006 わたくし元気ですわ
書き溜めしていたのですが一部調整してたら遅くなりました。
昨夜はあの後イリスへと徹底的にスキンケアを仕込んだ。
彼女は化粧をしていなかったのでクレンジングは後回しだ。
最低限の洗顔の仕方や化粧水、美容液、乳液の使い方はレクチャーしたので、毎晩しっかりとこなしてもらおう。
朝目覚めてまずは洗顔。
「ではイリス、昨夜と同じようにやってみなさい」
「は、はい!」
まず手を普通に洗って清潔にする。
次に洗顔用の石鹸をやわらかいスポンジのようなもので泡立てる。
ようなもの、というのはこれが魔獣の体組織だからだ。
非常にやわらかく、肌を傷つけないし泡立ちもいい高級品である。
ちなみに、魔物と魔獣の違いは死体が残るかどうか、魔石があるかどうかである。
死体が残らず魔石が残るものが魔物、死体が残り魔石がそもそもないのが魔獣である。
石鹸を手で泡立てない理由は泡をきめ細かくするため。
手ではどうしても限界があるし、汚れを落すのはこの泡が重要だ。
洗顔が終われば化粧水をつける。
この時一度に大量にはつけず、数回に小分けして、丁寧につけるのがポイントだ。
こうすることで化粧水が徐々に手の温度に近づき、肌に馴染みやすくなる。
ここで美容液を使う。
正直お地蔵様に教わるまでは化粧水と美容液の違いは知らなかった。
興味もなかった。
化粧水とは文字通り水のようなもので、水風船に入った水だと考えてほしい。
そして美容液は水風船の風船部分。
つまりこれを使わないとせっかく肌に馴染ませた化粧水が零れ落ちてしまうのだ。
朝使うべきでない成分などもあるのだけど、今回はきちんと朝用のものを用意しているので割愛する。
最後に乳液をつける。
これは水風船の縛るためのものだ。
せっかく化粧水を美容液で蓄えても、こぼれてしまっては意味がない。
乳液でしっかりと蓋をする必要がある。
うん、良い感じかな?
本当なら朝の時間は貴重だし、全部ひとまとめになったオールインワンジェルとかほしいところだけど、ないんだよねぇ、この世界。他の国にはもしかしたらあるかもしれないけど。
今度ジェイドあたりに探してもらおうかな。
「どうでしょうか?」
「大丈夫ですわ、私の下僕にふさわし、あぁいえだめですわね」
「え?」
スキンケアはこれでいい、大丈夫だ。
でも侯爵令嬢のお気に入りの下僕としてはこれではいけない。
僕は手早く彼女の髪をブラシですくと、その長い後ろ髪を編みこんで後頭部にまとめてアップにする。
彼女の長い髪が風にそよぐのは綺麗だろうけど、魔導騎士科は実践訓練もある。
その中で長い髪は邪魔になるだろうし、こうした手間のかかる髪型を平民はあまりしないので、貴族に囲まれても悪目立ちしないで済むだろう。
「これでいいですわね」
「わぁ……」
鏡をみてぼんやりとするイリス。
彼女は可愛い。
もともとの素材が良かったのもあるけれど、しっかりと手入れをした肌は瑞々しく、整えた髪は清潔感がある。
今の彼女はそこらの貴族にも引けをとらない、ぱっと見では誰も平民だなんて思わないだろう。
「ありがとうございます、クリスタさま!」
「えぇ、ご自慢なさい。貴方はわたくしの立派な下僕ですわ!」
「違います!」
いつものように力強く否定するイリス。
でも今日は涙目じゃない、とてもいい笑顔だ。
すこしは僕の態度にも慣れてくれたのかな?
女の子なのだ、綺麗になってうれしくないという事もないだろうし、多少は好感度が上がっただろう。
平民に優しい貴族と思われたらいけないのに、嫌われたくないというのは僕のわがままだと思う。
だけどそれでいい、僕は、クリスタ=ブリューナクはブリューナク家最低最悪のわがまま娘でなければいけない。
でもそれは決して、悪いことしかしないというわけではないはずだ。
良いこととか、悪いこととか考えず、他者を等しく見下し、好き勝手するのが僕がなるべき悪役だ。
「ではいきましょうか」
「お待ちくださいお嬢様」
意気揚々と扉を開いた僕の前に、ジェイドが現れる。
おかしい、彼に止められるような事をしただろうか?
「なんですの? まさかわたくしの下僕への扱いに不満でもございますの?」
「いえ、それはもう諦めました。それに、お嬢様の同室者がみすぼらしい姿というのも、ブリューナク家の格にふさわしくありません。まぁ、お嬢様自らがなさらずとも、専門のメイドを呼びつけていただければとは思いますが」
綺麗に整ったイリスをみて、頷くジェイド。
どうやら彼から見ても、いまのイリスはブリューナクの同室者として合格らしい。
「面倒ですわ」
「そういうと思いました」
「では、何故お止めになりましたの? わたくし、学園へ行くのが楽しみなのですけれど」
そう、今日がクリスタ=ブリューナク侯爵令嬢として学園へ通う1日目だ。
事前の準備などで行ってはいたし、それでイリスとも出会ったけれど、クラスへ行くのは今日が初めて。
だというのに何故邪魔されねばならないのか。
「お嬢様、イリスさんをお連れになろうとしていましたよね?」
「何か問題ありますの?」
お気に入りと断言している相手を連れまわさない悪役令嬢がいるだろうか? いやいない。
「あ、その、クリスタさま」
「何ですのイリスまで」
「わたしは魔導騎士科ですから」
「存じてますわ」
「お嬢様は政治科です」
忘れてましたわ!
じゃない、忘れてた!
そりゃそうである。侯爵令嬢が魔導騎士科に入るわけがない。
そもそも幽閉されていて戦闘訓練などまともにしていない僕が入れるわけがないし、仮にしていてもとある理由から僕では絶対に入ることはできない。お爺様ですら全力で止めるだろう。
「ではイリスを政治科へ」
「クリスタさまぁ……」
だめだ、イリスが涙目になっている。
魔導騎士科は平民の憧れ、どころか下級貴族にとっても憧れの的である。
卒業生のほぼ全てが魔法・剣術両方を兼ね備えた魔導騎士として名を馳せ、実力次第で王国最強の呼び声も高い聖獅子騎士団への入隊が許可される。
恐らくそこへ入るために努力を積み上げていたであろう彼女を、ジェイドのようにわがままで政治科へひっぱるなどできない。
いくらわがままな令嬢を演じるとはいえ、それは違う。それではイリスを不幸にしてしまう。
「冗談ですわ、下僕に政治などわかるはずもありませんし。仕方ありませんわね」
「ほっ」
「それでは行きましょう、お嬢様」
当然、ジェイドは政治科である。
元は魔導師科だったのだが、僕の監視役なのでこちらへ引っ張られてきた。憐れである。
多少仲良くなれたイリスと離ればなれになるのを残念に思いつつ、僕は政治科の教室へと向かった。
この学園の授業形式は二つある。
まず大学のように必修科目と選択科目を自分で選んで学ぶタイプ。
これは政治科や経済科、魔導師科など他にも多くがこのタイプで授業を受けている。
よって転入しても挨拶のようなものは無い。ブリューナクともなれば騒がれるだろうし、ありがたいことだ。
次にクラスごとに分けられて中学・高校のように全員で同じ授業を受けるタイプ。
こちらは騎士科と魔導騎士科など、将来は実践に投入される可能性が高い人達だ。
大学タイプの履修法だと軍の新人がそれぞれ学んでいることが違うという問題が起こる。
加えて平民貴族入り混じったメンバーで行動を共にするというのを経験させておこう、ということでクラス方式になっていた。自由に受けられる授業だと、集まる人間も偏るのだ。この教授(教官)の授業は貴族が多い、とか。
「あら? いませんわね」
探しているのは王子様だ。
顔は絵で知っているから見間違いはしないと思うのだけど。
ちなみにこの絵、写真のように精密なのでこどものらくがきと一緒にしてはいけない。
「おや、これはクリスタさまではありませんか」
「ん?」
きょろきょろする僕へ話しかけてきたのは。
誰だろう、こいつ。どっかで見たような、見てないような?
名前が出てこない。
「これは失礼いたしました。ディアス=アルケニーです。覚えておりませんか?」
「誰ですの?」
「先日お会いしたのですが」
「ジェイド、わかります?」
「お嬢様がイチャモンつけた貴族の片割れですね」
イチャモンて。ジェイド、君、口が悪くなってやしないか?
いいんだけどさ、別に。
それにしても僕がイチャモンつけたというとイリスにからんでいた貴族くらいしか思いつかない。
「あぁ、思い出しましたわ。わたくしの道を塞がなかったほうね」
「あはは。そういう覚え方なんですね」
「それで、なにかしら? まさか、あの時の文句でも言いにきましたの?」
「とんでもない! あのブリューナク宰相の孫娘さまに、木っ端貴族のせがれがそんなこと言えるはずがありませんよ。ぼくはただ、先日の無礼の謝罪と、あと殿下を探していたようですので今日は来ませんよと」
「来ない?」
殿下というのが王子様のことだろう。
聞いてみるとこの王子様、健啖なことで有名なグリエンドの王族にしては珍しいことに病弱で、ちょいちょい授業や学園を休むらしい。その上公務もあるので出会えるのはレアだとか。
「ジェイド、聞いてませんわよ」
「まぁ、それでも全体で見れば来る日の方が多いですから」
「ディアスだったかしら? なぜ殿下が来ないと知っているのかしら」
「簡単なことですよ。昨日父が「明日は殿下とお会いするのだ」ってわざわざ学生寮まで自慢に来ましたので。あ、ちなみに父はしがない男爵です。一応領地もちですが」
なるほど。ということは今日は普通に授業を受けるだけか。
仕方ない、そんな日もあるさ。
「であるからして、現在の主な貿易対象は隣国のベルナンド王国、東の連合国などであり」
一時間目。
教師の話が右から左に流れていく。
「現在の法では奴隷の扱いは所有者の所持品、細かく言うならば馬や牛などに近い区分になり」
教室を移動してニ時間目。
教師の話が右から左に流れていく。
「領主が民から徴収した税の一部は王都、そして王家へと還元され」
教室を移動して三時間目。
教師の話が、うん、もういい、つまらん、退屈だ。
僕はここへ来るまでに最低限の法知識は学んでいた。
それが必要だからで、しろとお爺様に言われたからだ。
いまの授業内容はすでに知っているし、日本で浪人したとはいえ大学受験のための勉強をしていたのだ。正直なところ今の教師たちより基礎知識は上だと思う。
そりゃあ僕と彼ら、どっちが馬鹿かといえば確実に僕だ。
恐らく彼らは僕よりも学習意欲に優れ、明晰で、聡明だ。
けれど知ったことしか学べないのはどこの世界も一緒だ。
そして僕は他の世界の、様々な国の事を知って、学んでいる。
この国と、周辺の国のことしか学べないこの授業に意義が見出せない。
これをあと3年続けろというのか?
無理だ、苦痛だ、ありえない。
前世の記憶がなければ淡々とこなしただろうけど、今の僕には耐え難い。
ならば耐える必要など無い。
前世の僕ならそれでも我慢して授業を受けたかもしれないが、今生の僕は晶ではなくクリスタである。
せめて監視対象の王子様が近くにいればいいのだが、その相手も今日は来ないときた。
「飽きましたわ」
わがまま令嬢クリスタが我慢をするのはただひとつ、善人を不幸にするときだけと決めている。
僕がここで授業を抜け出そうと、困るのは僕だけだ。教師も多少は困るかもしれないが、そこは、その、ごめん。
僕が退屈な授業を我慢して、黙々と聞いていたなんて思われるわけには行かないのだから仕方がない。
「お嬢様、突然どうされ」
「わたくし、こんな退屈な事を学びに学園へ来たのではありません、下僕のところへ遊びに行ってきますわ!」
「お嬢様!?」
僕は駆け出した。
魔導騎士科はいま鍛錬場で実技の授業をしているはずだ。
そこに行けばイリスに会えるだろう。
後ろでジェイドの叫び声と、がやがやとした生徒たちの声が聞こえるが、誰が追って来ようと僕には追いつけないだろう。
この学園の生徒の多くは貴族と、優秀な平民。つまり魔導師だ。
そして魔法を主力にするため、肉体トレーニングはそこそこにしかこなしていない。
一方僕は戦闘訓練こそしていないものの、今生でも黙々と身体は鍛えていたので基礎体力が違う。
『いい、クリスタ。わたしは貴方を助けてあげられない、ダメな母親です。だからね、貴方には自分でがんばってもらうしかないの。ごめんなさい』
『かまいません、とくにこまっていませんし。でもおかあさま、ぼくはなにをがんばればいいのですか?』
『体力づくりよ』
『はぁ』
『人間、最後にものをいうのは体力です。わたしが貴方にあげられなかったものはあまりに多いけれど、体力は貴方自身の手で掴み取れるのよ』
『えと、きんとれすればいいですか?』
『ええ、それなら室内でもできるから。がんばって!』
今生での、幼かった頃の記憶があふれ出す。
お母様は僕と一緒に幽閉されていた。
それは僕のせいで、決してお母様は悪くないのだけど、彼女はいつも哀しそうに、申し訳なさそうに僕を見ていた。
そんなお母様から、僕へのたったひとつの教え。
体力さえあれば、どんな苦難も乗り越えられる。
病弱な春風 晶として死んだ僕は。
健康優良児なクリスタ=ブリューナクとして今を生きていた。
転生して元気になった主人公です。
僕も早く元気になりたいものです。