言われた通りにする以外の選択肢はなかった。


(この人は、旦那様よりも偉い人)


 そのように()り込まれてしまったのだから。












評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] その刷り込みはご尤も!(笑)
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ