<3.宿泊代>
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「う……」
コウタは窓の外の光の眩しさで目を覚ました。
(……あれ?)
目を開けたコウタは、すぐ異常に気づく。
視界に入る天井は木板がむき出しになった簡素なもので、何より、コウタ自身が横たわっているのが、ベッドではなく、ただの藁束だ。
「……!?」
がばりと身を起こしたコウタはすぐに、そこがマクドネスの家の一室であることを思い出した。
それと同時に、昨日のこと――自分の『死』についてもだ。
(そうだ……悠長にはしてられない。色々やらないとな)
昨日のミユキとのやりとりを思いだし、声をかけようとミユキの姿を探す。
と、
(あれ……?)
部屋の中に、ミユキがいなかった。
ミユキが使っていた藁束だけそのままに、ミユキの姿だけが忽然と消えている。
「……ミユキ?」
呼びかけてみるものの、返事はない。
コウタは焦る心を抑え、部屋を飛び出した。
もしかしたら近くにいるだけかもしれない。
大部屋の囲炉裏で湯を沸かしていたマクドネスを捕まえ、ミユキの居場所を訊く。
「いや……知らねえな。まだ寝てるもんかと思ったが」
「そう……ですか。足音とかは? ミユキが出ていった気配とかはなかったですか?」
「さあな……さすがにそこまではわからねえ。俺もさっきまでは寝てたしな」
「……そうですか。じゃあ他の部屋も見てきます」
そう言って走り出そうとしたコウタの手をマクドネスが掴んだ。
「まあ待て、部屋は俺が見てきてやるよ」
「でも」
「俺の家だ。俺が一番よくわかってるさ。それよりお前は外見てこいよ」
「……外?」
怪訝な表情を浮かべたコウタに、マクドネスは諭すように言う。
「あのな、嬢ちゃんは獣の姿だ。逆にこういう家にいるほうが居心地は悪いんじゃねえか? 近くをほっつき歩いてるだけかもしんねえ」
「そうなんですか? でも一人でなんて……」
「いや、考えようによっちゃ人間よりゃ安全かもな。俺はどっちかっつうとお前のほうが――」
「――とにかく探してきます!」
コウタはマクドネスの言葉を最後まで聞くことなく外へ飛び出した。
「魔物に気をつけろよー!」
マクドネスの忠告も、ロクに耳に入らない。
家の周りは開けた場所で、草木は疎らだ。だが、見渡してもカピバラの――ミユキの姿はどこにもない。
「ミユキー!」
焦燥に駆られるまま、コウタは大声で呼びかける。
返事はない。むなしく声が響くだけだ。
(一体どこに……)
昨夜の不安、嫌な予感が思い出される。
不安と恐怖の感情がじわじわと指先からコウタの身体に染み込んでいく。
(くそ、しっかりしろ……。一番不安がってたのはミユキのはずなのに……!)
そのミユキをみすみす、見失うなんて。
寝てたから、というのは何の言い訳にもならない。あの時の直感の命じるがまま、手でも握っておけば良かった。
様々な後悔がコウタに押し寄せ、同時にまだ居なくなったと決まったわけじゃない、何かの勘違いかもしれない、とコウタは自分に言い聞かせる。
(そういえば、家の中はどうなった……?)
しばらく家の周囲を走り回ったあと、ふと家のほうを振り返ると。
そこに、意外な光景があった。
玄関先に誰かが居る。
マクドネスと、それから見覚えのある男が二人――そうだ、昨日の冒険者たちだ。マクドネスの仲間の。
「――」
その時。
コウタは異様な胸騒ぎを感じた。
マクドネスの家に、彼の仲間たちが訪れている。何も不自然なことはないはずだ。
そのはずなのに――妙な胸騒ぎ、不安感が消えずにいる。
「……」
コウタは、直感の命じるがままに玄関へと近づいた。
玄関に居るのは、マクドネス、フーガ、グスクルだった。
(――ッ)
彼らの表情を見た瞬間、コウタはとっさに近くの木に身を隠す。
(何やってるんだ俺……? 何もやましいことなんてしてないはずなのに……)
自分でもなぜそうしたのかわからない、本能的な判断だった。
そうして改めて木の陰から彼らを覗き、気づく。
彼らの表情に、違和感があった。
皆、一様に笑顔を浮かべているのだ。それは、何かを期待しているような、そして何かを企んでいるような――コウタの前では決して見せなかった、黒い笑み。
(あいつら……一体何を話してるんだ?)
コウタは神経を集中させ、彼らの会話に聞き耳を立てる。
「……もったいぶるんじゃねえ、さっさと見せやがれ」
「わかってるさ。ちょっと待ってろ」
グスクルが何かを催促し、マクドネスはそれに応じて家の中に入っていった。
しばらくして再び玄関に姿を表したマクドネス。彼は、その両腕に何かを抱えていた。
「――っ!?」
それを見た瞬間、コウタは息を呑んだ。
驚きのあまり声も出なかったが、一方で、頭のどこかでうっすらとその可能性を考えていたことをこの時になって初めて自覚した。
マクドネスが抱えていたのは、カピバラだった。
四肢を縄で拘束され、気を失っているのかぐったりとしている。
見間違うはずもない。あれは――ミユキだ。
「じゃあ頼むぜ」
マクドネスはカピバラの姿をしたミユキを、そっと地面に横たえた。
驚きのあまり、声も出ない。目の前で行われていることが理解できないコウタは、何も考えることができず――ただただその光景を見ていることしかできない。
「ああ、任せろ」
グスクルは答えると、ミユキの四方を囲むように紙片を置いた。
「ライゾ・ライゾ・フェオー・ライゾ……」
グスクルは手に持った杖の石突きで紙片を順番に突きながら、何か呪文のようなものを唱え始める。
「ライゾ・ライゾ・フェオー・ライゾ……」
それに呼応するように、突かれた紙片が輝きを帯びた。
順番に光る紙片と紙片は光の曲線で結ばれ、ミユキを囲む光の円となる。
「ナウシズ・エイワズ・マンナズ・ラグズ……」
グスクルの『呪文』は、まったくコウタの知らない言葉だった。
だが、意味のある言葉の連なりなのだと直感的にわかる。
グスクルの呪文に応じて、光の円がその輝きを強めているからだ。
「ナウシズ・エイワズ・マンナズ・ラグズ……」
(……!?)
光の円の輝きに同調するように、ミユキ自身の身体も光始めた。
「んぅ、あッ……」
やがて、ミユキの声から苦悶の声が漏れる。
光が強まるごとに、痛みに耐えかねるように身体が仰け反り、悲鳴を押し殺したような声が響く。
(なんだ……なんだこれ)
ここに至って、コウタはことの重大さに気づいた。ミユキの身に何かが起きている。
ミユキに苦痛を与えるとんでもない何かが。
「イス・オシラ・マナンズ・ラグズ……」
グスクルは呪文の詠唱を続けながら、杖の石突きで地面を突く。
その瞬間、ミユキは悲鳴を上げてその身体を捩り――その身体の輪郭が、ぐにゃりと歪んだ。
「ミユキ――ッ!!」
その瞬間、コウタは自分の置かれた状況も、グスクルたちのことも、何もかも忘れて絶叫した。
ミユキの身体は曖昧な光の塊となり、溶けて消えそうなほど儚い姿で揺れている。
――このままミユキが消える?
――ミユキがいなくなってしまうかもしれないのに
――また、黙って見ているだけか?
――今度こそ本当に、何もかも失ってから後悔するのか?
「――うおおおおおおッ!」
――ミユキがいなくなる。
その恐怖が、強烈な焦燥と危機感となり、棒立ちだったコウタを突き動かした。
コウタは雄叫びを上げ、グスクルの方へと突進する。
「な――っ?」
「やめろおおおおおお!」
驚愕の表情を浮かべるグスクル。コウタは突進の勢いのまま、その身体に自分の身体をぶち当てる。
「ぐぉ――ッ!?」
もつれ合って転がる二人。グスクルの呪文が途切れ、その瞬間、ミユキを囲んでいた魔法陣の光も消える。そして、ミユキは――
「……ったく、いってーな!」
「がッ!?」
殴られた、と気づいた時には、コウタは地面に倒れ伏していた。
それでもコウタは、無理矢理首を動かし、ミユキの姿を確認する。
ミユキは――その姿は、驚くべきことにカピバラとは違うものになっていた。
そこにいたのは、幼い少女だった。
つい先日までのミユキの姿ではない。知っている気もするが、うまく記憶が繋がらない――
「おうおう、余裕だなぁ。こんな時によそ見かよ」
「がッ!?」
瞬間、さらに腹部を蹴られる。それでもコウタは痛みをこらえて立ち上がり、
「服が汚れただろーが、クソが」
――ガッ! と杖で顔面に殴打を受ける。
「あ、があ……!?」
激痛に鼻を押さえてよろめくコウタ。その掌の隙間から鼻血が伝う。
「ぐ……ぞ……!」
痛みを堪え、コウタはグスクルを睨みつける。
「お前ら、騙したな! ミユキに何をした!」
「たく……めんどくせえな」
コウタの怒鳴り声に臆することもなく、グスクルはただ気怠そうに息を吐いただけだった。
代わりに答えたのは、マクドネスだ。
「なに、ちょっと身体をいじっただけさ」
「いじったってどういうことだ!」
コウタはマクドネスを睨み付け、感情のまま唾を飛ばして問い詰める。
が、マクドネスは、やれやれとため息を吐いて、小馬鹿にしたような笑みを浮かべただけだった。
まるで、理屈のわからない愚かな子供を見るような、そんな目をしながら――
「……お前さあ、自分の立場わかってんのかよ?」
「は……?」
「言っとくが、俺たちは命の恩人なんだぜ。俺らがあの時助けに入らなきゃ、命はなかった。てめえらは『エビルボアー』に食い殺されてた」
「だから……なんだよ」
「しかも俺は、一食分の飯を提供し、さらに宿も貸してやった。で、その礼が俺らに掴みかかることか? これだけ色々世話を焼いてやった、俺たちに?」
コウタは一瞬、マクドネスの言っている意味がわからなかった。
「――ッ、ふざけんな! だからって、やっていいことと悪いことがあるだろうが!」
激昂するコウタの言葉に、しかしマクドネスは失笑する。
「はぁ? なんだそりゃ。こちとら一宿一飯を提供してやったんだ。その代金くらいは必要だよなあ? ……例えばそのガキの身体とかな」
「てめえ……」
コウタの脳裏に嫌な想像がよぎる。
ミユキの身体が目当てという、その意味は――
「物分かりの悪いガキだな。俺たちが用があるのは、こいつだけなんだよ。お前は関係ねえ。てめえみてえなヒョロッヒョロの男、奴隷としてもクソだしな」
「だから、なんだってんだ」
マクドネスは「まだわからねえのか」の呟いて肩を竦めた。
「帰れつってんだよ。お前にとっちゃ、この女は所詮他人だろ? ほっときゃいいじゃねえか」
「――ふざけんな!」
当然、そんな言葉に納得できるわけがない。
それは、コウタにとって何よりの侮辱だった。
「ミユキを返せ!」
コウタは、怒りに任せてマクドネスに掴みかかった。
「せっかく見逃してやるっつってんのに……本当にバカだなお前」
その瞬間、顔面が爆発したかのようだった。
殴られた、と気づいた時にはコウタの身体は宙に浮き、放物線を描いて吹き飛ばされていた。
人間の体がこうも軽々と勢いよく飛ぶものなのかと思えるほどに宙を舞い、そして背中から勢いよく地面に落ちた。
「……ガハッ!!」
呼吸が止まり、遅れて全身に息が詰まるような痛みが走る。
それからやっと、顔面の激痛を思い出した。
今まで受けたどんなパンチよりも強烈だった。
(くそ……くそっ……!)
痛みで全身がロクに動かない。
視界に飛び散る星を見ながら瞼を開け、激痛を堪えてかろうじて息を吸う。
まるで、力が違いすぎる。
昨日見たはずだった。あんな魔物を拳一つで殴り飛ばし、怯ませ、ダメージを負わせるマクドネスの姿を。
まったく――桁違いの力だ。
「そんなザマでどうするってんだ? え?」
歩み寄ったマクドネスは、コウタを見下し、嘲笑に唇を歪めた。
「ぐ……っ」
痛みに顔を歪めるコウタは、それでも身体を起こそうとする。
その目は、服を着ることもなく、気を失って野ざらしの地面に横たわっている、幼い姿のミユキを捉えている。
だが当然、マクドネスがそれを待つはずもない。
「……バカが」
ゴッ、とコウタのわき腹が蹴り飛ばされる。
グキリと体内で嫌な音が響き、地面を転がりながらうめき声を上げるコウタ。
おそらく肋骨が折れたのだ、とどこかにある冷静な思考が、自身の状態を分析する。
(また来る……!)
さらに蹴ろうとするマクドネスの足に、せめてもの逆襲をとコウタはがむしゃらに手を伸ばす。
が、その動きは完全に読まれており、次の瞬間にはコウタの手のひらが、マクドネスに踏み潰されていた。
「ぐ、が……!」
「元気だなぁおい、まだ抵抗すんのかよ」
マクドネスは、踏みつけた足に体重を乗せ、容赦なくグリッと捻る。手のひらからゴリッ! と嫌な音を響かせ、さらにベキバキと骨の砕ける感触。
「ぎ、ぎぁああああああ――ッッ!!」
今まで味わったこともない、掌が潰される痛みに、コウタはたまらず絶叫する。
「ピーピー喚いてんじゃねえよ。俺ら冒険者はこれくらいの痛みなんてザラだぜ? そんなんじゃここで逃げ出しても生き残れねえよ」
「あ、あああああ――ッ!」
叫ぶだけのコウタを、マクドネスはさらに蹴り飛ばす。
「なあお前、そんなザマでその女を守れると思ってんのか?」
さらに、踏みつける。蹴りつけ、踏みにじる。
時には倒れた身体を引きずり上げ、殴打し、腕をへし折り、さらに蹴り上げ、引きずり倒し、踏み潰し、蹴り飛ばし。
「守れやしねえよ。守れねえんだよ。いくら叫んだって、足掻いたって、そんなザマじゃ何もできはしねえ」
絶叫を聞きながら。さらに。
さらに。さらに。
「力が無きゃ無意味なんだよ。てめぇみたいな奴は真っ先に死ぬ。何もできやしねえ。何もだ」
何度も、何度も、何度も。
マクドネスは執拗にコウタを蹴り続ける。そのたびにコウタは絶叫し、激痛に悶える。
「何も守れやしねえ。自分の命も。大事な人間の命も、何一つ。てめえはただのクズ。何もできないただのクズだ」
執拗に繰り返される暴力。
一方的に暴力を受け続け、無様に地面を転がり泣き叫び、それでいて何もできない。
わざと殺さないように、気を失わないように、加減されていることが、コウタにもわかった。
それは、ただただコウタを苦しめ、そしてコウタのプライドを踏みにじるための行為だった。
互いの立場をこれ以上無いほど明確に突きつけ、体感させるための暴力だった。
「……おい、いつまでやってんだ」
「俺の気が済むまでだ」
「さっさと気絶させるか、殺すかすりゃいいんじゃねえのか?」
グスクルの声にも、マクドネスはコウタをいたぶることをやめない。
口から血を流し始め、身体を痙攣させるコウタをそれでも蹴り続け、その行為とはひどく裏腹に淡々とした声で語る。
「それじゃあ気が済まねえのさ。こんなぬるま湯に浸かったようなクソガキが、俺の目の前で五体満足で生きているのが我慢ならねえ。――死ぬより痛い目に遭わせてやる」
「……まぁ好きにしな。馬鹿馬鹿しいと思っても文句は言わねえさ」
グスクルとのやりとりはそれっきりだった。
しばらくの間、マクドネスによる無言の暴力が続いた。コウタはただ激痛の濁流に晒されるがままだった。
「気は済んだか?」
「…………ああ」
延々とも思える暴力の嵐は、やがてぴたりとやんだ。
気を失う寸前のコウタは、それでも奇跡のような執念で目を開き続けていた。
その目は焦点を失いながらも、地面に倒れたままのミユキを捉えていた。
「殺されねえだけマシと思いな。俺たちは優しいからなあ」
「ったく、手間かけさせやがってよ」
マクドネスは満身創痍で倒れたままのコウタに吐き捨て、グスクルはただ気怠そうに、誰に向けたのかわからない言葉をぼそりと呟く。
マクドネスは地面に放置されていたミユキの身体にボロボロの布を被せて荷物のように肩に担ぎ、グスクルとともに立ち去った。
追いかけるどころか指一本動かせないコウタは、消えそうになる意識を必死につなぎ止めながら、その姿をただ見送るしかなかった。
(ちくしょう……俺は何もできないのか……)
(そういやロクに喧嘩もしたことなかったっけか。こんなことなら空手の一つでも習えば良かったか……?)
(いや、空手程度で対抗できるほど生やさしい相手じゃなかった……)
(手加減されただけなんだ。ただ、俺をいたぶるためだけに……ちくしょう……)
コウタはただひたすら自分の無力を呪う。
そして間もなく、その意識が電源を切るように落ちた。