BULLET:19
人気が感じられなくなっていた。
ムツキは身の安全など考えず、無造作に歩を進めていた。
「……残ってるのは死体だけか」
転がっていたものをつま先でつつく。
自分が転がした連中だった。
ムツキは、侵入経路を逆にたどって、表へ出ようとしていた。
不安定な揺れに、壁に手を突く。
「ってことはだ……」
そのまま動かず、考えをまとめる。
目指すべき場所を思案する。
行きに倒した連中の内、息を残していた者たちがいなくなっていた。
新手の人影もない。
ともに脱出したのだろう。
「逃げやがったか」
歯ぎしりをする。
「……海上保安部の方で、網張ってるんだろうなぁ?」
独り言が多くなっているのは、不安な証拠であった。
上の足並みが揃わず、動きが遅いからこそ、ムツキは勝手に突撃したのだ。
警戒網が張られていたとしても、網の目はざるのようなものだと想像できた。
『じむぅ!』
少女が丘を駆けていく。
『自分』とは違い過ぎる容姿、金色の髪はつややかで、ポチャッとした肉付きに、健康的な足がキュロットスカートから伸びていた。
いつかの日に手を伸ばそうとして……そして避けられたことが思い浮かぶ。
だから、ジムは臆病にも、自分から彼女に触らない。
なのに、その少女は、そんなジムの逡巡など知ることもなく、とても無邪気に抱きついて、純粋無垢な笑みを向ける。
『じむぅ、ゆきぃ……』
ジムの匂うコートにも嫌な顔一つせず、彼女はその中に入り込んで隠れてしまった。
顔だけを出して、白い息を吐き、空を見上げ、途中にあるジムの瞳にえへらと返す。
ジムは、そんな表情がたまらなく好きだった。
自然と瞳に、あの優しいものが浮かんでしまう。
守るべき価値あるものがここにある。
いつか、この少女も変わるのだろう。
皆と同じように、自分を蔑むようになるのだろう。
そう想像することは侮辱であろう。
この無垢さが、永遠のものであると信じられるほど、ジムは純粋ではなく、すれきっていた。
だが、それがどうだというのだろうかと、ジムは考える。
ジムという存在は、その名前ですらも架空のもので、人から避けられ、逃げられ、追われ、毛嫌いされるようなモノであることは、真実なのだから。
だから、綺麗なままで居て欲しいと思う。
自分は外套となって、守るからと。
寒さも痛さも悲しみからも。
庇うからと。
いつの日か、この子も、自身で身に纏うものを選ぶのだろう。
自分は捨てられ、換えられてしまうのだろう。
もっと綺麗で、すてきなものに目を向けるだろう。
そしてその身を包んでもらい、幸せそうに笑うのだろうと。
そこにはもう、自分の居場所はないだろうけど、せめてその時まではと。
その時まででいいからと、願わずには居られなかった。
コートの内側にこもる彼女の温もりを、少しでも蓄えるよう前を合わせて。
天を仰いで、雪を受けた。
──だが、彼は守れなかった。
ガスに膨らんだ体を抱きしめて号泣した。
純真だった少女は犯され穢され壊れてしまった。
ジムは謝り続けていた。
自分が望んでしまったためにと。
自分がまとわりついたためにと。
だから彼女は穢れてしまったのだ。
このように無残な姿をさらす羽目になったのだと。
祟られてしまったのだと、泣き叫んだ。
「ああああああああああああ!」
ジムは雄叫びを上げて後を追った。
望んではいけなかったのだと、心を凍てつかせた瞬間だった。
自分が殺したのだと、己を呪った。
仕返しとばかりに、何の罪もない子供の鞄に爆弾を忍ばせた時には、もう復讐心を抑えられなくなっていた。
無差別にその対象を求めて足掻いた、心の乾きを癒すために。
潜入捜査のことなど気にもとめなくなっていた。
彼女をそうしてしまった人間の仲間の振りなど、どのような理由があれできなかった。
心の中で燃えたぎった暗い炎は、ジムの優しさを燃やし尽くした。
だから今あるジムの姿は、ある意味とても自然なものだった。
「くはっ!」
スペンサーは駆け寄って来たジムの蹴りを両腕で受け止めた。
「ス、ペ、ン、サー!」
「や、やめ……」
「美幸は泣いたかっ、俺を呼んだか!」
立ち上がったスペンサーにナイフを振り回して斬りかかる。
「助けてくれと泣いたのか!?」
「ひぃ!」
スペンサーは、咄嗟にナイフで受け止めた。
キィン、ゴィっと、金属の擦れ合う異音が響く。
それはジムのもっとも知りたかった事だった。
夢に何度も見て来たのだ。
何かを叫ぶ彼女の姿が。
「美幸は何を叫んだんだ!」
這いつくばり、手を伸ばし、何かを口にする彼女が見える。
だが顔がよくわからないのだ。
その背後で、彼女のことをあざ笑う男たちはよく見えるのに。
黒いコートは悪魔の翼。
ジムのコートが翻る。
まるで死神のように、スペンサーに見せる。
スペンサーは、恐怖に引きつりながらも思い返していた、あの少女は泣いていたかと。
答えは否だ。
口は塞いでいたし、塞いでいたテープを剥がしたのは喉を潰す時になってからだった。
焼けつく液体に声を失った少女は、必死の形相で喘ぐように口をパクパクとさせていただけだった。
あの口は、なんと叫んでいたのだろうか?
名前をくり返していたのだろうか?
誰の名を呼んでいたのか?
その唇の動きと、目の前の男の名が合致する。
(ジム?)
だがそれは、余りにも遅過ぎる認識であった。
「うあっ!」
スペンサーはナイフを突き出し、手元のスイッチを押した。
柄から離れ、刃先が飛ぶ。
仕込みナイフはジムの顔を狙ったが、ジムは首を捻るだけで躱して見せた。
しかしスペンサーには、そこに生まれたわずかな時間で十分だった。
身をひるがえして駆け出したのだ。
逃げ出した。
「くっ……」
追いかけようとしたジムであったが、目に止まった転がっている死体に、ここが何処だかを思い出した。
「原油……、タンクのコントロールルームの側か」
死んでいるのはケンヂであった。
スペンサーの駆け込んだと思われる部屋の戸口の横に立つ。
やはりコントロールルームだった。ジムの仕掛けた爆薬によってズタズタになってしまっている。
「スペンサー」
「ジム」
呼び掛けに答えた声はしっかりとしている。
ジムはナイフをぶら下げるように持って姿を晒した。
スペンサーの目には正気が戻っていた。
「……俺達の何が違ってたのか、ようやくわかったよ」
「そうか」
「俺は市民権という現実を」
スペンサーは銃を抜いた、それはジムがケンヂの襲撃で取り落とした銃だった。
「お前はあのガキって夢を……」
ジムは腕を真っ直ぐに伸ばし、ナイフの切っ先を据えた。
「だが市民って言葉こそが夢で、お前の甘えが現実だったんだ!」
発砲する。
弾丸はジムの眉間を狙っていた。
ジムは踏み込み、こめかみにかすれるほどの至近で避け、さらにもう一歩を跳ね飛んだ。
ナイフがスペンサーの喉元へ向かって放たれる。
一瞬の交錯、先によろめいたのはジムであったが、倒れたのはスペンサーだった。
「かっ……」
ひゅうと喉から息が吹き出され、スペンサーの体は崩れ落ちた。
びくびくとけいれんしながら、スペンサーは喉を押さえ、悶えていた。
血が手の隙間から溢れだし、転がるスペンサーと床を赤く塗り広げていく。
だがそれも、やがて大きなけいれんを一、二度して、止まった。
ぱたりと手が落ち、動かなくなった。
「バカが……」
ジムはこめかみを押さえてかぶりを振っていた。
弾丸がかすめたために、めまいがしていたからだ。
だが脳震頭は簡単に晴れてくれない、ジムはへたり込むように座り込んだ。
「はぁ……」
張り詰めていたものが抜け、緊張感を失うと同時に忘れていた疲労感に襲われた。
「当てろよな……」
血も流し過ぎているのだろう、めまいは酷くなる一方だ。
視界もかすれてきている。
左の袖が、どす黒く染まっていた。
来る前に塞いだ傷など、とうの昔に開いていた。
ズズズ……、と、低い響きが聞こえる。
「……なんだ?」
スペンサーの、銃を握っていたのと逆の手には……。
真美の時に使用したような、リモコンが一つ握られていた。
ジムはおかしくなって、ゲラゲラと笑い出した。
自分の終わりが来たのだと、こんな終わり方かと、腹を抱えて転がり、笑った。