プロローグ
プロローグ
「行ってきます」
その日。敷島コウタはいつも通りの挨拶をして家を出た。
その日は特別でもなんでもない、平凡な一日のはずだった。
そう――この瞬間までは。
「あ……」
家の門を開けたコウタは、ちょうど、隣の家から同じようにして出てくる制服姿の少女に気が付いた。
それは、見知った顔だった。
「あ……」
向こうも、こちらを見てコウタの姿に気づく。
お互いがお互いを見つめ合い、一瞬だけ時間が止まる。どちらかが声をかけるでもない、気まずい沈黙。
やがて、少女はコウタに背を向け、踵を返して歩き始めた。
「ちょっ――」
慌てて追いかけるコウタ。とりあえず何か話さなきゃ、と思うが、咄嗟に気の利いた言葉が浮かんでくるわけでもない。
「最近学校とかどう?」
「……別に」
素っ気ない返答だ。
第一声が芸の無い質問だったということを抜きにしても。
少女の名前は羽黒ミユキ。コウタの幼馴染で、今は同じ高校に通っている。
背丈は標準的――な女子高生よりはやや低い。髪は平凡なロングヘアで、不機嫌そうな顔をしている。
もっとも、それはコウタが相手だからかもしれない。女の子の友達と喋る時に笑っているのは、何回か見たことがあった。だが、どこか作り物めいて違和感があったようにも思う。
「お前、昔はもうちょっと可愛げがあったと思うんだけどなあ」
そう言うと、ミユキは不愉快そうに眉をしかめた。
「昔って……いつの話?」
「そりゃあ……小学校? いや、幼稚園だったかな……」
「そんなの覚えてない」
ミユキはぴしゃりと言った。相変わらず素っ気ない。
昔はもうちょっと明るかった気がする。
明るいというか無邪気というか……
(そういえば、小学校に入った頃……)
あの頃、ミユキは前歯が大きくていじめられていた。カピバラとか何とか言って。
子供というのは残酷だ。ただの身体的特徴だけで、嘲笑したり攻撃したりできたのだから。
しかしミユキはそんなやつらに対して一切言い返さなかった。
それどころか曖昧な笑みを浮かべて、的外れなことを言ったりしていた。
正直アホな子なんじゃないかと、最初は思っていたのだった。
そんなミユキにコウタはよく話しかけた。
いじめっ子たちが立ち去ったあとに二人で遊んだりした。
おかげで無意味にゴム飛びなどが上手くなった。
低学年のうちは、そんな風だったと思う。
だけど、いつからか疎遠になった。なぜそうなったのか、何かきっかけがあったのかすら思い出せないけれど、次第に顔も合せ辛くなった。
「いつから、こんな風になっちまったんだろうなあ……」
それは、コウタが何気なく言った一言だった。
ミユキはその言葉が聞こえいないかのようにしばらく何も言わなかったが、やがてポツリと言葉を零した。
「だって、コウちゃんが不甲斐ないから」
その言葉の意味が分からず、コウタはミユキの顔を見る。
いつからミユキはこんな風になったのだろう?
ニコリともしないその張り詰めた表情は、どこか不自然で、頑で、無理をしているように見える。
「コウちゃんが白馬の王子様だったらよかったのに……」
「…………え?」
その言葉の意味を考える前に、ミユキは突然走り出す。
「ちょ――!」
慌ててミユキの背中を追いかけるコウタ。
ちょうど目の前にある横断歩道の信号が、運悪く青に変わる。
躊躇なく横断歩道へ駆け出すミユキ。コウタもそれを追いかけようとして――
「――ッ!?」
その時悪寒が走り、道路脇を振り向く。
「――ミユちゃん!」
咄嗟に昔のあだ名を呼ぶコウタ。
道路の向こうから、青い乗用車が猛スピードで突っ込んでくる。
止まる気配がない――信号無視だ。
(このままじゃミユキが……!)
躊躇いはなかった。
コウタもミユキを追って横断歩道へ飛び出す。
まだ何も気づいていないミユキに追いすがり、腕を掴む。
驚いて振り返るミユキ。
――間に合わない。
車はもうすぐそこにいる。
少しも減速する気配がなく、今からミユキの手を引いて逃げることもできない。
コウタはとっさにミユキを抱きしめた。ミユキを庇うように。
青い乗用車が、不自然なほど音を立てずに近づいてくる。
(――なんでこんなにデカいんだよ、ハイブリット車のくせに!)
ドラマのように身を挺して庇うことなんてできるだろうか。
特に鍛えているわけでもない、こんなペラペラの身体一枚で疾走する鉄の塊の運動エネルギーを吸収できるのか?
もしできたとして――俺は、死ぬのか?
最後の瞬間は、ひどくゆっくりと時間が過ぎていくように思えた。
迫る車体。身体はロクに動かない。
そして――衝撃。
コウタは自分の身体が無惨に潰されたのがわかった。
その直後、全てが暗転した。