トワの大いなる学習帳:「三角関係」
振り返った男は俺の存在に少なからず驚いているようだった。向こうもこういう状況に慣れているわけではないらしい。男は既に扉の向こうに突っ込んでいた片足を引き戻し、少し気だるそうにこちらに向き直った。
「あんた、ジギか?」
男は小さい顔に些か不釣り合いな大きなサングラスをかけていた。以前トワ(この夢の世界の主である少女の名前である)からこの白い部屋を訪れる人間は俺の他に二人いると説明を受けていたが、その際メガネをかけている方を“ディン”、サングラスをかけている方を“ジギ”と呼称していたことを俺は思い出していた。この不可思議な立方体の部屋や白い髪の少女について興味があった俺は彼らとの交流から何かしら未知の情報を入手出来ないかと期待したが、断片的な情報を縫合するに、ディンの方は初めから第三者のことを想定し、警戒して、トワに口止めまでしていたため、早い段階でアプローチの候補からは除外していた。ジギと接触しよう。言葉が通じるかは分からないが、グラサンをかけてるんだ、きっと陽気で接し易い男のはずだ。当時はそんなことを思っていた。
しかし目の前にいる小柄な男は陽気どころか一言も喋らないし、気の利いたステップを刻んだりもしなかった。観葉植物のように一所に根を張ってジっと動かずにいる。
そもそも彼は外国人では無いようだった。アフリカ系の民族衣装のような入りくんだ模様の服を着て同柄のバンダナを巻いてはいたが、トワと同じぐらいの低い身長と華奢な体を持った日本人の少年である。火柱のように立ち上げた黒髪は下ろしたら顔が半分以上隠れそうだ。歳もかなり若いようだったが、上半分はサングラスにバンダナ、下半分は襟を立てたジッパー式の服の上に更にマフラーを巻いており、まるで宝物か何かのように念入りに表情を隠していたため年齢を検討することは困難を極めた。もし友人に吸血鬼が出来たらこのスタイルを推薦しようと思う。
「・・・麻守か」
場所が場所だったので、正直この男がヴァンパイアや左隣りで宙に浮いている少女のように普通の人間ではない可能性も充分にあったが、とりあえず俺はこの少年を人の心を読む超能力者などではない普通の人間として仮定しようと思う。その場合、名乗りもしていない俺の名前を知っているこいつは俺の知り合いということになるが、俺は目の前で表情一つ変えずに佇んでいる小男に一切の心当たりが無かった。
「・・・なるほど、ジギか。そうだな。俺はジギだ」
サングラスが肯定の意を示すべくささやかに、奥ゆかしく上下し、それに合わせてカチャカチャと金属音が挨拶のように響いた。
本当は話を流したかったのだが、描写してしまったので仕方なく触れようと思う。もう一つ男には特筆すべき特徴があった。体中を覆うようにベルトや紐を巻きつけていたのだ。そしてそれらには沢山の、様々な種類のナイフや小型の刃物がぶら下がっており、四方に威圧的な鈍い光を反射させていた。数は軽く百はあるだろう。
少なくとも俺の目からは、それらのナイフが偽物のようには見えなかった。果物を切るためのものにも見えない。もしかしたら世界の何処かにナイフを使用する果物の祭典なんてものがあるのかもしれないが、たとえあったとしても果物相手に百本も歯こぼれさせるようなイベントでは無いだろう。
「トワがすぐに武器を想定するのはお前の影響だな・・・」
トワが首を傾げる。
「呼びとめられたからには愉快な話題が提供されるものかと思ったんだが。用が無いなら俺は行くぞ」
少年は体を揺らし再び扉の縁に手をかけた。この夢の中の白い部屋は、より正確を期して表現するならば“白い靄に覆われた部屋”であり、実際に壁面が白色をしているわけではない。普段靄がかって判然としない壁には、どうやら一面にだけ扉らしき構造物が備え付けられているらしいということを以前確認していたが、その時は不思議な靄のせいで手を伸ばしても触れることすら出来なかった。しかしその靄が今はどういうわけか扉の周囲だけ綺麗に取り払われ、尚且つ件の扉は大きく開け放たれている。扉の中では今居る白い部屋が暗く翳む程の眩い光が烈しく閃いており、奥を覗きこむことは不可能だった。
ジギの様子を見るに、彼にとってこの光景はさして驚くに値しないもののようだった。恐らくもう何度もこの扉をくぐって“扉の向こう”へ立ち行っているのだろう。サングラスもこの光を遮るための備えに違いない。やはりこの男は俺の知らない何かを知っている。
「待ってくれよ。ジギ、お前はこの世界についてどれぐらいのことを知ってるんだ?知識を共有したい」
「知識を・・・?」
ジギは懐疑的にものを見るような目で俺のことを見返した。きっとデカルトも自論を語る時こんな目をしていたのだろう。
「麻守、世間では“世の中知らない方が良いこともある”なんて言い方をするよな。俺はそうは思わない。“世の中知らない方が良いことしかない”んだよ」
ジギは見た目は幼く見えたが、声だけは使いようによってはかなりドスの利きそうな低めのバリトンボイスだった。そして今回彼はそういった使いようの声を出して俺を窘めていた。
「知って幸福になるような事なんて何一つない。何一つだ。ただ死に近づくだけだ。“知る”って行為は“死ぬ”と同義だからな。だから俺は幼い頃から知らないで済むことなら知らないままでいるよう努めて生きてきた。当然この部屋のことなんて知らないし、知りたくもない」
「じゃあ扉の向こうのことは?」
「一応忠告のつもりだったんだが、聴こえなかったのか?お前の知らないことは、知る必要は無いんだよ」
一呼吸置いてジギが言葉を続ける。
「お前がソイツに名前をつけて愛玩するのは本来お前の勝手だ。だが勝手は他人を巻き込まない範囲でやるべきものだろう。お前のせいで扉が開き辛くなってここに足を伸ばす機会が減ってるんだ。場が不安定になったからな」
俺はむしろ増えているんだけど、という台詞は煽り文句になりそうだったので今回はコメントを差し控えることにした。
サングラスの少年が扉に足をかけ、身を乗り出す。これ以上俺との会話に時間を割く気は無いようだった。扉の向こうでは風が吹き荒れているらしく、ジギの扉の奥へと向かおうとする意思に呼応するかのように、徐々にゴウゴウと唸り声を強めていた。その轟音に負けないように俺は声を張り上げる。
「一つだけ!ヒントだけくれ!俺にだけ分かるヒントを!それなら問題ないだろう!?」
振り返ったジギが俺を睨んだ後、嘆息した。
「お前、もう分かってるだろう」
「この部屋とはいったい!何なんだ!」
「・・・結節点だ。恐らくな」
そう言うとジギは扉の向こう側へと勢いよく身を投げ、そのまま光の中に消え去った。
「これが、三角関係というヤツだな」
再び靄に閉ざされた部屋の中で、唐突にトワが聞き慣れない言葉を発して納得したように深く頷いた。
「どこで覚えたんだ、そんな言葉」
「ディン」
何て言葉を教えてるのだ、ディンという男は。
「三角関係は、シュジンコウと、ホンメイと、アイジンという役柄で構成される。私は、アキラに質問する。アキラは、ジギに質問する。ジギは、アキラに返答する。つまりこの場合、アイジンは私で、ホンメイは・・・」
「あー分かった!分かったから!ストップ!」
何だその質問で愛を語り合っているユニークな関係は。近未来SF小説か。
「いいか、三角関係というのはだな・・・」
今日学んだこと
三角関係・・・友人間を尊重し合う関係のこと。
・アキラはディンより三角関係に詳しい。三角関係経験が豊富なのだろう。