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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

うたかたに消える

作者: 白藤宵霞

 父は、珍しいものが好きだった。その収集品は、古今東西、国内を問わず、遠い海の向こうの国にまで及んだ。

 中でも、その日、父が新しく手に入れた珍品に少年は目を奪われた。

 薄暗い蔵の中、水を張った大きな盥に腰を下ろすのは、十四、五歳ほどの少女。しかし、その下半身は淡い紅色の鱗で覆われ、両足の代わりに魚の尾ひれを備えていた。

 それは、幼い人魚の娘であった。

「どうだ、美しいだろう?」

 西の商人から買い取ったという少女を、父は自慢げに見せた。はい、と、少年は感嘆に惚けた顔で頷く。

 日に焼けることを知らない白皙の肌、紅を刷いたような赤く小さな唇。剥き出しの肩は、女らしい曲線を描き、未発達な胸の膨らみは豊かな黒髪で隠されている。

 彼女は恥じらうこともなく、少年を不思議そうに見つめていた。その青みを帯びた双眸は、父が集めたどんな宝玉よりも美しかった。



 その日から、少年は蔵に通いつめるようになった。最初は世にも美しい少女を眺めるだけの日々だったが、やがて彼は人魚に物語を聞かせてやるようになった。

 暗く湿った蔵の中、狭い盥の中でただじっと座っている人魚の娘が、子供ながらに不憫に思えたのだ。彼は人魚に「珊瑚」と名付け、この国の昔話を語り聞かせた。

 父は、そんな少年を咎めなかった。それどころか、人の言葉を理解する人魚はさらに珍しいだろうと、上機嫌に新しい書物を与えてくれさえした。

 少年は誰にも憚ることなく、毎日、毎日、小さな燭台と一冊の本を抱えて人魚の娘に会いに行った。


 少年の読み聞かせる物語を、珊瑚も楽しみにしていた。重たい鉄製の扉が開かれ、外の仄明るさと共に彼が姿を現すと、その尾ひれでぴちゃぴちゃと水面を叩いて喜びを告げる。やがて、彼女は拙いながらも人間の言葉を話すようになった。

 言葉を覚え始めた珊瑚は、近頃では、少年を真似て、生まれ故郷に伝わる物語を聞かせてくれる。その日、彼女が語ったのは、人間の王子に恋をした幼い人魚姫の物語であった。

 十五の誕生日を迎えた人魚姫は、生まれて初めて昇った海の上で美しい王子の姿を目にする。しかし、その夜は突然の嵐に見回れ、彼らが乗っていた船は難破してしまった。人魚姫は荒波の間を器用に泳ぎながら、夢中で王子を助けると、彼が目覚める前に海底へと帰った。

 しかし、人魚姫は王子のことが忘れられず、海の魔女に頼んで、自身の声を代償に人間の姿となって浜辺に打ち上げられた。彼女を見つけた王子は、声を失った美しい少女に同情し、自らの王宮に彼女を引き取った。

 人魚姫は、王子の傍にいられることを喜んだ。けれど、言葉を発することの出来ない人魚姫には、あの嵐の夜、自分が海に投げ出された王子を助けたことも、そのとき彼に恋心を抱いたことも、伝えることは叶わなかった。そのうちに、彼が他の人間の娘と結婚することを告げられた。

 姉姫たちは、哀しみに暮れる人魚姫に元の姿に戻る方法を教えた。彼女は迷った――元の姿に戻るには、愛する王子を殺さねばならなかった。

 けれど、彼女は彼の心臓に刃を突き立てることが出来なかった。そして、己の愚かしさを呪いながら、自ら海に身を投げた。

「……人魚は、それからどうなった?」

 少年は結末を求めた。叶うならば、幸せな結末を。

 しかし、少女はふるふると首を真横に振った。

「あわとなって、きえてしまったよ」

 そう言って、人魚の娘は静かに瞳を伏せた。



 今日はどの物語を読み聞かせてあげようかと、少年は書庫でひとり頭を悩ませていた。

 そのとき、無造作に置かれた冊子の束に、ひとつだけ異様に古臭い書物があることに彼は気がついた。夥しい虫食いのあとに、妙な不安が胸を過る。恐る恐る手を伸ばし、慎重に紙を捲った。そこには、恐ろしい形相――上半身は女の裸身、下半身は鱗で覆われた魚の姿――をした、人魚の絵が墨一色で描かれていた。

 海辺に打ち上げられた人魚の女の周りには、銛や網を持った漁師と思われる男たち。彼らは人魚を捕らえ、魚のように捌いて家へと持ち帰った。

 しかし、漁師の娘は、父親が捕えてきたものが人魚だとは知らぬまま、その肉を口にしてしまう。

「人魚の肉を食べた、その娘は……――」

 震える指と震える声、震える視線で物語を追いかける。

 そのとき、少女の甲高い悲鳴が耳を劈いた。

「っ、珊瑚⁉」

 手にしていた書物を投げ捨て、少年は外へと飛び出した。狩衣の袖を翻し、丁寧に結い上げた髪が乱れるのも構わず、一目散に蔵へと走る。

 普段、頑丈な錠前を施されているはずの扉は、僅かに開いていた。

「珊瑚! 一体、どうし――っ!?」

 床に置かれた硝子細工の灯籠が、薄暗い蔵の中を暴き出す。その異様な光景に彼は息を呑んだ。

「父上、何を……」

 少女の前には、太刀を握りしめた父の姿があった。

 その刀身は、彼女の胸から滴り落ちる鮮血に濡れていた。

「良いところに来た。お前、この娘を押さえておけ……先程から、暴れられて敵わん」

 振り向かれた双眸は、血走っていた。我知らず、少年は後退る。

「お前にも分けてやろう! この娘の肉を喰らえば、永遠の生命が得られるぞ!!」

 人魚の肉を食べれば、不老不死となる――父は、人魚のことについて調べるうちに、あの書物を見つけたのだろう。

 東洋では、人魚の肉を食べ、不老不死となった娘の伝承が今も語り継がれていた。

「いゃ……いたいの、いや……」

 長い髪を鷲掴みにされ、珊瑚は拙い声でぽろぽろと泣いた。青から零れた涙は真珠のように、まあるい頬を滑り落ちていく。

「何をグズグズしている! 早くしろ、親の言うことが聞けないのか!?」

 苛立たしげに、父は地団駄を踏む。珊瑚が悲痛な叫びを零した。

「たす、けて……」

 涙で掠れた声が、救いを求める。

 硝子玉のような双眸が、少年へと向けられ、そして。

「――たすけて、ゆきしろ」

 ぷつり、と理性の糸が千切れる音がした。

「ギャアアアアアアァッ!!」

 少年は灯籠を掴むと、迷わず父親へと投げつけた。

 油を飛び散らせ、それは男の右目に命中する。断末魔を上げながら、父親だったものは炎の塊となって床に転がった。

「珊瑚っ!」

 その隙に、少年は人魚を奪い返した。

「ゆきしろ、ゆきしろ……っ」

 少女は名を繰り返し、その襟元に縋りついた。震える身体を雪白は強く抱き締める。

「この、親不孝ものがああああぁ――っ!!」

「っ、ゆきしろ!」

 だが、火だるまになった父は、キリキリ舞を舞いながら少年の背を切りつけた。そして、今度こそ炎に呑まれ、事切れた。

(……逃げなくては)

 燃える屍体を前に、彼は思った。

 掠れそうになる意識を叱咤し、少女を抱きかかえたまま立ち上がる。

(逃げなくては……珊瑚を、奪われる前に)

 見えない力に引かれるように、少年は岬を目指した。

 海を、臨む場所へと。



 燃え盛る蔵を背に、少年は力の限り進み続けた。

 止まらない血は柔らかな若草を穢し、点々と足跡を残す。ふたりを捕らえる、足枷のように。

「アレは、なぁに……?」

 どうにか岬へ辿り着いた頃、消えそうな声で珊瑚が尋ねた。

 その視線の先を辿れば、断崖絶壁を覗き込むようにして咲く、一本の大木が目に入った。

「あぁ……あれは、桜だ」

 掠れる声で、雪白は答えた。さくら、と、少女が彼の言葉を繰り返した。

 鱗に似た淡紅色の花びらが、光の飛沫を浴びてきらきらと煌めく。

「さくら、きれい」

 少女は、少年の腕の中で歓声を上げた。白い指先が、花びらを掴もうと宙を彷徨う。

「珊瑚」

 彼が名を呼ぶと、少女はきょとんと首を傾げる。その幼げな眼差しは既に焦点がゆらゆらと揺れていた。

「珊瑚、海に帰ろう」

 今、彼女を殺し、その肉を喰らえば、もしかすると生き延びることが出来るのかもしれない。甘い誘惑が少年に囁く。

「俺と一緒に、泡となって消えよう」

 けれど、少年が惹かれたのは永遠の生命ではなかった。死にゆく少女との終焉こそを、彼は望んだ。

 珊瑚が小さく頷くと、雪白は血にまみれた狩衣から飾り紐を引き抜いた。茜色のそれを、ふたりの手首に結びつけて彼は満足そうに微笑む。

「……これで、ずっと一緒だ」

「うん、いっしょ」

 その言葉に、少女もまた、嬉しそうに笑った。彼の心臓へ甘く頬ずりを返す。

 雪白は堪らず、彼女を再び抱きしめた。そしてそのまま、迷うことなく海へと飛び込んだ。



 冷たい海水が肌を焼き、傷を抉り、少年に苦痛を強いる。けれど、その唇に少女がそっと口づければ、痛みは忽ち甘美へと姿を変えた。

 その甘さに、雪白はうっとりと酔い痴れる。そして、彼は遠い異国に伝わる人魚の哀しい結末を想った。


(人魚姫も、王子と共に泡となって消えてしまえば良かったのに……――)


 互いの呼吸が、泡沫(うたかた)となって昇っていく。

 その光景を最後に、少年の意識は深い海の底へと消えた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 可愛い恋愛。そして悲しい決断。けれど彼らにとっては決して不幸ではない。と言ってしまっていいものか悩まされますが、作品じたいは整っていて儚く美しいお話でした。片言で人語を話す珊瑚が可愛らしか…
2016/06/30 19:08 退会済み
管理
[一言] 素晴らしいですね。 私は昔から、人魚姫は心中エンドで終わるべきだと思っていたのですよ。
2015/11/11 00:00 退会済み
管理
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