<4.ブサイクな八方美人>
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――この世界は残酷だ。
ずっと幼い頃から、コウタはそのことに気がついていた。
人は決して平等ではない。
本人の意思、望む望まないにかかわらず、境遇に、才能に、差があり、その差が格差や差別を生む。
何か悪いことをしたわけでもないのに、冷遇されたり嘲笑を受けたりする人間がいる。
――理不尽は、いたる所に存在する。
コウタにそのことを実感した理由に、一人の少女の存在があった。
はじまりは、小学校低学年くらいの頃だったろうか。
隣のクラスに、一人の少女がいた。
その少女は、いじめられていた。
みんなと遊ぼうとするも、事あるごとに仲間外れにされたり、かと思えば心ない言葉をぶつけられ、嘲笑の的にされたりした。
あるいは、実際に石をぶつけられたり、服の中に草や土を入れられたりした。
その光景を、コウタは校庭の片隅でじっと見ていた。
バカなことをやってる、と冷めた頭で考える一方、理不尽だと思い、また納得できなくもあった。
――なぜ、あの子だけがあんなことをされるのか。
――なぜ一人だけ、ひどい扱いを受けているのか。
ある日、些細な偶然からコウタはその理由を知った。
――前歯が大きいから。
少女がいじめられている理由はたったそれだけで、それが全てらしかった。
まったくの理不尽だった。
少女には何の罪もない。
少女には何の咎もない。
なのに少女は迫害されるのだ。
自分の意思ではどうすることもできない身体的特徴を槍玉に挙げられ、ことあるごとに理由なき暴力を受ける。
子供は残酷だ。
それは、無邪気さゆえの残酷さだった。
相手のことを慮んばかるという考えが欠如しているのか、あるいはその必要がない相手だと考えているのか。
いずれにせよ、少女をとりまく子供たちは、無邪気に、残酷に、迫害を続けた。
そんなことをして何の意味があるのか、コウタにはわからなかったが、ともかくも子供たちは『それ』を続けた。
一方で、少女の態度もまた、不可解だった。
彼女はどれだけ理不尽な扱いを受けても、ただ笑っていた。
怒りに任せて反抗することも、悲しみに暮れて泣き出すこともせず、ただ曖昧な笑みを浮かべていた。
どんなに心ない言葉を浴びても、笑って受け流すか、曖昧な肯定をするだけだった。それどころか、時折的外れな答えを返し、それがさらに嘲笑の対象になった。
最初は、ただ馬鹿で愚鈍な子供だと思っていた。
自分が何をされているのか、何を言われているのか、何もわかっていないんじゃないかと。
だからあんな、ヘラヘラ笑っているだけなのだと。
だから、コウタはただその光景を見ているだけだった。
何もわかっていないなら、それは自業自得だ。
傷つけられてもそれがわかっていないのなら、無いのと同じだ。
だから、気にはなったが、ただ見ているだけだった。
コウタは、あくまで傍観者だった。
だけど、ある日。
コウタは偶然、見てしまった。
誰も来ないはずの体育倉庫の裏、ちょうど登るのに適した形をした木の上に寝そべって、こっそり家から持ち出した漫画を読んでいたコウタは――例の少女が倉庫の裏に駆け込んで来るのを見た。
彼女は、泣いていた。
誰も来ないはずの場所で、コウタが寝そべっている木の根元にすがりつき、声を押し殺して、たった一人で泣いていた。
その光景を、コウタは呆気にとられて見ていた。
少女の押し殺した泣き声は、木の上にいるコウタにもわずかに聞こえるものだった。
……その声は今でもよく覚えている。
――少女は、分かっていたのだ。
自分に向けられた、悪意、嘲笑、その全てを理解していた。
理解して、その上で、痛みも悲しみも押し殺し、偽りの笑顔を浮かべてなんでもない振りをしていたのだ。
そして、コウタは悟った。
少女がただの愚鈍な子供ではなかったことを。
コウタは知ってしまったのだ。
少女の抱える痛みと、その痛みを取り繕う笑顔の悲しさを。
その時。
眼下の少女に気を取られていたせいだろうか。
コウタは、ずるりと木の枝から身体を滑らせた。
あ――と思った時には全てが遅かった。
コウタの身体は重力に引かれて落下し、容赦なく地面へと叩きつけられた。
ちょうど、少女の足下に。
「えっと……大丈夫?」
自分の足下に降ってきたコウタを見て驚愕の表情を浮かべた少女の第一声が、それだった。
「痛くない? 立てる?」
何を言っているんだろう。
コウタは、少女の言葉に呆然とした。
なぜ、自分が心配されているのだろうか。泣いていたのは、少女のほうではなかったのか。
疑問は膨らみ、コウタは、それを目の前の相手に率直に、幼さゆえの無神経さでぶつけた。
「なんで、泣いてたの?」
その言葉を聞いた瞬間、少女の表情がほんの一瞬、ぴたりと止まった。
怖いくらいの無表情――そして次の瞬間、彼女はまた、気持ち悪いくらいの笑顔を浮かべた。
「泣いてないよ」
少女は断言した。
「でも……泣いてたよ」
「泣いてない」
有無を言わせない、断固とした声だった。
これ以上言っても押し問答になりそうだ、とコウタは直感し、それ以上追求しなかった。
だけど何か話しかけなければならないと思い、しかし何も気のきいたことは思いつかず、
「あのさ」
ただ、混乱する意識のまま、口を開いた。
「この木さ、登れるんだ」
「登れるの?」
少女は鸚鵡返しに問い返す。
「うん、登れる」コウタは頷き、「登る?」と提案した。
「ううん」
少女は首を振った。
「落ちたら、痛そうだから」
「あはは……そうだね」
尻餅をついたままの姿勢で、コウタは笑った。
実を言うと、いまだに痛みで立てなかったが、女の子を前にしての精一杯の見栄で、なんでもない振りをした。
「いつもここで遊んでるの?」
「うん」
「家、この近くにあるの?」
「うん」
立てない間の時間を埋めるため、コウタはただ闇雲に、不器用な会話を続けた。
「みんなと遊ぶの、楽しい?」
「……、……うん」
今度の「うん」には間があった。少女の表情が、少し翳った。
「なんで?」
「なんで、って……」
少女の表情が崩れ、今にも泣きそうな顔になった。
その瞬間、コウタは考えなしに口にしていた自分の残酷な言葉が、少女の胸を鋭く切り裂き、追いつめてしまったことを実感した。
「……ごめん」
「……ううん」
コウタの謝罪は、曖昧な言葉で否定された。
少女はまた、笑顔を繕った。
そんな彼女に対し、いったいどうすればいいのか幼いコウタにはわからなかった。
……いや、今だってわからないだろう。
「あのね」
少女はコウタを見て、何か迷うようなそぶりを見せていたが、やがて意を決したように口を開いた。
「このこと、秘密にしてもらえないかな」
「このこと?」
「えっと……」
聞き返すコウタも、意地悪だった。
少女はまた迷うようなそぶりを見せてから、おずおずと口を開いた。
「……見てたんだよね?」
「え?」
「私のこと、ずっと見てたの、きみだよね?」
「…………うん」
沈黙の後、コウタは肯定した。
知っていたのだ、彼女は。
コウタが、校庭の片隅から彼女の姿をずっと追いかけていたことを。
理不尽なことが行われている、そう気付いてしまった瞬間から、コウタは目が離せなくなっていたのだ。
「だから、えっと、その……」
彼女は口ごもり、どう言っていいのかわからない、といった表情を浮かべ。
やがて、どこか観念したような、それでいて、何かを決意した顔で、コウタに言った。
「――私ね、『カピバラ』って呼ばれてるんだ」
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少女の告白は、おおよそコウタの知っていることだった。
少女はその前歯の大きさから『カピバラ』――あるいは『カピ子』と呼ばれて馬鹿にされていた。
彼女を馬鹿にする少年たちは『カピバラ』という動物を知っているということを誇示したいだけだったかもしれないし、あるいは彼女が『ネズミ』と呼ばれるには少しふっくらとしていたからかのしれない。
とにかく少女は冷遇――少女の言葉を借りるなら『いじわる』されていた。
少年や少女たちの集団に属しながら、その中で最下位の扱いを受けていた。
それらを話した上で、少女は懇願した。
「このこと、誰にも言わないで。言わないって約束して」
「べつに、いいけど……」
他の家ではどうだか知らないが、コウタには外であった出来事を親や兄弟にいちいち報告するような習慣なんてなかった。
だから少女の懇願の意味がよくわからず、戸惑いつつも頷いた。
「いいけど……なんで?」
コウタの「なんで?」は、少女にとっては残酷な問いかけだったのだろう。
少女はぎゅっと唇を噛んで、絞り出すように答えた。
「……お母さんに、心配かけたくないから」
コウタはまず首を傾げ、次に「ああ、そうか」と得心した。
少女が笑顔を繕う理由はそれだったのだ。
知られたくないから繕うのだ。無かったことにしておきたいのだ。
だけど、
「そうじゃなくて、」
コウタか訊いたのは、そのことではなかった。
「なんで、あいつらといるの?」
「……?」
ミユキは首を傾げた。
コウタの質問の意味が本当にわからない、といった感じだった。
「だから、えっと……」
コウタはもう一度、目の前の少女に説明するために言葉を探し、まだ訊いていないことがあると気がついた。
「……名前は?」
「名前?」
「だから、名前。『カピバラ』じゃ嫌だろ」
「……! うんっ!」
少女は途端にパッと目を輝かせ、勢い良く頷いた。
「あのね、私の名前ね、ミユキっていうの」
「ミユキ……」
「うん、ミユキ。きみの名前は?」
「……コウタ」
「コウタくんだね! よろしくね!」
少女は――ミユキはコウタの手をぎゅっと握った。
「……今更だよな」
コウタは柔らかい掌の感触にトギマギし、照れ隠しをするようにそっぽ向いて呟いた。
「うん……そだね」
えへへ、と笑うミユキ。
その笑顔はもう作りものではなくなっていた。
「それで、えっと……なんで、ミユキはあいつらといるの?」
ミユキの手をそっとほどき、コウタは話を戻した。
「なんで――って……」
「だって、うっとおしいじゃん、あいつら」
「……そうかな?」
首を傾げるミユキの心境が、コウタにはまるでわからなかった。
「あいつらムカつかない?」
「……そうかな?」
「あいつらと居て、なんとも思わないの?」
「えっと……たのしいよ?」
「……っ」
噛み合わないどころか、理解不能な解答に、コウタは言葉を詰まらせる。
ミユキの笑顔はまた、さっきまでのどこか不自然なものに戻っていた。
「――だって泣いてたじゃん!」
コウタは、珍しくムキになって叫んだ。
「何も思ってなくないじゃん! なのにさぁ、なんで!?」
「えっと……」
ミユキは困ったような顔をして、
「うっとおしいとか、むかつくとか、そういうのとは、違うかな」
「じゃあ、なんで泣いてたんだよ」
「泣いてなんか……」
ミユキは言葉を途中で途切れさせ、考えるようにゆっくりと口を開いた。
「……悲しいから、かな」
「かな、しい……?」
コウタには、言わんとしていることの意味が分からない。
「私、みんなと笑って、仲良くしていたいんだ」
「仲良くって……あんなやつらと?」
「あんなって、みんないい人たちだよ?」
「……は?」
今度こそ、コウタには本当に意味のわからない言葉だった。
「だって、みんな私以外には優しいもん」
「……っ」
――そんなのって意味ないじゃないか。
――ミユキに優しいんじゃなかったら、何の意味もないじゃないか。
「それに、なんだかんだ言っても……私があそこにいるのを許してくれる」
――いいのか、それで。
何も知らずに、何の権利もなしにただ調子に乗っているやつらに、いいように弄ばれて。笑いものにされて。それなのに、そんな奴らに媚びて、作り笑顔をを浮かべて。
そんな――そんなバカなことがあっていいのか。
間違ってる、と叫びたかった。
あんな奴ら、無視してしまえ。二度と近寄るな。
そう、説教してやりたかった。
……だけど、コウタにはできなかった。
ミユキの笑顔を見た瞬間、コウタは、自分が何を言おうとミユキの意志を変えることはできないと悟ってしまった。
ひたすら周囲に従順だったはずの少女は、その瞬間、そのことにおいてだけ、他の誰よりも頑なだった。
だから、コウタは代わりに言った。
「俺だって……許してやれる」
「……え?」
「あんなやつじゃなくたって、俺のとこにだって、いていいから。この場所とか、この木の上とか……ホントは秘密の場所だけど、ミユキは使っていいから。だから……」
纏まりのないまま、それでも漠然とした衝動に駆られて言葉を続けようとするコウタ。
その言葉をきょとんとして聞いていたミユキは――急に泣きそうな顔になり、すぐにその目を掌で隠した。
表情を隠すその所作だけが、いやに大人びて見えた。
「…………ありがとう」
擦れるような小声で呟かれたその言葉を、コウタは辛うじて聞き取ることができた。
「もう、行かなきゃだから」
ミユキは、その場でクルリと身体を回し、背を向けた。
スカートが花のように広がり、コウタはドキリとした。
「また、来るね」
ミユキは、最後にそう言い置いて、タッと駆けだした。
コウタは、何も言わずその背中を見送った。
$3
その日以来、コウタはミユキのことが放っておけなくなった。
訪れる昼休みや、時には放課後まで。ミユキが一人きりになってから。
気が付いたら、ミユキは体育倉庫裏に居て、コウタは不器用な言葉で話しかけていた。
やがて、コウタはそれが義務であるかのように、倉庫裏に行くようになった。
ある時は、木の上で寝ているコウタに、ミユキが声をかけ。
またある時は、誰もいない木を見上げてぼんやりとしているミユキに、コウタが声をかけ。
そうして、二人きりの逢瀬は続いた。
やがて、二人はただ話すだけでなく、遊んだりするようになった。
薄暗い体育倉庫の裏で、おはじきで遊んだり、ゴムとびをしてみたり。古いベーゴマを家から持ち出して遊ぼうとしたこともあった。その時は結局、コマの回しかたがわからなくて断念した。
しかし、一方で、それ以外の部分では、何も変わらなかった。
ミユキがカピバラと呼ばれていることも、いじめられていることも。
あいかわらずみんなから『いじわる』されるミユキの姿を、コウタはずっと見ていた。
コウタとの短い逢瀬の一方で、そうした行為はずっと続けられていた。
ミユキは、自分の意思で、頑なに自分をいじめる集団に属し続けていた。
コウタはそれを見ているだけだった。
ミユキがそうしたいのだから。自らそうすると決めたのだから。
自分にそれを止める権利はないのだと、ぼんやりとそう考えていた。
――そんなものは、ただの自己満足だった。
そうと気付いたのはいつの頃だろう。
いつ頃からかミユキに女の子の友達ができて、ミユキとその周りは、そしてコウタとの関係性も少しずつ変わっていった。
いつからか、それまでひとりぼっちだったミユキも何人かの女の子と仲良くなっていった。
クラスの中で、男子と女子は自然と別れ、それに伴ってコウタとミユキの接点も自然と減り、一方でミユキはいつの間にか女子のグループに属していた。
彼女たちは、ミユキをいじめるようなことはしなかった。
それでもしばらくは、ミユキを馬鹿にしてちょっかいを出す男子たちがいた。
だけど、ミユキの女友達は、そういった男子たちに、集団で激しい非難を浴びせ、また一端敵と認定すると、全く別のことでもことあるごとに非難の槍玉に上げ、あっという間に彼らの発言力を奪った。
彼らのいじめが完全に止まるのに、そう長い時間は必要としなかった。
ミユキにとってはさぞ頼もしかったことだろう。
しかしコウタにとってはむしろ、そうした女子達の集団での恐ろしさこそが印象に残った。
彼女らにとって善悪は関係なく、ただ仲間を守るために――自分たちのためにやったのだとわかったからだ。
だとしたら、彼女たちとミユキをいじめていた男子たち――その両者にどれほどの違いがあるというのだろう?
その一方で、コウタ自身はミユキがいじめられるのを、ただ傍から見ているだけだった。
ミユキがいじめられているのを知っていながら、誰にも何も言わなかった。
当然のように、何もしなかった。
あの頃から、コウタは自分がもはやミユキにとって必要のない人間になっていることを知った。
そう悟った瞬間、二人の距離はますます離れ、ただのクラスメイト以上によそよそしい関係となった。
もう二人が仲良くする理由は、どこにも存在しなかった。
だけど――とコウタは今にして思う。
あの時、その気になれば、いじめは止めることはできたのだ。
ミユキの友達たちがそうしたように。
するか、しないか。その気があるか、無いかの問題だったのだ。
ミユキには誰にも言わないで、と言われた。
その約束は確かに守った。
だけどそれで――それだけで、本当によかったのか?
果たして、ミユキはそうしてほしかったのか?
いつも、全てが終わってから何もなかったかのように声をかけるだけで、それ以上のことは決してしようとはしなかった。
なぜ、いじめを止めようとしなかったのか。
なぜ、身体を張ってでもやめさせようとしなかったのか。
――わかっている。
自分が、臆病だったからだ。
臆病で卑怯な、偽善者だったからだ。
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コウタは、昔から自己主張が苦手で、周りに流されやすい子供だった。
身体も声も小さく、自分から意見を言うのに苦手意識があった。
また、違う意見を言うことで、他人を不快にさせるかもしれないと思っていたかもしれない。
喧嘩なんてすごく苦手だった(そもそも誰かと喧嘩をした記憶がほとんどない)し、他人の喧嘩を聞くだけでも嫌だった。
祖母には「素直で良い子」なんて言われたこともあったらしい。
ほとんどわがままを言わない子供だった、と親や親戚はそう言う。
でも結局それは、自分の意思がないだけの弱い人間なんじゃないかと思う。
いうならば八方美人――いや、美人ですらない。
自分の保身のために、ただ周りに流されるような生き様は、むしろブサイクの極みとも言えるだろう。
そういう人間なのだ、自分は。
……いや。そんな言葉で誤魔化してはいけない。
他に原因があるのだ。もっと明確で、直接的な原因が。
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あれは、そう……小学校に入る前、だったろうか。
一度だけ、明確に自己主張というものをしたことがある。
確か幼稚園の頃だったろうか。
無謀にも、クラスで一番偉そうにしているガキ大将の順番抜かしを指摘したのだ。
自分としては正しいことをしたつもりだった。
間違ったことをした人間の間違った行為を指摘する、当然の行動だと思っていた。
しかし、相手がそれをたやすく受け入れるほど優しい世界ではなかった。
コウタは、ガキ大将とその取り巻きにとり押さえられ、ズボンを下ろされた。
白いブリーフが露出し、コウタは一瞬で嘲笑の的になった。
誰が正しい主張をして、誰が間違った行動をしたかなんて、その場の誰にとってもどうでも良かった。
ただ、その場の力関係だけが全てを支配し、決定していた。
結局その幼稚園は一年でやめて別のところへ移ったのだが……その出来事は、コウタの中にずっと残った。
それ以来、コウタは徹底した傍観者となった。
綺麗事など何の役にも立たない。実際に物事の動きに影響を及ぼしているのは、力と、利害関係だけだ。
そのことを、肌で実感した。
それと同時に、そんな風に大声と暴力で解決しようとする粗暴さ、理不尽さに嫌気が差した。
その結果として、コウタは集団そのものから距離を取ったのだ。
コウタは自分から望んで、無害な孤立者となった。
――俺は、卑怯な傍観者だ。
そんな自責にも似た思いが、今もコウタを責め苛んでいる。
結局、コウタには勇気が、度胸が、意志の強さが、何もかも不足しているのだ。
その結果が、ミユキに対する偽善的行いで、肝心な時に助けられなかったという結末だ。
――確かに俺は白馬の王子様なんかであるはずがない。
――何もできない、無力なクソガキだ。車に轢かれそうになったときだってそうだった。
――今回もそうだ、一方的に殴られ、このザマだ。
――死んでもおかしくなかった。そうならなかったのは運が良かっただけ。
「ちくしょう……」
鉛色の空を、コウタは見上げる。
覆い被さるような重苦しい曇天から一雫、水が降ってきた。
それはすぐに連続してコウタの身体に降り落ち、やがて叩きつけるような激しい雨となった。
地面に転がったままのコウタは、全身を雨に打たれ、身体は冷えきっていく。
この体温と一緒に、俺の甘さを奪っていってくれ。
コウタは念じ、激痛を無視して腕をそろりと動かした。
何かを求めるように空を掻いた掌は、冷たい土をほんの少し掴んだだけだった。