二人のスタートライン
桜がひらりひらりと舞い降りてくる。
彼は手を伸ばして、彼女の髪にかかった桜を摘まんだ。彼女は髪にかかった桜の花びらに気づいていない。彼はそっとそれを風に乗せた。
卒業証書を持った彼女と手を繋いで、桜並木の下、皆の輪に戻っていく。
彼はこの結末に、ずっと前から期待していた。
中学生の色恋なんて遊びだ。恋に恋するお年頃。だから愛なんておおそれたものはいらないし、理解はできない。
でも、この人が自分にとって特別だってことは知っていたから。
雨の日に手を引いてくれた先輩の強さも。
走りたくないと言った先輩の弱さも。
どちらも本当の彼女で、そのどちらも自分にとって特別なのだ。
彼女のように、自分を素直に出せられたら。
彼女のように、強く誰かの手を引っ張れたら。
生来引っ込み思案な彼にとって、憧れでもあった。
彼は彼女の手を握る手に力を込める。
これでも努力したのだ。自分を叱咤して、彼女を見かけては声をかけた。学年も違う、部活も違う、委員会も違う。接点なんてまるでない。
だから彼はいつでも彼女の姿を探した。視界の隅に彼女のポニーテールが揺れないか、いつも意識していた。
人はこれを一目惚れというのかもしれない。
たった一回、優しくしてもらっただけ。
たったそれだけのことに、ここまで必死になったのは、彼女が特別だったからなのかもしれない。
……彼女は今日、卒業する。
高校は少し離れた工業高校。同じ地域でほっとした。中学生の間は彼女のようにスマホを持てないから、もし遠距離になったらどうしようかとハラハラしていたのだ。
彼の杞憂はこれだけじゃない。
高校を卒業したら大学、就職が待っている。それまで彼女を捕まえていられるのか。
ヘタレで、弱虫で、ストーカー。去年の夏、散々なことを言われた自分が、どこまでこの人を繋ぎ止めていられるんだろう。
引っ込み思案な彼が告白するなんて、青天の霹靂。二度とこんなことないかもしれない。
だから願わくは。
「先輩」
「なに、稲瀬 」
「ずっとずっと、僕の手を引いていてくださいね」
彼女は一瞬、きょとんとする。
それからこつんと、彼の額を小突いた。
「何言ってるの。今度は君が私の手を引いてよね」
彼女はそう言って彼の指に、自分の指を絡める。
誰から見ても分かる、恋人繋ぎ。
彼の顔が茹で蛸のように赤く染まっていく。
その様子を見て、彼女はくすくすと笑った。
彼女の恋人はとても情けない。
情けないけど、彼女にとってはこれ以上ないほど心強い存在だ。
だから二人の間には、胸をときめかせる「好き」なんて無いけれど。
───彼女と彼は、一歩大人な恋を知っているのだ。