THE TUBE・停止現示ヲ求ム
都心の大きな駅とはいえ、早朝の始発電車でやって来たとあれば、人の姿がまばらなのは当然のことでもあった。
「ありゃ……」
その若い男は思わず口に出した。
ここは駅の中でも地下鉄から一つ階を昇った構内。駅は地上も地下も複数の鉄道会社が乗り入れるターミナルで、雑多な地下街や商業ビルとも接続していた。入り組んだ階段や通路、箇所によってはさながら迷宮のようであった。
そのような中でも、彼は乗り換えのために歩き慣れた道順を進んでいた。だが唐突に、改修工事に出くわしたのだ。いつも通り慣れているはずの箇所が通行止めになっていた。
「なんだぁ、通れないのか……」
警備員の姿はなく、通れないよう空間一杯に灰色の防音シートが張られていた。立て看板にはでかでかと赤い文字で
〈改修工事中につき、全面通行止め〉
と書かれていた。それに迂回路の案内などは何も書かれていなかった。
二十四時間体制の作業なのかどうか分からないが、早朝にも関わらず防音シートの向こう側からは物音や人の声がわずかに聞こえていた。
「しょうがないなぁ。他の道は、あまり知らないんだよなぁ」
男はまるで泣き言のようにぶつぶつと独り言を言いながら、とりあえず来た道を戻ることにした。
「こういう日に限って、もう……」
そうはいっても余裕を持って行動するたちであったので、時間にはまだ少しの余裕があった。彼はしがない技術者で、設備メンテナンスの職に就いていた。今日も早朝出勤の予定だった。彼は近いところに回り道になるところがないものかと、まだシャッターの降りている地下街や通路をなんとなく、直感に頼りつつ進んだ。
しかし、どんどん遠回りになるばかりで、しまいにはどこか路地の通りのような、まったく知らない場所に出てしまった。
「ああ……どこだよ、まったく」
男は軽く頭をかいた。どうせならこのまま、外の地上を歩いて乗り換えに向かおうかとも思った。が、道に迷いそうだという考えがよぎった。そして回れ右をすると、もと来た階段を下った。少なくとも、よく知らない街中を通るよりは、駅構内を歩く方がマシだろうと、そのように考えたのだった。
彼は時折、案内表示を確かめながら歩いていたが、気が付くと全く見覚えのない通路を進んでいた。しかも出くわす階段は、どれも降りの方向ばかりだった。進みつつも、さすがの彼も不審に思い始めた。しかし彼自身、どこに向かって歩けばいいのか見当もつかなくなっていた。
そして、地下鉄の改札を出てから戻っていないにもかかわらず、再び地下鉄のホームに出ていた。
「おかしいなぁ」
呟いて腕時計をみると、もうじき朝のラッシュ時間帯になるころだった。にも関わらず他に人の姿はなく、まったくもってホームは静まり返っていた。
それによく見ると、まっすぐなホームはどこまでも……そう、どこまでもどこまでも、まっすぐに続いているように見えた。ずっと先の、点となって消失して見えなくなるまでどこまでも続いていた。
「なんだ……どうなってんだ、これ?」
ホームの両サイド、おそらくは下りと上りのそれぞれの線路、どっちの方向をみても同じだった。それから彼はハッとした。通ってきたはずの階段が見あたらなくなっていた。
「えぇ……、なんで?」
それでもホームのデザイン自体は、見慣れた地下鉄駅とほとんど同じ様子だった。ただ、ホームドアが無かった。柱はは等間隔に並び、ベンチがところどころに置かれていた。彼は近寄って観察したが、広告のポスターや駅名部分はまるで滲んだようになっていて読めず、時刻表は全てが空欄になっていた。自動販売機もあったが、商品は何も並んでいなかった。
天井にぶら下がっている電光掲示板には赤い文字で、
[そのうち来ます。貴方が思ったときに!!]
という謎の表示が出ているだけだった。
「どうなってるんだ……」
すると何やらアナウンスが流れた。ごく普通の、よく聞くような電車接近を知らせるアナウンスだった。が、何か違和感があり、ところどころがぐぐもったような感じで、正確には聞き取れなかった。
「ご注意でください。上りnnnnnn、まもなくnnnnnnが参ります。nnnnnn行きです。黄色い線の外側にお待ちください。」
それから上り線を、バシャバシャと水の上をはねるような音とともに何かがやって来た。だが、ホームの下に水が流れている様子は全くなかった。そして、次第にやってくるモノの姿がはっきりと見えると、男は目を見開いた。電車ほどのサイズの魚がわずかに宙に浮かんだ状態で、一列に連なってやって来たのだ。その魚はおそらく、鮪と思われるような見た目であった。しかし、明らかに大きすぎだった。さらには線路上に、ゼラチンのような感じの半透明で黒っぽい色の人のような何かが何体も、いつのまにか線路に沿って列になって並んでいた。
鮪たちが一旦停止すると、
「nnnnnn到着出発です。nnnnnnはお乗せられください。間もなくは出発です。」
という、なんだか意味不明なアナウンスが流れた。
すると鮪はいっせいに口をパクパクさせながらゆっくりと進みはじめた。線路上に並んでいる人型の物体は次々とその口に吸い込まれていった。鮪は十一両編成のようだった。
そして、まるで電車の急ブレーキのような不快な金属音をたてると鮪たちは急加速して、視界から見えなくなるまで遠ざかっていった。
彼は職場でも下っ端の人間とはいえ、目の前で起きていることがどう考えても普通でない、控えめに言っても異常であることは認識していた。だが、あまりにも不可解、怪奇であるため、状況の理解ということを脳が本能的に拒絶しているかのようだった。とにかく早くこの場から去ろうと、彼は出口を探して歩きだした。
彼が歩いている間にも、ホームにアナウンスは流れた。
「ご注意でください。aaaaaa、下りaaaaaaが通過のはずです。黄色い線よりが摩耗しないでください。」
すると今度は、ゴッーという音が響いてきた。天井ほどまでの高さのある、鈍い輝きをはなつ鉛色の巨大な球体が下り側の線路の上を転がっていった。その巨大な鉛球は十両編成だった。
彼は周囲のことに呆然としていて、服のポケットに入れていたスマホが鳴っていることにしばらく気がつかなった。
気づいた彼は立ち止まると、急いで取り出して画面を確認した。それは今日の作業班の班長からの着信だった。
「もしもし?」
「遅刻だぞ!」明らかに怒っている声だった。「連絡もなしで、お前、何時だと思ってんだよ」
「ああ、すいません」
彼はそれから何と答えたらよいのか、戸惑った。
「どうしたんだ?」
「それが駅で、乗り換えで道に迷ってしまって、」
「なあ? そ……と、……か? お前……て……」
「はい? もしもし?」
「そ……、……い! 大丈夫か? な……す……」
通話はまったくの途切れ途切れで、なんと言ってるのか分からないほどだった。男は思わず懇願するかのように声を上げた。
「大変なんです! 今、訳の分からない場所にいるんですよ! どうにもならなくて」
「……か!? ど……、で……」
しかし、会話が成り立っているのかどうかも分からないまま、そこで通話が切れてしまった。
「もう、まったく」
彼はスマホの画面を確かめたが、圏内で電波は届いていた。なんならWi-Fiも利用できる様子だった。それなのに、何度かけ直しても繋がらなった。試しに地図アプリを開いたが、“現在地を取得できません” というエラー表示が出るばかりだった。
「まったく。まあ、とにかく出口を探そう……」
そうして彼は、また歩き出した。
ときどき、床が小刻みに揺れたような気がして、彼は地震かと思った。だが、どうにも違うようにも感じられた。どのみち、こんな状況では何が起きても不思議ではないと、彼は気にするのをやめた。進んでいると、なんとなくホームの幅が狭くなっているように思われた。
視線を線路の方に向けると、上りの線路には半透明の人型の物体が並び、巨大な鮪がそれを食べる。しばらくすると再び人型が現れ、鮪がやってきてはそれを食べるということの繰り返しだった。もう一方の下り線は、もはや途切れることなくゴーっと音を立て、デカい球体が延々と連なって転がっていた。
いつしかアナウンスも、意味不明な言葉をずっと連呼していた。
「次に参りますaaaaaa、発車を続けてます!」
「ご注意下さい! ssssssご注意ご注意ご注意!! mmmmmmの死角です」
「間もなくでしょう。nnnnnn行き永遠です。nnnnnn来てます行きます走ってます!!」
「aaaaaa方面、気まぐれです。oooooo遅延していません!」
「aaaaaaaaaaaa電車が来ません。nnnnnnnnnnnn来ているかもしれません」
「お客様mmmmmmのoooooooooooo? ほとんど137番です」
「llllll、お祈りください!! yyyyyyとaaaaaaです」
「黄色い線の上で踊ってください! 円周率とmmmmmmの危険です!」
「停車中でbbbbbb、車両ドアの原子へ縮小します」
「llllllは42番線、kkkkkkと廃止されました」
「ホームドアに開いています!! aaaaaa先に血が流れます」
「yyyyyy通過します。bbbbbbはaaaaaa、次にマイナス1番線!」
「無理数とmmmmmm、aaaaaa切り捨てください」
「ご案内、qqqqqqを終了です」
「mmmmmmllllllaaaaaannnnnnyyyyyyoooooo……」
男は両手で耳を塞いだ。あきらかにホームの幅がどんどんと狭くなっていた。が、進む方向に先細りになっているのではなかった。彼は一度、立ち止まって観察した。すると、ホームの幅そのものがゆっくりと、縮小しているのだった。
このままではデカい鮪に食われるか、鉛か鉄か分からないが巨大な球体に潰されてしまう。彼はそう思いながら、ホーム上を進む歩調を早めた。いや、正確にはホームの下にはわずかなスペースがあるはずだし、球体でも鮪でも轢かれずにすむ隙間が線路上にはあるはずだ。彼はなるべく冷静を保とうと、そんな風に考えた。だが、どうにも逃げられないような気もしていた。ホームには等間隔に柱とベンチは並んでいるが、昇りでも降りでも階段は見つからなかった。そのあいだにもホームの幅は縮小を続けていた。
彼は必死になって進んだ。だが、いつしかホームの幅はもはや人一人分程度の幅しか残っていなかった。しかも柱の幅が変わらないせいで、ついには前後のどちらにも進めなくな状況となった。いよいよ死ぬのではないかという考えが彼の頭をよぎった。
耳をふさいでいても、鮪の泳ぐ音、巨大球体の転がる音、もはやアナウンスと呼べななくなった放送が混ざって、ぐわーんぐわーんと全体で鳴っていた。
しかし、そんな中でも彼は唐突に閃いた。
「そうだ!」
そして歯を食いしばり、連なって進んでいる鮪の、最後尾にいるやつの尻尾めがけてジャンプした。
「どうだ! これならどうだ! 僕を外まで連れて行け、この!」
彼はその尻尾にしっかりと掴まると大声を出した。鮪は身体をくねらせて尻尾を振った。だが、しっかりとしがみついていた。彼は落ちないよう必死にくらいついた。
そしてついに、ホームは柱もベンチももろとも幅が紙の厚さほどになって、消えた。すると明かりもアナウンスも消えた。あたりは静寂と闇に包まれた。男のしがみついている鮪はさらに激しく、のたうち回るように動いた。男はしばらくは、必死にしがみついていた。が、とうとうついに振り落とされてしまった。
ドサッと音がした。
男は衝撃を感じて、それから頭や身体に痛みが現れて唸った。周囲はまるで、屋外のように明るかった。
それから多くの人の気配を感じたと思うと、何人かの大声が響いた。
「ホームから人が落ちた!」「危ない!!」「誰か駅員を呼べ!」「電車が来てる!!」
ざわざわと人の声が聞こえた。
やっと彼は、自分が二本のレールが並んでいる薄汚れたコンクリートの上に寝転がっていることに気づいた。さらにレールがキーンと音を鳴らした。近くまで電車が迫っていた。ホームの上では怒号が飛び、女性らしき人の叫び声が響いた。
男は咄嗟にレールの上から飛び退いた。ホーム下にあるわずかな隙間に身を寄せた直後、甲高いブレーキ音とともに彼の鼻先を電車の台車が通過した。グリースや焼けた鉄のような臭いが漂った。彼は全身汗びっしょりで、心臓がバクバクとしているのを感じた。
電車が完全に停止すると、彼の頭上で声がした。
「おいっ! 大丈夫か? 返事しろ!」
「ここです。ここにいます!」
それから男は這うようにして少し進み、車両と車両の間から手を出して振った。
「大丈夫か、あんちゃん! 今引き上げるからな」
それから、やって来た駅員や近くにいた乗客たちが手伝い、彼をホームの上に引き上げた。顔にできた傷から少し血が出ていたが、幸いにも打撲以外に大きな怪我はないようすだった。
救急隊が来るまでの間、ホームの上に引き上げるのを手伝った強面の中年男性が彼に小声で尋ねた。
「変なこと、聞くけどよ……いいか?」
「はい、何です?」
「あんちゃん、どっから来たんだ?」
「え?」
「いや、見間違いかもしれねぇけどよ。オレさぁ、あんたがホームから落ちたんじゃなくて、いきなり線路の上の、その空中に現れたかのように見えてよ。そんで、そのまま線路に落ちちまって」
「さ、さあ、なにかの、見間違いでは?」
彼は濁したように答えた。中年男性はまだ不思議そうな表情をしていたが、それ以上聞いてくるようなことはなかった。
もしかすると、実際そうだったのかもしれない。彼はそう思った。ただ、直前まで地下鉄のホームに似た怪奇な場所にいて、謎の巨大な鮪の尻尾にしがみついてました。と言うわけにもいかなかった。しかもこの場所は地下ではなく、本来彼が乗り換え先としている駅の高架線のホームだったのだ。
男は病院に搬送されて検査を受けたが、打撲傷と軽い脳震盪以外には骨折といった怪我やその他の異常は見られなかった。その日のうちには、自宅アパートに戻ることができたのだった。
数日後には職場にも復帰した。彼は当日のことは何も覚えていないということにしようと考え、聴取に来た警察にも勤める会社にも、そのように説明した。どのみち自分が見たことを話したとしても、信じてもらえないのは明らかだった。それに、身体じゃなくて頭が変になったと思われたくないと考えたのだった。
同僚の何人は当てこすりを言ってきたが、彼は軽く受け流した。ただ、班長はどこか深刻そうな顔をしていて、別室に呼ばれると、かんたんな面談のような様子になった。
「それで、大丈夫か?」
班長はまだ心配そうな顔をしていた。
「ええ、」
「それでだ。あの日の朝の電話、覚えてるか?」
「はい」
どうやらあの怪異の中で、幻覚や幻聴などではなく実際に電話が繋がっていたということらしかった。
「変なこと聞くようだが、いいか?」
「別に、はい」
「あの電話、最初はお前の声が聞こえたんだけど、後はほとんど聞き取れなかったんだよ。雑音って言うのか」
「ほんとですか。僕の方もです」
「そうか……」
班長はまだ迷いつつ、何か言いたげな様子だった。「お前は、あの……あれ、ほんとうに聞こえてなかったのか?」
「何がですか?」
「うむ……あの、あのときだな、なんていうか、お前さんの声が、途中から叫び声、みたいな声になったと思うと、なんか金属をキリキリと擦るというか、それか激しい水流みたいな音というか、なんか気分が悪くなるような不快な感じがしてだな。それから全然違う声で、しわがれたような声がして。んで、逃がすなとか、血がどうのこうのみたいな、そんなのが聞こえて、それで、後は電話が通じなくなったんだ。もしかして、事件か事故かなんかに巻き込まれたんじゃないかと思ったよ」
班長のその意外な話に、彼はぽかんとなった。
「そんで、夕方連絡があったと思ったら、線路に落ちて救急車で運ばれたとかで……まあ、無事でよかったけどな」
それから班長は気恥ずかしそうに首を振り、いつもの表情に戻った。「いやはや、とにかく君が無事でよかったよかった。さっきの話は忘れてくれ。それから今後は、遅れそうなときは早め早めの連絡を頼むよ。俺も大変だからな」
「はい、分かりました」
彼からしてみれば、班長の話は自分の遭遇した怪異となにか関係があるようにも思えた。だが、あえて話そうとも思わなかったし、それ以降このことが話題になることはなかった。
怪奇に遭遇した記憶も幾らか薄れてきたある日の仕事帰り、男がいつもの地下鉄のホームで電車を待っていると、あの時とそっくりな巨大な鮪が一匹、線路上の空間を泳いで来たのが目についた。ホームには他にも多くの人がいたもかかわらず、まるで気にしていない様子だった。おそらく、彼だけにしか見えていないように思われた。
男が呆然としていると、その鮪は彼の目の前まで来て止まった。開いているホームドアの向こう側から、その眼が彼のことをジッと見つた。口をパクパクさせて
「次ハ逃ガサナイ。皆ガ欲シテイル」
と言った。
彼はゾッとして思わず目を閉じた。一度深呼吸すると、その間に巨大鮪の姿は消えていた。直後、
パヮーーーンッ!!
と、警笛を鳴らしながら電車が進入してきた。
それから停車して電車のドアは開いたが、彼は突っ立たまま他の乗客が乗り降りするのを眺めているだけであった。車両のドアとホームドアが閉まり、電車が発車してから彼はハッと我に返ったようなようすだった。それから若干フラフラとした足取りでホームを後にし、地上を走る別の路線とバスを乗り継いで帰宅したのだった。
それ以降、彼は地下鉄に乗ることをやめた。
駅のモチーフは、やはり都内の渋〇駅といったところでしょうか。でも地下鉄銀〇線だったら地上じゃないか! というツッコミは無しで。半〇門線や東〇は地下ですし。
ちなみに停止現示とは、信号が “赤” の表示ということ。それと、イギリスでは地下鉄のことをTUBEって言うらしいです。でも[そのうち来ます]って表示は、アメリアNYの地下鉄だったような……。