16.倉庫から出て
今までのことを思い出していると、笑みが漏れた。平凡に過ごすと思っていた高校生活は初日から波乱を含んでいた。中学はそこそこ上手くやっていっていたから、高校はその延長だと思っていた。容姿の整った人から好かれるということはあったけど、ここまでの影響はなかった。どちらかといえば、綺麗な友達から同情されていると周りからは思われていたのかもしれない。
今回はそれをも上回る状況だったということだ。
こんな異常な状態で、一つの曲が思い浮かんだ。こんな状況だからこそ思い浮かんだのかもしれない。それは文化祭にピッタリの曲だった。二人で歌っているものだけど、一人で歌っても違和感はない。もし自分か聖さんのどちらかがいなくても大丈夫だ。
つまり、また僕が狙われて歌えなくなっても部に影響はない。
そう考えたとき、目の前の扉が開いた。
「由宇!」
聖さんは驚愕の表情で駆け寄ってきた。後ろには透先輩と学人先輩もいる。
聖さんが肩を掴んだとき、右手に痛みが走って声が出た。
「痛っ…」
「由宇!?」
「聖、俺にまかせろ」
聖さんは後ろに下がり、学人先輩が前に立った。僕の頭を自分の肩に当て、背後を見た。後ろ手に縛られているのがわかったようだ。
「右手が腫れているな…透、カッターナイフを」
透先輩はすかさずカッターナイフを学人先輩に手渡した。何で縛られているかわからないけど、カッターで切れるもののようだ。学人先輩はゆっくりと切っていくが、その微かな振動が骨に響いた。しかし、声は漏らさなかった。そんなことで心配させたくはない。
気を紛らわせるため、話しかけた。
「何故ここがわかったんですか? それもこんなに早く」
「部室に来なかったから探していたんだよ。七時になって由宇の家に電話したら、まだ帰ってないって返事があって。ああ、部活で遅くなるっていっておいたからね。で、それから何かあったと思って、こういう人がいない場所を探していたんだよ」
聖さんは安心させるように穏やかに言った。家族は心配していないようで良かった。聖さんなら上手く言ってくれたはずだ。
学人先輩は上手く切ったようで、手は自由になった。縛っていたのは細いビニール紐だった。手首に内出血の痕がある。改めて見てみると、右手は変色して腫れていた。思っていたよりも酷いようだ。
冷静に自分の手を見た後、先輩たちの方へ向いた。聖さんは学人先輩と入れ替わって僕の前に膝を付いて目線を同じにしている。学人先輩は聖さんの後ろに立って様子を見ているし、透先輩は怒っているようだった。
聖さんの痛そうな表情が、右手よりも痛かった。
「大丈夫ですよ。折れているとは思いますけど、こういう痛みは結構平気なんです。利き手も左手ですし」
「でも…」
「聖さん、一つ訊いてもいいですか?」
右手のことなんてどうでも良かった。折れてしまったものは仕方ない。今大事なのは、確かめることだ。
聖さんの頷きに、息を吸って呑み込んだ。あのとき言えなかった言葉を、今。
「あなたを信じてもいいですか?」
「…信じてほしいよ? 僕は部員の味方だからね。身内は裏切らない」
一語一語を大切に、はっきりと言った聖さんの笑顔に、気が抜けた。何を心配していたのだろう。あの桜の日から、この人は嘘を吐いたことなんてなかったのに。同等の位置で見ていてくれたのに。
迷いがなくなった今、人を糾弾するのに遠慮はいらなかった。文化祭というイベントでここまでする人たちを放ってはおけない。すでに少なくとも犯人の一人はわかっている。あとはまだ自信がないけど、検討はついている。
聖さんが差し出した右手に左手を乗せた。そのまま反動をつけて立ち上がる。この場所から離れたくて、聖さんに導かれるように外へ出た。月が思ったよりも明るい。右手の腕時計を見ると、短針は九時を差していた。
「由宇、俺たちはいいのか?」
学人先輩は僕の右手に触れた。一瞬痛みが走ったが、だんだん鈍い痛みになってくる。一番酷く腫れているのは人差し指と中指だ。学人先輩は確かめるように見ていた。
「聖さんが信じている人を疑いませんよ。まあ、一度疑ったことはありますけど」
「なんで?」
透先輩は怒った顔のまま訊いた。こんな状況になったことに怒っているのか、それとも僕が怪我をしたことに怒っているのか。
心配されるのが不思議だった。だって、先輩は自分のことが邪魔なはずだ。
「前、偶然学人先輩と透先輩が話しているのを聞いてしまったんです。僕と聖さんを見てるとムカツク、聖さんのことをわかっていないとか」
「それで? 聖がムカツクからってなんで由宇が私たちを疑う理由になるの?」
透先輩の女言葉に驚いた。前の話し方に慣れていたから違和感があるけど、こっちの話し方も合う。前は迫力美人だったけど、今は上品な感じだ。
それはともかく、主語が間違っていたことに気付いた。あの会話の主語は全て『聖』に置き換える。聖がムカツク、聖が浮かれている。聖は自分が特別だということをわかっていない。
なんだ、そういうことか。嫌われてなんていなかった。
「大方、自分のことだと思っていたんだろ、由宇は」
「…そうです」
「わからないでもないけどな。さて、今日は俺の家に泊まれ。俺の父が整形外科の医師なんだ。今から治療すると遅くなるだろう。君の家にも連絡を入れておく」
そう言うと、学人先輩は鞄から携帯電話を取り出し、どこかへ電話を掛け始めた。微かに聞こえる会話は親しいもので、家族と話していると予想がついた。
正直、助かった。このまま帰ると言い訳に苦労するのは間違いない。何を言っても嘘になるのだから、帰りたくなかった。学人先輩の家、というのは気が引けるけど、今は甘えておくことにした。
ほっと息を吐くと、横で聖さんと透先輩が溜息を吐いたのが聞こえた。
「まさかここまでするとはね…本気で相手をしなくちゃ」
「ホントに。由宇を狙う辺り、目的が見えるけどね」
聖さんの低い声に、透先輩は呆れたように返した。二人とも変だ。いつもと違いすぎる。
その疑問を口に出すことができずにいると、学人先輩が戻ってきた。
「了承は得た。早く帰ろう。…由宇? ああ、透のことか?」
学人先輩の察しの良さに頷くことで肯定すると、学人先輩はフフッと笑った。
「透が本気になったってことだ。いつも男言葉でいるのを、女言葉にすることで切り替えているんだ。透にとって男言葉は楽なだけで、女言葉も嘘じゃない。切り替えると女性らしさが前面に出て、聖に似ている感じになるだろう?」
「そうですね。でも、どちらも透先輩らしいです。演技じゃないってところが」
学人先輩は一瞬目を見開いたが、すぐに可笑しそうな笑みに変えた。咽喉の奥で笑っている。透先輩も聞いていたようで、複雑な表情を浮かべていた。
「さあ、本当に早く帰ろう。怪我が心配だ。鞄は取ってきてあるから」
学人先輩が先に歩きだした。すぐ横に透先輩が並び、聖さんと僕は後ろを歩いた。
聖さんが持っていたもう一つの鞄は僕のものだった。なんとなくそうかな、とは思っていたけど、ここまで用意周到だとは。『ここまでするとは』ということは、ある程度予想していたということになる。
背後にあるものが見えない。『文化祭』の他に、何かが要素になっている。