BULLET:18
(嘘だろ!?)
カン、カン、カン……と、転がって来た物体に、ムツキは思い切り目を丸くした。
慌てて背を向け駆け逃げる。手短な横道に飛び込んだ瞬間、背後で小さめの爆発が起きた。
走ってきた道を、爆圧が真っ直ぐに駆け抜けていく。
「……正気じゃねぇな」
安堵の息をつく。
船内で平然と手榴弾を使うのだから、錯乱していると見るのも仕方の無いことだろう。
客船ではない、タンカーなのだ。
通路のそこら中には、何を通しているのかわからないパイプが走っている。
「死ぬつもりか? あいつ」
舌打ちをする。しかし現実には違っていた、スペンサーにはまだ計算するだけの余裕があった。
(この船はもうだめだ)
手榴弾を転がした後、スペンサーは素早く逃げにかかっていた。
心の何処かには、ジムのことが引っ掛かっていたが、それでも逃走を第一に考えていた。
それは長年にわたって染み付いた、ホームレスとしての習性に基づく行動であった。
長年培って来たものが、どこかで最悪の状況を回避するために警告を発していた。
「非常用ボート……、いや、上はヘリで押さえられてるのか、なら」
甲板への通路に出るため階段を下りる。
しかし下りた瞬間、彼の頭からは冷静な思考が消え失せた。
「ジィイイイイイイイム!」
自分とは逆に、上がって来た人影に、スペンサーは銃を向けて引き金を引いた。
しかし響いたのは、カキンという無情な音だけであった。
弾は既に尽きていた。
幼い少女が必死に抗っていた。
ホームレスの溜まり場からも外れている、朽ちかけた廃ビルの中だった。
暗いフロアーを、生のコンクリートの上を、埃の上に這った跡を残して、両手足の筋を断たれた少女が、肘で、膝で、腹で、逃げ惑っていた。
まるで芋虫のようだった。
ひっと小さな悲鳴が上がった。
少女は、男に蹴り転がされて、上向きにされた。
少女の着ていたものは無残に裂けていた。
かなり乱暴に裂いたのだろう、お腹にナイフの切っ先が残した傷がある。
血は埃をこねて固まっていた。
顔は涙と、鼻水と、涎でぐしゃぐしゃに彩られていた。
その下にあるのは紛れもなく恐怖である。
少女の腰の辺りに水たまりが広がっていった。
だがその様な憂き目に会っても、少女のむちっとした肌はどこか女の子を感じさせた。
その健康さが、余計な嗜虐心までも掻き立てた。
男は自分の腕を見た。
枯れ木のようだった。
この少女は恵まれている。
少女の腕は、男よりも肉があった。たるみがあった。
それだけで、男はいくらでも残忍になれた。
何も知らずに、何も分からずに、何も考えずに、自分達を蔑む。
それがこの子だ。
彼女は、彼女の親は、その知り合いは、彼らを保護している者達に。
自分たちへと目を向けさせるために、見て見ぬ振りをさせないために、追わせるために、無視できない痛みや傷を与えるために。
自分達の苦しみを訴える生贄として、その少女を捧げさせた、捧げさせてやった。
ただそれだけの事だったと言うのに。
「スペンサー!」
ジムの銃が唸るも、それはスペンサーの勢いを削ぐには迫力が足りなかった。
階段を飛んだスペンサーは、肩に一発受けたものの、それだけでジムに押し迫る事に成功した。
弾は彼の身には食い込まなかった。彼のコートは、ジムと揃いで作られた特注品であったからだ。
「くうっ!」
白刃が煌めく。ジムはその刃をかろうじてナイフで受け止めた。
ジムは間近くで見たスペンサーの表情に唖然とした。
「お前?」
「なんで、なんでだよ!」
スペンサーは泣きじゃくっていた。
「俺達は兄弟だって誓ったじゃないか!」
泣き喚き、それでも攻撃自体は苛烈を極めた。
ジムの腕を、喉を、胸を、急所を確実に狙って、刃はコートを切り裂いた。
「俺と来い、ジム!」
行動とは裏腹な言葉を彼はかけた。
「今からでも一緒に、市民に、なぁ!」
優しい言葉を口にしながらも、スペンサーのひるがえすような一撃が、ジムの左頬を斬り裂いた。
ジムは一端下がった。そしてコートの袖で流れ出る血を拭いさった。
息が多少上がっている。だがスペンサーはそれ以上に、息も絶え絶えになっていた。
それでもやめようとしないのだ。
「市民になりたくて、俺を殺すってんだろ? そういう仕事なんだろ!? だったら!」
「……スペンサー」
ジムは哀れみを含んだ目でスペンサーを見つめた。
ゆっくりと、わかってないとかぶりを振った。
「違う、違うよ……」
ジムは、これまで誰にも見せなかった笑みを見せた。
「……もう、そんなことはどうでもいいんだ」
空虚な表情。だが瞳だけは、見せたことのあるものだった。
それは真美や美幸に見せた、優しさを湛える瞳であった。
その目に映るのは、スペンサーに重なる腐れた『美幸』の姿であった。
両腕を広げ、微笑んでいる『美幸』がそこに居た。
まるでジムが来てくれるのを待っていたように、微笑んで。
あるいはやっと来てくれたのかと、笑っているようにさえ見える顔をしていた。
それを天使と見紛えてしまうのは、ジムの心が歪んでいるためだろう。
「……俺は、こんな俺にも好きって言葉をくれた美幸が、忘れられないだけなんだ」
ジムはその幻影に対して笑みを返していた。
たまらなくなったのはスペンサーだった。
「いつかは裏切られるっ、そうに決まっていた!」
「それならそれでよかった。でもお前が奪ったんだっ! そんな未来も!」
生きる意味をと、ジムは息を止めて、跳びつくようにナイフを繰り出した。
だがスペンサーはケンヂ程には甘くなかった。
「はっ!」
ジムの左腕を狙い突き刺す、さらには身を捻ってナイフをかわし、揚げ句には肘で首を押さえつけるようにして、ジムの体を壁に押し付けた。
「このまま首を掻き切ってやる!」
それに対するジムの返答は銃声だった。
「がっ!」
スペンサーの左足ががくんと曲がる。
スペンサーが、ジムの腕に突き刺したナイフを引き抜いている間に、ジムは彼の腿に銃口を押し当てていたのだ。
「スペンサー!」
ジムは吠えて蹴り飛ばした。左手に握った銃も、右手に閃くナイフも忘れて、顔面を蹴り潰すために足を抜くように振り切っていた。
「くはっ!」
彼の鼻がねじ曲がった。
「うぉおおおおおおおおお!」
「ひっ!」
獣同然のジムの姿が、スペンサーにジムという存在を忘れさせた。
恐怖が、そこに居る者が、知り合いではなく、死に神なのだと錯覚をさせた。
そうして、ジムというフィルターを失って、スペンサーはようやく何かを悟ることができたのだった。
(死ぬ? この俺が、なんで?)
悟ったものは、自分が抱えていた物が、幻想に過ぎなかったという現実であった。
彼が、親友と思っていた者が、自分と同じ生き物で、自分と同じものを欲していて、自分と同じ目線で世界を見ている、仲間であるという錯覚であった。
(殺したからか? 壊したからなのか?)
自分が壊したものはなんだっただろうかと想像をする。
スペンサーは、あの少女の顔を思い浮かべた。
(あいつの夢、希望?)
スペンサーもまた、市民になった自分を思い浮かべて、気力を奮い起こしてきた。
生きる活力、目標を持っていた。
でなければ、あっというまにくたびれて、うずくまってしまう。
二度と立ち上がれなくなってしまう。
だが、そんな自分にとっての気力の元が市民権なら、ジムにとってのそれは、一体何であったのだろうか?
(俺たちが、あの子を、殺したからか?)
夢や希望の象徴はそれぞれだ。
レンガの壁の前で誓った約束。
『幸せになってやろうぜ』
二人が描いた夢の形。
幸せな世界。
自分たちは同じものを見ていなかった。
その時、違う世界を夢見ていた。
想像をして、思い浮かべていたのだと、スペンサーはここに来てようやく悟った。
自分が見ていたのは、不安のない生活と怠惰な日常で。
ジムが見ていたものは、美幸という姿をしていた。
約束をした。
幸せになると。
幸せな世界へ行くと。
幸せな世界の住人になると。
だがその世界に不幸を振りまいた。
不運をまき散らし、世界を壊した。
穢すようなことをしたのは。
(俺!?)
「かっ!」
スペンサーは咄嗟に目についた階段を転がり落ちた。
「待て!」
それを追ってジムもまた深部へと潜り戻っていく。
全身の打ち身を堪える無様な背中だけを、ジムは目に留めて追っていった。