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ファンタジア

作者: 朝日奈ふみ

 星のきれいな夜でした。夏の終わりの空は、とろんと重くて、かなり涼しくはなってきましたが、けだるい夢でも見ているみたいです。

 暇乞いをするためにモニカの部屋に行くと、彼女は部屋にはいませんでした。こんな時、彼女は大抵、大きな窓のある談話室にいます。彼女はそこでギターを奏でるのが好きなのです。

 いつも女の子たちの笑い声でいっぱいの学生寮は、しんと静まり返っています。王族に仕える魔法使いを養成するための魔法学校も、夏休みになるとほとんどの生徒は自分の田舎に里帰りするのです。

 暗い廊下を歩いていると、微かにギターの音が聞こえてきました。私は足音を立てないように注意して、廊下の一番端にある談話室のドアをそっと開けました。

 次の瞬間、目の中に飛び込んできたのは窓いっぱいに降り注ぐ星明りと、その中でギターを弾くモニカの後ろ姿でした。

 私は目を見張りました。

 暗闇の中でぼうっと光る金髪はそよ風に吹かれてゆらゆらと揺れています。ギターの音色はただやさしく、心地よく流れていきます。

 モニカは私がいることに気が付いていないようでした。私は傍観者で、世界は彼女だけがその全てでした。この景色を、空気もすべて独り占めにして、私はしあわせでした。自分がこの完璧な世界に全く無関係であることで、目の前の景色は一つの絵に、そして一つの物語になるのでした。

 私は、その景色の永遠を願いました。それができないから、いつか、そこから始まる物語を書こうと心に決めました。

 物語の始まりは、いつもこんなふうに、唐突な気まぐれによって生まれるのです。

 その時、モニカがこちらに気が付いて、振り返りました。

「あら」

 ほっそりとした首をかしげて、モニカが言いました。「あなた、いつからそこにいたの」

「ええと、さっきから」

 私は黙ってみていたことが急に恥ずかしくなって、思わず下を向きました。目線の先にはさっき買ったばかりの新しい靴が、鈍い光を放っています。

 私がだまっていると、モニカはまたギターを奏で始めました。二人の間に流れる音楽が、私の緊張やはにかみを、少しずつほどいていきます。

 星明りの中で見るモニカの横顔は、白い百合の花のようでした。

 モニカの横顔に見とれていると、

「あなたのふるさとは、どこにあるんだっけ」

と、モニカがギターを弾きながら言いました。

「海の向こうの、遠い島」

 私は答えました。

「そう……」

 モニカの横顔に、ほんの少し影が宿りました。ギターを奏でる手も止まりました。魔法が消えてしまい、私は少し不安な気持ちになります。どうしたのだろうと思っていると、モニカは下を向いたまま、ぽつりと呟きました。

「ねえ、もう気にしなくていいのよ」

 突然のことだったので、初めは何の事だかわかりませんでした。きょとんとしている私を知ってか知らずか、モニカは続けます。

「ここにいることは何にも恥ずかしいことではないのよ。あなたは胸を張っていていいのよ」

 そこで私は、数日前にモニカに私がここに来た経緯について話した時のことを思い出しました。

「あら、そんなこと」

 わたしは、そのことについてはもう終わった話だと思っていたので、モニカが今更蒸し返してきたのが少し意外でした。

「私も、あなたと同じように遠回りをして、結局ここに来ることになってしまったけれど、後悔はしていないわ。むしろここに来れてよかったと思っているの」

 そんなわかりきったことを繰り返すなんて、今日のモニカは少し変だと、私は思いました。

「私も、ここが好きだし、せっかく来たからには将来王家に仕える魔法使いになろうと思っているわ」

 私は、やや口早にそう言いました。

「そう?」

 モニカは私のほうを向いて、そっと微笑みました。それから、またギターを奏で始めました。

「ねえ、知っていた?」

 ギターを弾きながらモニカが言います。

「ここは王家に仕える魔法使いを育てるための学校だけど、将来王家に仕える道を選ぶ人は全体の半分くらいなのよ」

「それは……知らなかった」

 私がここに来たのは、実は不本意なことでした。この学校についてはほとんど何も知らない状態でここに来たのです。

「私も、将来は王家に仕えようとは思っていないわ。でも、一旦社会に出たら、どこの学校を出たかなんてだれも気にしない。そういうものよ」

 モニカの金色の睫毛が、彼女の頬に長い影を落としているのを、私はじっと見ていました。

「だから、今あなたがここにいることは何も恥ずかしいことではないのだからね」

 なんだか、今日のモニカはお母さんみたいです。

「はい」

 私はまるで子供のように素直に返事をしてしまいました。

「そう、いい子ね」

 モニカは私のほうを向いてにっこりと微笑みました。そして、鈴のようなかわいらしい声で言いました。

「私に前に両手を出してごらん…いや、手の平じゃなくて手の甲を向けてね」

 そっと手を差し出しと、モニカはギターの言を一本一本優しく爪弾きました。

「これは私からのおせんべつ」

 すると、音の一つ一つがきらきらと輝く小さな星屑になって、私の指先はきらきらと輝き始めたのです。

「綺麗……」

 思わず、口からため息が漏れました。「ありがとう、モニカ」

 モニカはにっこりと微笑みました。

「行ってらっしゃい、いい旅になりますように」

 モニカの顔を見ていると、私はなぜか、胸がきゅんと切なくなるのを感じました。急に旅に出るのが億劫になってきたのです。

「なんだか行くのが嫌になってきちゃった」

 私はそっと呟いてみました。女の子が親しい友達によくやるように、後ろから抱き着いてみたり、軽くもたれかかったりするような勇気はないのです。

「ずっとここにいる?」

 そう冗談を言うモニカも、私を抱き寄せたり、頭をなでたりするようなスキンシップをとろうとはしません。そもそも、ただの里帰りなので、私は二週間もすればまたここに帰ってきます。十分に別れを惜しんでから、私は学生寮を出ました。そして、町のはずれにある小さな港から、ふるさとへ向かう船に乗り込みました。

 たった一晩ほどの船旅なので、船べりで別れを惜しむ人の姿はありません。私は一人で甲板に出て、柵にもたれかかりながら、遠くの海を眺めていました。

 長い夏休みも、半分が終わろうとしていました。毎日はただうだるように暑く、過ぎていく一日もほとんどが無為で、代わり映えのしないものでした。何かしなければ、そう思って焦るほどに、体が鉛でも飲んだように重く、動かなくなるのです。

 だから……。

 私は、空に自分の手をかざしました。指先は、満天の星空に劣らず、きらきらと輝いています。

 何か特別なことが、起こりますように。この日常に、何かすてきな変化が起こりますように。この自堕落な毎日から抜け出せますように。

 やがて陸地が見えなくなりました。決して気温が低いわけではないのですが、船は見た目よりもずっと早いスピードで進むので、甲板の上は風がとても強いのです。私はすぐに船内に入りました。動き始めた船のロビーは、初めての船にはしゃぐ子供たちや、お酒を飲んで楽しそうに笑いあう大人たちでいっぱいです。

 私はロビーにいくつかある小さなテーブルの一つを陣取って、宝物の赤いノートを開きました。開いたページの中から小さなお姫さまが現れました。

 私はお姫さまにそっと声をかけます。

「こんばんは、ご機嫌いかが?」

 お姫さまは何も言いません。ただ、低いところをじっと睨みつけています。それは怒っているようでもあり、悲しんでいるようでもあり、またもどかしさに苛立っているようでもありました。彼女の目を見ていると、私は焦燥感に駆られます。書かなければ、お姫さまのすべてを。あの笑顔を、涙を、愛らしい仕草を、すべて、すべて。

 私はノートにペンを走らせました。お姫さまと、彼女のきらきらした世界の輝きを伝えるために。私は書きました。書いて、書いて、書きました。お姫さまの表情の一つ一つを、彼女を取り巻く空気の一粒も逃さないように。けれど、追えば追うほどに、お姫さまは私の手が届かないような遠くへ行ってしまうのです。

「待って、お願いだから……」

 そういって伸ばした手も、むなしく下に落ちてしまいます。彼女はもう半分、自分の意思を持って動いているのです。私の手の中にはいないのです。

 それでも必死に追いかけて、なんとかなんとかそれらしいものを書き上げて、私はペンを置きました。

 私は、そっと深呼吸をしてから、指でノートに丸を描いて、それから小さく叫びました。

「動け」

 赤いノートが、宙に浮かびました。文字で真っ黒になったページが、音を立ててめくれ上がります。目の前にまた、お姫さまが現れました。けれど、そっと目を開いたその姿はどこかうつろでした。

 やがて、お姫さまはくるくると踊り始めました。まるで機械仕掛けの人形のような、面白味のない踊りでした。情景は何も生み出さず、見る人に何の感動も与えませんでした。ただ無生産な時間だけが流れ、すべてが終わった後には何も残りませんでした。

 また失敗です。私は悲しくなって赤いノートを閉じました。

 どうしてうまくいかないのだろう。私にはもう、時間がないのに。

 私はため息をついて、遠くのほうを見やりました。偶然斜め向かいに座っていた人と目が合ってしまい、私は慌てて目をそらしました。


 この世界では、大人になれば誰もが魔法使いになります。魔法を使って誰かの役に立つ仕事をすることで、社会の一員として認められるのです。つまり、建前にせよ、人のために魔法を使うのが大人なのです。それができない人は社会を回す歯車にはなれないのです。

 ただ、ごく一部の人々は自分のために魔法を使います。自分の表現世界を作り出すために魔法を使うのです。彼らは、社会を回す歯車にはなりませんが、社会が回っていくのにはどうしても必要なのです。その魔力は、時に普通の人々の力をはるかに圧倒することさえあります。

 いつまでも自分の理想の世界を追い求めて、社会の一部を自分色に染めて生きていくことができる人々を、人は「ファンタジア」と呼びます。

 私は、ファンタジアになりたかったのです。そもそも、自分は魔法使いになって人の役に立つ仕事はできないのだと、ずっと思い込んでいたのでした。

 人は、一通りの勉強を終えた後、大人になるための場所を自分で選ぶことができます。普通は学校を卒業したら、自分の目的やレベルにあった目的地を定めて、すぐそこへ行くのです。

試験に失敗してしまった私は、人よりも少し遠回りして、自分の行きたいところを目指し続けました。ファンタジアとして自分の世界を広げることのできる場所が、私の本来の目的地でした。けれど、遠回りしたからと言って、自分が目指している場所に行けるという保証はないのです。もう後がないという思いは、私を奮い立たせるよりはむしろ、必要以上に恐怖心を抱かせただけでした。うまくいかない現実に悩み、落ち込み、私の心はぼろぼろでした。

そんな毎日の中で、赤いノートは私にとってたった一つの光でした。そのノートを開いている時だけ、私はつらいことを忘れることができました。

お姫さまは、そんなノートの中の小さな落書きの中から生まれました。初めは、ちょっとしたおとぎ話のつもりだったのですが、いつの間にかお姫さまは私の中で、彼女の意思をもって動き始めたのです。私は自分の空想に夢中になりました。憑りつかれた、と言ってもいいかもしれません。いつしか私は、遠回りという本来の目的をそっちのけにして、お姫さまに命を吹き込む作業に熱中するようになりました。いくらやっても終わりの見えない試験勉強に比べて、手をかければかけるほど、お姫さまには目に見える変化がありました。赤いノートにペンを走らせるほど、お姫さまの輪郭は次第にはっきりとし、その瞳は輝き、手足はしなやかに伸びていくのでした。

私は、彼女のために生きていました。その時は、彼女の存在が私の全てでした。お姫さまと私は、お互いの生きる力を吸いあって、もつれ合って、その境目もいつの間にか曖昧になっていったのでした。

私は、どこか危険な香りのする、蜜のような甘い快感に酔いしれました。

感覚が痺れるよう壊れた頭の中で、ファンタジアになるのだ、これは運命なんだ、と自惚れました。そのうちに季節は過ぎて、私は本来目指していたはずの目的地にすら、たどり着くことができなかったのです。

結果が分かった時、私は自分が予期していたよりずっと冷静でした。それでなくても、時が否応なしに私を押し流していきました。遠回りに失敗したら、私も自分の将来について真面目に考えようと思っていましたから、安定職である王族直属の魔法使いになる学校を、選びました。遠回りを確実に終わらせるために、わざわざ海を越えて、ここまで来なくてはなりませんでした。知り合いもいません、王族に対する忠誠心も、人並にしかありません。こんな私が、ここでうまくやっていけるのだろうか。初めは不安で仕方ありませんでした。

けれど、実際にそこに入学してみると、必ずしも私が懸念していたようなことにはなりませんでした。私と同じように遠回りに失敗してここに来ることになった人は、私が思っていたよりもずっとたくさんいました。そのうちの一人がモニカでした。

また、魔法使いになるための訓練を受けているうちに、私の中で王族に対する忠誠心が自然と芽生えてきたのです。自分も社会を回す歯車になっていいのだ、という思いは、私に今までなかった悦びと安らぎを与えてくれました。

私は、意外にも、海の向こうで心の平和と自分の居場所を見つけたのでした。

私はしあわせでした。穏やかな毎日がそこにありました。そしてその気持は、決して嘘ではないのです。


ああ、また目が合ってしまった。私たちは、お互いにそっと目をそらしました。


そう、私は自由でした。幸福でもありました。大人になるための場所がきちんと定まった今となっては、私が赤いノートを書くことを阻むものは、ひとつもありませんでした。

それなのに、自由になるほど、心の中がしあわせで満たされていくほど、かつて私をあれほどつい動かしていた欲求も、あれほど私の心の声をかき乱したお姫さまも、あの夢の世界のきらめきも、私の中から嘘のように消えてしまったのです。

私は動揺しました。こんなはずじゃない、そう思うほど、頭の中であれほど輝いて見えた世界は、文字にするとその輝きを失っていきました。

「動け」

と、掛ける声も、空しく響くだけです。

 私は、目の前が真っ暗になっていくのを感じました。今まで私を突き動かしていたものが、私の全てだと思っていたものが、実はそれほどのものではなくて、結局は逃げでしかなかったという考えがうっすらと頭に浮かんできました。もし、その衝動を押し込んでやるべきことに集中していれば、もしも、もしも……。

 けれど、赤いノートの中の世界は、そうやってすべてを否定するには輝きと現実味を帯びすぎていました。ほかのファンタジアの世界に触れると、今でもあの時の情熱がよみがえってきて、何もできない私の胸を焦がすのです。

 私には、伝えたいことがありました。こんなにも気持があふれてくるのに、私はそれをうまく伝えることができないのです。こんなにも震えている心を、誰かと分かち合うことができないのです。それが、もどかしいのです。


 ああ……。

 遠くへ見やった視線の先に、またしても彼の視線がありました。視線は一瞬ぶつかり合ってから、ぽとりと地面に落ちました。

 さっきから、どうして目が合うのだろう。今度は目を合わせないようにして、私はそっと彼の方を見ました。

 洗いざらしの髪に、切れ長の目。年は私と同年代でしょうか、顔立ちはなかなかハンサムです。彼の手の中に、私が昔読んだ詩集があったことも、一層彼に対する私の興味を掻き立てるのでした。

 彼も一人でした。そして、私が視線をそらしている時に、彼もまた私を見ていることが、なんとなくわかりました。

 私は、ひとり掛けのソファにもたれかかって、考え事でもしているふりをしながら、彼の観察を始めました。一晩という時間は、眠ってしまえばあっという間ですが、起きていればそれなりに長いのです。私は、非日常な出来事を望んでいました。たまには知らない人と話すのも悪くないと思っていました。ただ、自分から話しかけるほどの勇気も興味もなかったので、私は相手がどう動くかを待とうと思いました。彼のほうも、もう詩集は読んでいないようです。

 やがて、私たちはおずおずと視線を送りあいました。夜は静かに更けていきます。一体いつまでこんなことをしているのだろう。そう思ったとき、彼がつと立ち上がりました。行ってしまうのか、と私は一抹の寂しさを感じました。けれど、彼は私の隣にあったもう一つのひとり掛けのソファに腰を下ろしたのです。

 まさか隣に来るとは思わなかったので、私は驚きました。おもむろに視線をやると、

「どちらからいらしたんですか?」

 と、彼のほうから話しかけてきたのでした。


 そこからは、まるで夢のように時間が過ぎていきました。彼は話をするのも聞くのも上手でした。念願の非日常が訪れたことに、私の胸は高鳴りました。初対面のはずなのに、話の種は尽きることがなく、時が過ぎるのも忘れて、私たちは語り合いました。気が付けば、いつしか夜が明けようとしていました。

「日の出でも見ようか」

 と、彼が言いました。一晩一緒にいて、そういえば、私たちはお互いの名前を知りませんでした。

「甲板は寒いから、下の窓のところで待とうか」

 と、彼は言い、私たちは並んでもうかなり白んだ空を眺めていました。

 あいにくその日は少し空が曇っていて、辺りは既に明るくなっているのに、水平線の向こうから太陽が昇ってくる様子は見えそうにありませんでした。

「見えないね」

 東の空を見つめたまま、彼が言いました。

「そうね」

 と、私は返事をしました。

 それでも、私たちは、並んで日が出るはずの方角を眺めていました。辺りはもうすっかり明るくなっていました。

 その時、私は彼と肩が触れ合っているのを感じました。立った一晩で、彼がそんな打ち解けた態度をとってきたことに、私は驚きました。

 その気になれば、振り払うことだってできたのです。けれど、私はそうしませんでした。

布地越しにほのかな温もりを感じます。男性にこんなことをされるのは、生まれて初めてです。頭の芯からぼうっとしてくるのを感じました。

「君、名前はなんていうの」

 朝日の方角を眺めたまま、彼が低い声で囁きます。

「シクラメン」

 夢うつつで、私は返事をしました。

「そう」

 ため息でもつくように、彼は言いました。「素敵な名前だね」

 そして、窓の上に置いてあった私の手をそっと握ったのでした。

 私は、顔がぼうっと赤らんでいくのを意識しました。相手は、昨日知り合ったばかりの人なのです。

 非日常、という言葉が頭の中に浮かびました。こんなことは、そうあるものではありません。邪険にしないのは、事の顛末を見届けたいからだ、物語を書くためなのだ、と自分に言い聞かせました。今役に立たなくても、経験の引き出しは多いほうがいいに決まっています。とにかく、現状に流されているわけではないのだと、安心できる理由が欲しかったのです。

「まだ見えないね」

 東の空を見たまま、彼は言いました。そして、ほんの少しだけ強く手を握りました。

「そうね」

 本当は、朝日なんてどうでもよかったのです。手を握り合っているだけで、私はしあわせでした。手を握る、彼が強く握り返してくれる。ただ、それだけで時間が過ぎていきました。そこには言い訳も理屈もありませんでした。言葉では伝えられないものがある、という言葉の意味を、私は初めて知りました。長いこと忘れていた本物の人間のぬくもりは、想像していたよりもずっと素敵でした。口の中に甘酸っぱい味が広がっていきます。これが恋人ではないことが、いまさら悔やまれました。私も彼を愛していたら、どれほど幸せだったでしょうか。

 手をつなぐ、たったそれだけのことで私の理性はどこかへ行ってしまったようでした。彼と触れるほどに、もっともっと触れていたいという気持ちを抑えることができなかったのです。もどかしさが、ちりちりと胸を焦がしました。

 朝早く船が港につくまでの間、私たちはずっと手を握り合って、もうすっかり日が昇った東の空を眺めていました。船を下りて、別れる間際まで、私たちはほとんど言葉もなく、ただお互いの手をずっと握り合っていました。

「また君に会いたいよ」

 分かれ道で、彼は私の目を見つめてこう言いました。

「ええ、会いましょう」

 私は彼の目をしっかりと見つめて、こう言いました。けれど、心のどこかでもう一生会うことはないだろうと思っていました。私はこの非日常の経験に十分満足していたので、これ以上は特に求めていなかったのです。

 彼は自分の進む方角に向かって歩き始めました。その後ろ姿を見て、私ははっとして叫びました。

「あなた、名前は?」

 彼は振り返り、そっと微笑して言いました。

「僕の名前は、ウィステルフだよ」

 その時の光景を、私は一生忘れないだろうとその時は思いました。


「あら、シクラメン。元気にしていた?」

 故郷についた次の日、私はまず、一年前に卒業した母校を訪れました。

「はい、おかげさまで毎日とても楽しいです」

「そう、それならよかった」

 先生のフィオーレは、あのころと変わらず、私を優しく受け入れてくれました。

「本当に、毎日が穏やかで、とても楽しいんです。周りの人たちもみんなよくしてくれますし、いろいろありましたけど、私、ここに来られて本当に良かったと思っているんです」

 先生は、微笑しながら私の話に耳を傾けています。

「このまま、普通に頑張れば、きっと王族に仕える魔法使いになれると思うんです。今まではこんな道に進むなんて考えたことはなかったんですけど、それもいいなあって最近思えるようになってきて……」

 私は話しながら不思議な感覚に襲われました。何かが、おかしい。ジグソーパズルのピースがうまくはまらないような、もやもやとした感情が、私の心を覆います。

「……物語を書くことは、できるんです。時間も、気持にも余裕があるから。それなのに、なぜか書けないんです。ノートを開いても何を書いていいのかわからなくなって、書き始めても全然うまくいかなくて……」

 それは、手を伸ばしても、その間をすり抜けてしまうお姫さまを追いかけて走っている感覚にどこか似ていました。

「私、何かに一生懸命になりたいんです。もうこんな無為な毎日を送るのは嫌なんです。でも、本当にどうしていいのかわからないんです」

 自分の言っていることが支離滅裂なのはわかっていました。それでも私は、先生に不安を吐き出さずにはいられなかったのです。

 先生が私の肩にとん、と手を置きました。

「ねえシクラメン、あなたまた夢を追いかけてみたら」

「違う、違うんです先生。私、本当に幸せで、今が大好きで、後悔なんてしていないんです」

 その時、不意に目から涙がこぼれ落ちました。混乱した頭で、私は必至で自分の中の言葉を探しました。

「私がファンタジアになるための学校に行けなかったのは、自分の責任です。だから、そこに行けなかったということは、私はファンタジアとして生きていくことができない運命だったと思ったんです。だから、私は少しでも誰かの役に立てて、きちんとした生活が保障された王族に仕える魔法使いになろうって、そう思って…運命は受け入れようと思って……」

 私の視線は、自然と自分の靴のあたりまで下がっていました。おととい買ったばかりの靴は鈍い落ち着いた光を放っています。

「すてきな靴ね」

 先生が低い声で言いました。「結構いい値段がしたんじゃない?」

 私は、顔を上げることができませんでした。

 それは、私が夏休み中に、毎日ちょっとした人助けをして稼いだお金で買った靴でした。

 私は、お金が欲しかったわけではないのです。欲しいものがあったわけでも、困っている人を助けることが目的でもなかったのです。ただ、目の前にある時間をどう使ってよいのかわからなかったから、お金に変えただけだったのです。人助けは、やることがはっきりしているので、一人でいるよりはずっと有意義な時間を過ごすことができました。それが自分の本当にやりたいことではないということは、初めからわかっていました。

「ねえ、シクラメン」

 先生が言いました。

「私は、あなたが王族附きの魔法使いに向いていないとは思わないわ。そりゃ、ちょっと短所もあるとは思うけど、あなたの言うように、それなりうまくやっていけるとは思うわよ。でも、それはファンタジアになるにしたって同じことだわ。向き不向きなんて、実際にその仕事を始めてから何年か経たないとわからないものだし、そもそも評価というものはすべてが終わった後にするものなんだから」

 私は、涙にぬれた顔をそっと上げました。

「だからこそ、私はあなたに、今を大切にしてほしいの。今、あなたが本当にしたいことは何なの?自分に正直にならないと、きっと一生後悔することになるわよ」

 先生は、やさしく微笑んでいました。

「もう進むべき道は見えているんじゃないかしら」

 景色がぼんやりと歪んで、震えました。

 夢だけ見ていられないから、悩んでいるのです。私には、もう立ち止まったり悩んだりしている暇はないのです。早く自分の進むべき道を決めて、そこに向かって全力で進んでいかなければならないのです。

「決めるのはあなたよ。最終的にあなたがどんな道に進もうと、私はあなたが決めた道を応援するつもりだわ。ただ、一つだけ、言わせて頂戴」

 そういって、先生は私の顔に手を添えて、そっと上を向かせました。

「光が、消えかかっているわよ」

 熱い涙が幾筋も頬を伝いました。

「ねえ、シクラメン」

 先生が言いました。

「もう一度、夢を追いかけてみたら」

 それでも、私は素直に首を縦に振ることができませんでした。


 家に帰ってから、私はウィステルフが船で読んでいた詩集を本棚から引っ張り出して、バルコニーの椅子に座って、読み始めました。けれど、頭の中にはちっとも入ってきません。

 何事にも一生懸命になれないのが辛いから、何かに一生懸命になりたいのです。でもファンタジアになる夢を追いかけ続けることを無邪気に選べるほど、私は子供ではないのです。

 私は、椅子にもたれかかって空を仰ぎました。雲一つない青空が、どこまでも広がっています。

あと四年もすれば、私も大人になる場所を出て社会にでることになります。ファンタジアを本気で目指すなら、私は元から目指していた大人になるための場所に入り直し、一から勉強をし直したいと思っていました。しかし、学校に入りなおすためにはたくさんのお金が必要です。私はそれを自分で払うことはできません。だからと言って、王族に仕える魔法使いになる道が決して楽だというわけでもなく、今のうちからそれなりの覚悟と準備が必要なのです。

そのとき、緑色のリボンが、私のほうに向かって、ゆらゆらと飛んでくるのが見えました。

 私ははっしと手を伸ばして、そのリボンを手に取りました。差出人の名前はウィステルフになっていました。

「どうしても君に会いたい。これから少し、散歩にでも行きませんか」

 私は、今まで悩んでいた心が嘘のように軽くなり、胸がときめくのを感じました。私の非日常はまだ続いているようです。

「ええ、会いましょう、会いましょう」

 私もリボンを送り返そうとしたその時、私は彼が通りの下からこちらを見上げていることに気が付いたのでした。

 昨日の少しばかりやつれた旅装とは違った、きちんとした服を着ています。髪は洗いざらしのままではなく、きちんとブラシがかけられているようです。

 かちり、と小さな音を立てて視線が合いました。彼の青藤色の目に、私は思わず引き込まれてしまいました。

 ああ、あと少し。あと少し何かをされたら、私は恋に落ちてしまう。そんな予感がしました。

「君に送ったリボンの行く道をたどったんだ」

 夏の終わりの昼下がり、並んで小道を歩きながら彼は言いました。

「あら、そうなの」

「昼間は何をしていたの?」

 と、彼がたずねます。

「先生に会っていたわ」

「そうだった。確か船の中でも明日はそういう予定だと言っていたね」

 私はただ恥ずかしくて、下ばかり向いていました。

 それから彼は二つ三つ世間話のようなものをしていましたが、私は完全に舞い上がってしまい、うわの空でした。船の上ではそこまで思っていなかったのに、今や彼は、私を非日常の世界へといざなう白馬の王子でした。私は彼の全てに、ものすごい力で惹き寄せられていくのを感じました。

「シクラメン?」

 名前を呼ばれて、私ははっと我に返ります。

「どうしたの、ぼんやりとして」

「ええと、あの……」

 こんなに言葉が出てこないということがあるのでしょうか。名前を付けることができないさまざまな感情で、私は胸がいっぱいになって話すことができないのです。

 彼がそっと笑います。

「緊張しているの?」

 何も言えない私は、黙って頭を縦に何度も振りました。

「可愛いね」

 私はもう、彼の顔を見ていられませんでした。

 ああ、この気持が全部言葉になればいいのに。この気持が、ちゃんと彼に伝わればいいのに。

 いつの間にか、彼との距離は近くなっていました。腕と腕が重なり合って、彼は当然のように私の手を取りました。

「無理に喋らなくてもいいよ」

 彼が耳元でそっと囁きます。「こうしているだけで、十分楽しいから」

 けれど、その右手は小刻みに震えているのでした。

 緊張しているのは、お互いに同じなのだと思うと、私の心はふっと軽くなりました。

「あのね……」

 私は今日学校であったこと、そして今不安に思っている気持を、かいつまんで話しました。

 彼は真面目な顔をして話を聞いてくれました。そして、ぽつりぽつりと語り始めました。

「僕はね、ここに来るまで本当にやりたいことが見つけられなかったんだ。ただ、少しでも広い世界が見られたら、と思っていてさ、遠回りをしてでもここで大人になるまでの時間を過ごしたかったんだ。けれど、ここに来て、色々な人に出会って、色々な経験をするうちに、初めて本当にやりたいことを見つけたんだ」

 彼は、まっすぐ前を見据えたまま続けます。

「昔は、ただ漠然といつかそうなれたらいいな、というくらいの夢でしかなかったけれど、やっぱり僕はその夢を本気で追いかけてみたいと思ったし、その覚悟もしたんだ」

 彼は、そこで少し言葉を切りました。

「……だから、行きたくてもここに来ることができなかった君に、こんなことを言うのは少し無神経な気もするけれど、僕はここをやめて、身体・生命分野の魔法学校に入りなおすことにしたよ」

 私と、同じだ。胸の中を熱い感情が駆け巡りました。ところが、彼の言葉は私が考えていたこととは全く逆でした。

「でも、君の場合はさ、すべてを捨ててその夢を追うってわけにもいかないよね。君の夢は、一種の博打みたいなものでもあるだろう。それって、王族附きの魔法使いになれる学校を辞めてまで目指す価値があるの?それに君に本当に熱意があるのなら、今の学校に行っていてもファンタジアになれないわけではないだろう」

「わかっているわよ」

 私は思わず、握る手に力を込めました。

 失望はしません。悲しくもありません。これが普通の反応でしょう。むしろここで彼が背中を押してくれたときのほうが、動転したような気もします。

「ねえ、シクラメン」

 彼が不意に歩みを止めました。

「ファンタジアを目指して、大人になるための時間が終わったら、それからどうやって生きていくの」

 その時の彼の目を、声を、すべてを、私はきっと、一生忘れることがないと思います。

私たちは、まだ私がふるさとにいるうちにもう一度会おうという約束をして、別れました。

散歩から帰ってきて、私は赤いノートを開きました。

 一番後ろのページをめくって、その真ん中に指で円を描きます。

「……動け」

 再び、ただ情景が上滑りしていくだけの無意味な時間が流れました。

 もしかして、もうこれが限界なのではないか。冷静な頭で私は考えました。やらなければならないことは他にもたくさんあるのです。私には、もう立ち止まっている暇なんてないのです。

 私は悩みました。もともとは将来の安定を求めて選んだ場所を、私は蹴ろうとしている。一度あきらめた夢に、もう一度近づくために、しなくてもいい苦労をしようとしている。ずっと欲しかったけれど、こんな形で手に入れることができなかった平和で穏やかな日常を、自分の手で壊そうとしている。私の夢に、それほどの代償を支払う価値はあるのだろうか。そして、私がこれから作り出そうとしている世界は、これから社会を回していく人たちの役に立つことができるのだろうか。

 不安な気持を振り切るように、私は赤いノートにペンを走らせます。しかし、結果はいつもと同じでした。

 ああ、違う。私が伝えたいのはこんな世界じゃない。

 あの時私が見ていた世界は本当に狭かったけれど、その中で私が作り出した世界は、これまでにないくらい鮮やかに輝いていました。空想の中にある一つ一つに手を触れることができそうなくらい、現実味を帯びていました。まだ人生なんて何もわからないけれど、失敗だらけの人生だったけれど、どうしても私は、自分の世界を通して伝えたいことがあったのです。この世界は、思っているよりもきらきらなんかしていないし、理不尽なことは巷にごろごろと転がっているけれど、だからといって悲観するほどひどいところではないということ。そして、自分がしてきた遠回りが、決して無駄なんかではなかったということ。

 私は、自分が作り出した世界に自信を持っていました。しかし、自信だけが空回りしていました。今の私は、人のためになることも、人を自分の世界に惹きこむこともできませんでした。私は、所詮まだ子供でした。


 私の切実な悩みは、翌日オージェンによってばっさりと切り捨てられました。

「そうやって思い通りにならないのが人生ですからね」

 煙草に火をつけながら、オージェンは家の壁にもたれかかります。やがて辺り一面に煙草特有のもわっとした臭気が漂いました。

「まあ、あなたにはまだ時間はたっぷりとあるわけですし、そんなに焦る必要はないと思うのですが」

「そういうわけにはいかないですよ」

 私はポットから自分で紅茶を注いで、一口すすりました。

 オージェンは、私の又従兄です。かなり遠い親戚なので、子供のころからお互いに面識があったわけではありません。ただ、一年ほど前から、私が行きたかったファンタジアになるための場所に通い始めたため、試験や勉強などの相談に乗ってもらっていたのです。

 一応身内であり、年もほとんど変わらないにもかかわらず、オージェンと話すときはいつも敬語を使っていました。彼には、敬意を払うのに値するような知性と品性がありました。

「まあ、四年も経てばあなたもそこの学校の空気に染まって、そんなことを考えたりしなくなるでしょうけど」

「さあ、どうなんでしょう」

 学校とそこで出会った人に好意を抱きながら、それでも、染まるまいと抵抗してしまうのは、この穏やかでぬるま湯のような現状にどこか満足していないからだ、ということに私はやっと気が付いたのでした。

 オージェンは、彼にとってはいつものことですが、にこりともしないで私のほうを見つめて言いました。

「要は、確率論ですからね。ここの人間にも精神的に幼い人はたくさんいますよ。ただ、あなたのところであなたが合いたいと思っている人に会うのはかなり難しいかもしれないけれど、ここなら出会える確率が少しくらい高くはなるでしょうね」

「早いうちに決めます」

「でも、地方国公立の一般就職事情は結構ヒサンだと聞きますけどね」

 私は、軽く血の気が引くのを感じました。世間一般の常識として、私の通っている学校から普通の魔法使いになることは少し難しいのです。モニカの言葉をそのまま信じ込んでいた私は、そのことがすっかり頭から抜け落ちていたのでした。

 このままじゃいけないと、私は本気で思い始めました。

「そういえば」

 オージェンが言いました。「この前言っていた物語はできたのですか」

「まだ、ですけど」

 私が答えると、オージェンはふうん、といったきり、もうこの話題にはさして興味はないようでした。それにしても、とオージェンが続けます。

「あなたはこの期に及んでまだ私に頼るのですか。早く向こうで信頼できる人を見つけなさいと行く前に何度も言ったでしょう」

「できないからこうしてここに来ているんですよ」

 私のこの返事に、オージェンは少しわざとらしい溜息をついて言いました。

「大人になるための場所に行って半年もたつのに、まだ恋人ができないのですか。全く半年間何をやっていたのですか」

 こんなことを言うくせに、オージェンに恋人はいないのです。私はこの又従兄が、腹が立つというよりは、小憎らしくなりましたので、「いい感じの人はいるんですけどねえ」と軽くウィステルフの存在を匂わせました。始めのうち、オージェンは興味がないようでしたが、あなたと同じ学校の同学年だとか、あなたよりも年上なのだとかいう情報を小出しにしていると、流石に気になり始めたようです。

「船の中で出会ったんですよ」

と私はウィステルフとの出会った話を事細かに話しました。オージェンは話を最後まで聞いてから、「何ともすてきなアバンチュールがあったようですね」と皮肉っぽく言いました。

「まだ終わったわけじゃないですよ」

 私が反論しても、オージェンは相手にしてくれません。

「明らかに怪しいじゃないですか」

「そんなことないですよ」

 オージェンは、呆れて私の顔を覗き込みました。

「あのね、男はあなたが思っている数百倍はバカなの。簡単に信用するものじゃないですよ」

「大丈夫ですよ、自分のことくらい自分で守れますから。それにまだ理性は失っていませんし」

「いつでも自分を制御できると思うなよ」

 冷たい声でオージェンは言いました。

「できます。私だってそこまでバカじゃないですよ」

 オージェンが少し黙ったので、二人の間にしばし沈黙が流れました。

 私は、ウィステルフのことを信じていました。確かに彼は女性の扱いに慣れているような節がありましたが、彼の言葉と右手の温もりが、嘘だとは思えなかったのです。

「くれぐれも、狼には気を付けるんだよ」

 オージェンがぽつりと呟きました。

「お願いだから、綺麗な思い出のままで終わらせておきなさい」

 そんなに心配しなくても大丈夫なのに、と私は思いました。


 しかし、オージェンの言葉が正しかったとわかるまでにそんなに時間はかかりませんでした。

 その直前まで、私はしあわせでした。会うたびに私たちは親密になり、私はウィステルフに徐々に心を開いていきました。話した内容はどれも他愛のないことで、過ぎてしまえば思い出せない程度のものでしたが、私はその状況を楽しみ、ずっと笑っていたような気がします。

 月が美しい夜でした。私たちは誰もいない湖畔を、並んで歩いていました。

「もうすぐ行ってしまうの、シクラメン」

 ウィステルフが言いました。それは、私が元の場所に戻る二日ほど前のことでした。

「ええ、そうよ」

 私は心に一抹の寂しさを抱きながら、そう言いました。

「寂しくなるな」

 と、ウィステルフが言いました。

 私は、そろそろ愛の告白をされてもいい頃じゃないかと少し期待をしていました。私たちはとても親密で、傍目から見ても恋人と変わりありませんでしたが、私はまだ彼に交際を申し込まれたわけではなかったのです。

「リボンを、送るわ」

 私は言いました。「私のこと、忘れないでね」

 私たちは、立ち止まり、お互いの目を見つめあいました。彼はすぐ、肩に手をかけて、そっと抱き寄せました。幸せは、絶頂に達しました。私は腕の中にいる安心感と温もりの感覚を少しでも覚えておこうと、全身の感覚を緊張させながらも、体の芯から溶けていくような快感に身を任せずにはいられませんでした。私は、このしあわせの永遠を願いました。このまま、何もかも忘れて消えてしまいたいとさえ、思いました。それでも、私は経験則からそんなことが長く続くわけがないとわかっていたのでしょうか。

 思わず閉じていた目をそっと開いたとき、私は彼の肩越しに、水面に映る狼の姿を見たのです。

 食べられてしまう……。そして気が付いたのです、それが、彼が私に近付いた、一番の理由だ、と。

 私の体が硬くなったのに気付いたらしく、私を抱きしめる腕の力が少し弱くなりました。その瞬間、私は獣の胸に手を当てて、サッと距離をとりました。見上げた彼の顔は人間の顔でした。しかし、水面に映る姿は紛れもなく狼でした。

 私は茫然と彼を見つめました。鈍器でガツンと殴られたように頭がくらくらして、うまく考えることができません。

「さよなら」

 いつの間にか、私はそう呟いていました。そして、踵を返すとその場を去りました。彼は何か言いかけたようですが、私は後ろを振り返ることなく走って家に帰りました。彼は追いかけてきませんでした。

 嘘だ、嘘だ、嘘だ。心臓が早鐘を鳴らします。その一方で、それ見ろ、それ見ろ、それ見ろ、という別の声がこだまします。もうわけがわかりません。私はただ、走るしかありませんでした。

 私は、自分が思っていたより傷つきはしませんでした。ただ、喪失感だけがそこにありました。それでも私は、まだ彼に少しだけ期待していたのです。私は、バルコニーで彼からのリボンが来るのを待ちました。ただ、ひたすらに待ち続けました。けれど、あの緑色のリボンが空から飛んでくることはもうありませんでした。

 日はあっという間に過ぎていき、私は元の場所に帰るために船に乗り込みました。また一人で甲板に上り、海の上から夜の空を眺めました。満月ではありませんでしたが、月の明るい夜でした。月明かりに手をかざして、私は夢のようなあの日のことを、ぼんやりと思い出していました。出発するときにモニカがかけてくれた指先の魔法はいつの間にか消えかけていました。私は、夢の時間が終わったことを意識して、胸が切なくなりました。

 ああ、いつまでこのままではいけない。変わろう。いくらか気怠さが混じっていましたが、私は自分の気持に区切りをつけて、甲板を去ろうと思い、もたれかかっていた手すりからそっと手を放しました。

 その時です。闇を切り裂くように、空色のリボンが一本、風に吹かれてひらひらとこちらに向かって飛んでくるではありませんか。

 私は、手を伸ばしてそのリボンを手に取りました。差出人は、オージェンになっていました。オージェンからリボンが届くのは初めてのことでした。

「ファンタジアになれよ、僕は君の作った世界が見たい」

 私は、思わず唇を噛みました。そうでもしないと、目から涙が溢れてしまいそうで、怖かったのです。

 運命は、受け入れるものだとずっと思っていました。すべては因果応報で、神様が自分を何か大きな力で動かしていると。けれど、今進むことが運命なら、私はこの運命に抗いたい。そんな気持が、初めて私の中に芽生えたのです。

ああ、いつかファンタジアになろう。夢の時間は終わったのだ。きっと私は歩き出すことができる。いつか、世界の一部を自分の色に染めるんだ。やってやる、絶対に。月夜の甲板で、私は右手に空色のリボンを固く握りしめました。

           

(終)


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