青空パレット
火曜日、真琴は生徒玄関の前で立ち尽くした。
このまま部室棟に行くか、それとも夕貴のいる美術室に立ち寄るか。
困ってしまってうろうろとしていると、下駄箱の方から真琴を呼ぶ声がした。
「佐倉先輩!」
ドキッとする。律儀に名字で呼ぶ後輩なんて、一人だけだ。陸上部は皆もっと親しげに呼ぶから。
恐る恐るそちらをうかがえば、予想通り夕貴がそこにいた。
「稲瀬……」
「先輩、来てくれたんですね」
夕貴が安堵したように笑うから、真琴は目をそらした。
「べ、別に稲瀬に言われてきたんじゃ……顧問に話があって、それで、ついでで……」
「でも来てくれたんですよね?」
きょとんとする夕貴に、真琴はたじたじになる。なんというか、たまに夕貴は真琴がドキッとするような仕草をする。いつもは夕貴の方が弱気なのに、どうしてかこういう時だけ強気になるんだろう。
真琴がしどろもどろになっていると、夕貴が真琴の手を引いた。
「先輩に見せたいものがあるんです」
「え、ちょ」
夕貴に誘われるまま、靴を脱ぎ捨てて、裸足で廊下を歩く。下駄箱を左に折れ曲がり、美術室に入った。
美術室の後方には幾つかのキャンバスが置かれていた。
この中学には美術室は二つある。美術の授業では入らない方の教室はこうなってるんだと、物珍しそうに真琴は見回した。
夕貴がそのうちの一つを引っ張り出してくる。
「これ、僕の作品なんです」
作品を隠す布を取り払う。
キャンパスには淡い水彩画が描かれていた。
砂の茶と、空の青、そこに立つ少女。
どうしてだろうか、陸上部のユニフォームを着た後ろ姿の少女が、自分に見えて仕方がない。
ポニーテールが風にたなびいている。陸上部でポニーテールをしている女子が、真琴ぐらいしかいないからだろうか。
「これ、先輩なんです」
キャンバスを見せびらかすようにその後ろに夕貴が立つ。
「先輩が外で活動している時、僕は見れないのでほとんど想像の産物なんですけど」
そう言いながら、夕貴はキャンパスの前に椅子を持ってくる。真琴が微動だにせず視線を下に落としていると、夕貴がその椅子に座らせてくる。王子様のつもりなのか、少しぎこちなく手が差しのべられて、優しくエスコートしてくれる。
「僕、先輩が走っているところ見たいです。グラウンドじゃなくて、もっと広いところで、風になって走っているのが見たいです。だから、大会行きましょうよ」
膝をついて、椅子に座った真琴を見上げる夕貴。
真琴はぼんやりとした目で絵を見た。
まばゆい絵だ。夢と希望に溢れてる。とても素敵な絵。
でも、この絵を心から素敵だと思えない。現実の真琴はこんなに輝かしくない。
真琴は自嘲した。
「……私に許可なく勝手に絵にするなんて。何? ストーカー? キモいんだけど」
びくっと夕貴の体が震える。繋いでいた手が震えて、離れていこうとする。分かっていたことだ。少し攻撃すれば、夕貴は及び腰で逃げていくなんてこと。
だから真琴はその手を逃がさなかった。あの絵を産み出したこの手が憎かった。
「馬鹿、変態、意気地無し、よわむし、ヘタレ」
真琴は八つ当たりのように夕貴に罵倒を浴びせかける。最後の方は、声が震えてしまう。
「妄想趣味、ロマンチスト野郎」
でも、と真琴は続ける。
どんなに憎くても、この手が産み出した絵は眩しいのだ。
ぽろぽろと涙を流しながら、真琴は言葉を続ける。
「……私、やっぱり走る。君のロマンチックなところ、嫌いじゃないよ。君にとって最初で最後、私にとっても初めて応援されながら走る大会だもん。結果は見えてるだろうから、期待はしないでほしいけど」
「け、結果なんていいんです! 僕は走ってる先輩が見たいだけなので!」
大粒の涙を流す真琴に、食い気味で夕貴が言い切った。
すんっと鼻をすすりながら、真琴はジト目で夕貴を睨む。
「それならいつもの部活でいいじゃん」
「えっと、そのっ、外周とかじゃなくて、特別な場所というか、なんというかっ」
「ほんと君ってばロマンチストだったんだね。……ありがと」
涙をぬぐうと、ポンポンと真琴は夕貴の頭を撫でる。弟がいたらこんな感じなのかなぁと、優しく撫でる。
夕貴はしばらく頭を撫でられていたけれど、やがて目に一杯涙を溜めて顔を上げた。それには真琴もぎょっとする。
「ちょ、どうしたの」
「うぅ~~、ぜ、ぜんぱいのぜいでず~、き、きらわれたがと」
何がいけなかったのかと思って、最初の罵声を思い出した。あれか、夕貴はあれくらいの悪口でも泣いちゃう子なのか。
もう中学生になったというのに、こんなにも繊細な男子、どうやったら育つんだろうと苦笑する。
「あは、そんなこと。まぁ、ちょっと引いたけどね。だってマジでないわ。盗撮に近いもんこれ」
くいっと親指で絵をさせば、ぐすぐすと夕貴は鼻をすする。
「だ、だまっででずみまぜん……」
「うんうん。別にいいよ、嬉しいから。もー、私より顔ぐちゃぐちゃじゃん。私が泣かしたみたいだから、早く泣き止んで」
二人でぽろぽろと涙を流しながら、慰め合う。
走る勇気の無かった真琴も、人と話す勇気の無かった夕貴も。
互いに互いを励ましあう。
涙が枯れるまで、二人はそうやって夏の美術室で蝉と生徒達の外周する掛け声を聞いていた。