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20.調理室で

「手伝いは今日で終わりにしますね」

 調理器具の片付けが終わり、手を拭いているところで切り出した。先輩たちには先に部室に戻ってもらっていて、調理室には久保部長しか残っていない。

 久保部長は驚いたように振り返った。

「なんで…まだ廃部までは時間があるじゃない」

「あなたが僕を殴ったからですよ」

 目を逸らさなかった。久保部長の瞳が揺れたのが見えた。

 確信した。あのとき、背後から殴ったのは久保部長だ。

「何を言ってるの?」

「香りがしたんですよ。僕が用意した茶葉の香りが。あの茶葉は特製で、あのときあの匂いを纏えたのは、あなたしかいないんです」

 自分が作ったからこそ、間違いようがなかった。あの香りは、僕しか作れない。

「そんなこと…」

「認めてください。僕しかいないこの場で。今ならなかったことにできますから!」

 先輩たちに言う前に、認めてほしかった。今なら、まだ許せる。

 それを信じたのか、諦めただけなのか、久保部長は一度目を伏せてから視線を合わせた。

「だから伊集院くんたちを先に帰らせたのね…。そう、あなたを渡り廊下で殴ったのは私よ」

「殴っただけ、ですよね。薬を嗅がせてないし、こうなることも知らなかった」

 右手を掲げると、久保部長は目を見開いて頷いた。

「そう! 靴箱に『須賀由宇を殴って意識を失わせろ』って書いたメモがあって」

「それを実行したのは何故ですか?」

 紙切れ一枚で、実行できた理由。なんとなくわかる。それは何度も聞いたことのあるもののはずだ。

「妬ましかった。何もせずに万屋に入れたあなたが。伊集院くんの近くにいれるあなたが。だから、あのときメモを見て、チャンスだって思った」

 久保部長は下唇を噛み、握り締めた布巾から滴が落ちた。

 行き場のない悪意は誘惑に負け、悪魔の囁きに頷いてしまった。

一歩間違えると、とんでもない結果になっていた。気絶させるくらいの衝撃を調整するなんて、簡単にできるはずがなかった。今回はたまたま上手くいっただけだ。最悪の結果は、いつでも用意されている。

「僕が死んでもいいって思いましたか?」

「それはない! 嫌がらせをしたかっただけよ。頭を殴っておいて言う台詞じゃないけど」

 殺意がなかっただけ良かった。本当に殴るだけだった。

その後に何があるかを知らずに。

「あなたがやったということが先輩たちにバレたらって思いませんでしたか?」

「あのときは思わなかった…やった後になんでこんなことをしてしまったんだろうって思ったけど」

 後悔しても、やったことをなかったことにはできない。それを非難されても、正当化する理由なんてなかった。先輩たちを理由にしても、その結果を先輩は望んでいない。その結果を、許さない。

 言ったことはちゃんと守る。久保部長は正直に話してくれたから、殴ったことはなかったことにする。

「殴ったことはもういいです。先輩にも言いません。僕が許せないのはメモを書いた人物、黒幕ですから」

 布巾をパンッと広げ、手摺りに掛けた。

 もう話は終わり。料理部の助っ人も終わり。もう、関わることはない。

「では、失礼します」

 結局、最後まで久保部長には笑顔が向けられなかった。久保部長の本当の言葉が聞けなかった。背景には聖さんへの恋心が見えていたけど。

 一礼してから背を向けた。

「ごめんなさい…ありがとう」

 振り返らなかった。ただ、料理に対する気持ちだけは認めようと思った。


「そういうことだったんだね」

 横からかかった声に、叫びそうになった。なんとか口を手で押さえて声を呑み込んだ。

 タイミングが良すぎる。今ここで声を出すと、久保部長に気付かれる。

 壁に凭れている聖さんに目で合図し、調理室から離れた。

「聖さん…」

「大丈夫だよ。久保さんは許すから。由宇がそう決めたなら、何も言わない」

 大人の笑みに、全部知られているように感じた。

 聖さんはどこまで知っているのか。そして、どこまで先を読んでいるのか。

 笑顔からは何も読み取れなかった。

「久保さんの気持ちには気付いていたよ。でも、それは恋じゃない。『恋したい』という願望だけだったんだよ」

 久保部長の聖さんに対する視線や言葉、仕草は恋をしているように見えた。でも、それを聖さんは『願望』だと言った。

 わかる気がした。皆の『理想』の聖さんに『恋をしたい』。それは自分の『理想』になる。久保部長は自分自身『恋をしている』気持ちだったのかもしれないけど、それはただの『願望』で偽物だった。

 気付かないのが幸せなのか、知らないのは愚かなのか。

「そういうのは多いからね。放っておいた。その結果がこうなったけど」

 聖さんの視線が右手に向いた。固定された右手の包袋は白く。

 目に痛かった。

「ごめん。この結果は僕のせいだ」

「謝らないでください。油断していた僕も悪いんです。それに、僕は万屋の部員ですよね?文化祭で優勝するんですよね?」

「…そうだよ。このままでは終わらせない」

聖さんの言葉は、万屋の目標になり指針となる。

 久保部長を除いた二人の犯人。佐川は確定しているため、実行犯はあと一人。もう予想はついている。

 残るのは、久保部長にメモを渡し、佐川たちを仕向けた黒幕だけだ。

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