風鈴の鳴る午後に
チリンチリーン……。
背後の窓辺から、涼やかな風鈴の音が届く。
その音色に、夏の午後の静けさと心地よい微風が混ざる。
「あっ!? 風鈴」
外回りから帰ってきた彼の声。
たった、それだけで胸の奥が軽く跳ねた。
「ええ、出張先で買ってきたの」
私は何食わぬ顔で、ノートパソコンから目を上げた。
「いいですね、こういうの……。」
彼は私の背後の風鈴に目を細め、微笑んだ。
胸がざわりと騒ぐ。
初めて恋を知った頃のような、心地よい高鳴り。
しかし、書類の束を持つ、彼の左手の薬指には、婚約指輪が光っている。
先月、報告があった。
大学時代から付き合っていた彼女と、婚約したと心底嬉しそうに笑って。
「出張前に頼んでいたの、出来たのね?」
その事実が、胸をぎゅっと締め付ける。
でも、まだ婚約。
結婚しているわけじゃない。
たまたま、私との出会いの方が遅かっただけだ。
まだ間に合う。
手のひらにはじんわりと汗が滲む。
広い課内に二人きりという偶然が、高揚をくすぐる。
「はい、確認をお願いします」
書類を渡す彼の指先が、ほんの一瞬だけ私の手に触れた。
今年で二十八歳。
最後に彼氏がいたのは、六年も前になる。
小さな接触ですら、軽く甘い疼きを伴い、腰の奥で悦びが溢れた。
「んっ……。」
「……課長?」
チリンチリーン……。
風鈴の音が、なぜか甘い背徳感を帯びて耳に届く。
心臓の高鳴りに加えて、頭の中まで熱く、思考がまともに働かない。
「今日は、少し暑いわね」
ブラウスの襟首を引っ張り、右手で胸元に風を送る。
布の下の肌が、わずかに露出する。
「クーラーを付けましょうか?」
彼はすぐに目を逸らす。
合格、好印象。
だけど、今日のブラは黒。
白いブラウスと肌色の中では目立つ。
彼は悟られまいと、ちらちらと胸元を覗き見している。
彼は新卒六ヶ月目、二十二歳。
彼女は、一歳年下と聞いたし、写真では大人しそうな印象があった。
きっとこういう下着は着けないに違いない。
「駄目。経理に怒られるもの」
少しあざとすぎたか、と思いながらブラウスを戻す。
私も捨てたものじゃないと自信をもった。
それに、『いける』という淡い期待も芽生え始めていた。
「ははっ、確かに……。」
視線を隠しつつも、彼の目が胸元に揺れているのが分かる。
ちらちら見られるたび、心の奥底から嬉しさが溢れてくる。
チリンチリーン……。
書類を読んでいるフリをしながら、昨夜の自分を思い返す。
出張で三日間会えなかっただけで、寂しさに押し潰されそうになった。
枕に顔を埋め、何度も彼を思い出していた。
『触れてはいけない……。
でも……。もっと触れたい! 彼を感じたい!』
理性と感情がせめぎ合う。
心臓の鼓動が耳にまで届きそうだ。
「ふぅ……。」
漏れた吐息まで熱かった。
「……だ、駄目ですか?」
それを、彼は落胆の溜息と感じたらしい。
「そうね……。」
なら、それに乗ろう。
机の上に書類を放り投げ、椅子から立ち上がる。
「……課長?」
不安げな彼の眼差し。
腰の奥の甘い疼きが背筋をぞくぞくと駆け上がる。
息が浅くなり、手足の先まで熱を帯びる。
自分をコントロールできない。
私は身持ちの固い女として知られているし、自分自身もそう思っていた。
だから、彼のせいだ。
「第三資料室に行こうか」
「えっ!?」
「あそこなら、人は滅多に来ないでしょ?」
「そ、そうですけど……。」
そう、私は悪くない。
畳んだノートパソコンを抱え、早足で歩き出す。
足の震えを悟られないように必死だった。
「それとも、ここで叱られたい?
もうすぐ、誰かが帰ってくると思うけど?」
「わ、分かりました」
背後に、彼の視線を感じる。
全身を撫でられるような熱が、体中を駆け巡った。
『やめろ!』
『彼は私のものにしろ……。』
チリンチリーン……。
遠くなってゆく風鈴の音が、廊下の静寂にすっと溶けていく。
それに混ざるのは、二人の足音だけ。
階段を下り、辿り着いた地下一階隅の部屋。
薄暗い蛍光灯がちらつき、埃の匂いが漂う。
「さあ、入って」
ドアを開けると、冷たい空気が二人を包み込む。
「はい」
彼を先に入れ、距離を少しだけ空けて私も続く。
ドアを閉めると、外の廊下の音が完全に遮断され、二人だけの世界になった。
鍵をかけるカチャリという音が、静まり返った部屋にやけに大きく響く。
心臓が一瞬、音に合わせて跳ねる。
「……課長?」
明かりはドアの磨りガラスを通した廊下の照明だけ。
最後に残った唯一の音を防ぐため、私は彼をきつく抱きしめ、唇で唇を乱暴に塞いだ。




