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未来

これも「あめの中の逃亡者」のお題で書いたもののひとつです。出てきたので、宜しかったら。

 太陽の匂いを叩き出すような、熱く鋭い雨が降る。

 雨粒は信じられないほど大きく、当たっただけで全身にひどいダメージを受けるだろうと思われた。

 甘い香り。

 この場所では、熱い雨が降ると必ずひどく不自然な花の香りがする。きつすぎる、人工的なそれ。毒の香り。そう、人工的に降らされた雨の後で、毒は撒かれる。それはシャボンのようであったり粉のようであったり、とにかく少しでも意識を逸らされると即命の危機に陥らされるようなものだ。

 俺はすでに三度ほどその雨に遭遇していた。

 仲間は殺されたのか、上手く逃げたとしてもその後の行方など分からず、新人は見かけるもののそれもただすれ違うだけの者となることが多い。雨よりも実はあの甘い香りが恐怖の対象なのだと教えても、大抵鼻で笑われる。少しばかりきつすぎる花の香りじゃないか、と。ほんの少しで死に至る毒なのだと必死に言ってみても、死んでいないお前にどうしてそれが分かる、などと言うばかりだ。

 仲間が死んでいくのを、この目で何度も見ているからだと、もうその頃には説明してやる気にもならない。

 大粒の雨が降る。

 それはやがて滝のように世界をびしょびしょに濡らしてしまう。俺は必死でそこらにしがみつき、ただただ身体を持っていかれないように歯を食いしばって耐え、祈るのみだ。祈りながらも、じっとしている訳にはいかない。甘い香りの毒が、すぐに迫ってくるから。

 俺は全身ずぶ濡れになりながら、今度こそは駄目かもしれない、と呟く。

 駄目かもしれない。

 ここで、死んでしまうかもしれない。

 彼女のあたたかな背中を思い浮かべながら、目を閉じてしまいそうになる。

 抱きしめると、太陽の匂いがする彼女。

 甘く、やわらかな彼女の身体。

 大粒の雨に打たれて、逃げ惑い脚はすでに棒のようで、ここで倒れてしまったら楽になれるのだろうかとふと思ってしまう脳裏に叱咤するようそれは想い広がる。

 正直、今まで生きてきた中で、搾取できるのなら性別も関係なく寄り添ってきた。そういう生き方をしていたので、特定の誰かをこんなに想うということはなかった。いつ死んでもいい、というような考え方だったのにどうしてだろう、彼女と出会ってから、彼女以外の誰も目には入らなくなった。彼女に触れたくて、明日を夢見た。未来なんて、俺の中には存在しない概念だったのに。

 熱い雨に足元を滑らされて、それでも彼女に会いたくて、死ねないと誓う。自分に。彼女に。死にたくない。彼女の背に、やわらかく歯を立てたい。思い切り抱きしめたい。死にたくない。彼女のために。自分のために。

 この身体を突き動かす熱い想いのようなものの成分は、彼女への愛だけでできている。きっと。

 俺は雨を見上げる隙も自分に与えず、ひたすら乾いた場所を求めて逃げる。明日のために。明日の、命のために。


 身震いされて水しぶきが飛んだ。

 泡はすべて洗い流していたものの、毛の長いゴールデンの雑種のあめは身体に結構な水分をまとっていたので、それがみんな飛び散

「こらーっ、あめ!」

 シャワーを止めたのにいつまでも水の音がする、と思っていたら、どうやら雨が降り出していたらしい。私はバスタオルで、あめの身体を包んだ。

 雨の日に拾った子だから、あめ。小学生だった私は成人し、子犬だったあめは大きくなった。

 血統書付きでないと飼ってはいけないと怒る親を説得し、入る学校も行く塾も全部お父さんとお母さんの言う通りにするから、と泣いて懇願した私に、あめは感謝してくれているのかどうかは分からない。でも、兄弟のいない私にとって、あめは妹であり親友でもあった。

 一人娘の私は、家の存続のために遠い親戚のところに嫁がされることになっていたけれど、夫となる男が二十以上も年上なだけでなく、犬が嫌いなので絶対に連れてくるなと言ってきた。むしろ殺せと。どうして写真でしか見たことのない男の言うことを聞いて、あめと離れ離れにならないといけないんだろう。写真を見ただけで嫌悪感の走る男と、どうして私は結婚しないといけないんだろう。毛も薄く卑屈そうな顔をして脂ぎっている、典型的な「虫唾の走る男」と。 

 けれど両親はこれで安泰だと喜んでいる。

 両親は男の言葉に従い、あめをどこかへ捨ててきた。きっと山奥とか、そんなところだったのだと思う。いなくなって二週間経って、私がどんなに捜しても泣いても喚いても「邪魔なものだから」としか言わなかった両親に、殺意さえ覚えた。自力であめが帰ってこなかったら、私はきっと殺人犯になっていただろう。

 でもあめは自力で帰ってきた。

 ぼろぼろの、よれよれになって。 

 そして、私が家を出るための、背中を押してくれた。

 娘の幸せではなく、家の存続を望む父と母に、義理などもうない。育ててくれたお礼をしなきゃならないのなら、私を産んだことに文句を言ってやる。命には感謝してるけれど。

「ワン公、ダニ取れたか」

 しゃがんであめを拭いていた私に、やわらかな低い声が降る。

 見上げて視線がぶつかって、そうして気恥ずかしさに目を逸らすことになるのはいつもこっちだ。

 ワン、とあめが機嫌良く一声吠えた。アパートなんだから、と慌ててあめの口を押さえる彼が可愛い。

 女に下手な学力は要らないという両親が、それでもお嬢様高校へ入るためにと付けてくれた家庭教師だったのが彼だ。手違いで一日だけ来てくれた先生。すぐに、女性に変えろと両親に変更されてしまったけれど。

 初恋だった。

 涼しげな目元だとか、どこかとぼけた大型犬を思わせるようなところだとか。

 おままごとみたいな文通に、よく大学生だった彼が付き合ってくれていたと思う。一度勉強を見ただけの小娘の頼みなど。

 それがきっちりと続いてきたなんて、自分でも信じられない。

「自分の人生から逃げないために自分の親から逃げるお前を、オレは応援するよ?」

 囁かれて私は頬が熱くなるのを感じながら、私は微笑んだ。

 この先どうなるかは分からない、のではない、私が切り開くのだ。明日を。未来を。


 雨が止んで、ひどく長く続く突風も気がつけばどこかへ消えていた。

 俺は生き残れたんだろうか。意識が上手く定まらない。

 ただ、彼女のことを考えていた。彼女といる、明日を。

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