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実験場

風鈴の鳴る午後に

掲載日:2026/06/09




 チリンチリーン……。



 背後の窓辺から、涼やかな風鈴の音が届く。

 その音色に、夏の午後の静けさと心地よい微風が混ざる。


「あっ!? 風鈴」



 外回りから帰ってきた彼の声。

 たった、それだけで胸の奥が軽く跳ねた。



「ええ、出張先で買ってきたの」



 私は何食わぬ顔で、ノートパソコンから目を上げた。



「いいですね、こういうの……。」



 彼は私の背後の風鈴に目を細め、微笑んだ。


 胸がざわりと騒ぐ。

 初めて恋を知った頃のような、心地よい高鳴り。


 しかし、書類の束を持つ、彼の左手の薬指には、婚約指輪が光っている。


 先月、報告があった。

 大学時代から付き合っていた彼女と、婚約したと心底嬉しそうに笑って。



「出張前に頼んでいたの、出来たのね?」



 その事実が、胸をぎゅっと締め付ける。


 でも、まだ婚約。

 結婚しているわけじゃない。


 たまたま、私との出会いの方が遅かっただけだ。


 まだ間に合う。


 手のひらにはじんわりと汗が滲む。

 広い課内に二人きりという偶然が、高揚をくすぐる。



「はい、確認をお願いします」



 書類を渡す彼の指先が、ほんの一瞬だけ私の手に触れた。


 今年で二十八歳。

 最後に彼氏がいたのは、六年も前になる。


 小さな接触ですら、軽く甘い疼きを伴い、腰の奥で悦びが溢れた。



「んっ……。」

「……課長?」



 チリンチリーン……。



 風鈴の音が、なぜか甘い背徳感を帯びて耳に届く。

 心臓の高鳴りに加えて、頭の中まで熱く、思考がまともに働かない。



「今日は、少し暑いわね」



 ブラウスの襟首を引っ張り、右手で胸元に風を送る。

 布の下の肌が、わずかに露出する。



「クーラーを付けましょうか?」



 彼はすぐに目を逸らす。


 合格、好印象。


 だけど、今日のブラは黒。

 白いブラウスと肌色の中では目立つ。


 彼は悟られまいと、ちらちらと胸元を覗き見している。


 彼は新卒六ヶ月目、二十二歳。

 彼女は、一歳年下と聞いたし、写真では大人しそうな印象があった。


 きっとこういう下着は着けないに違いない。



「駄目。経理に怒られるもの」



 少しあざとすぎたか、と思いながらブラウスを戻す。


 私も捨てたものじゃないと自信をもった。

 それに、『いける』という淡い期待も芽生え始めていた。



「ははっ、確かに……。」



 視線を隠しつつも、彼の目が胸元に揺れているのが分かる。

 ちらちら見られるたび、心の奥底から嬉しさが溢れてくる。



 チリンチリーン……。



 書類を読んでいるフリをしながら、昨夜の自分を思い返す。


 出張で三日間会えなかっただけで、寂しさに押し潰されそうになった。

 枕に顔を埋め、何度も彼を思い出していた。



『触れてはいけない……。

 でも……。もっと触れたい! 彼を感じたい!』



 理性と感情がせめぎ合う。

 心臓の鼓動が耳にまで届きそうだ。



「ふぅ……。」



 漏れた吐息まで熱かった。



「……だ、駄目ですか?」



 それを、彼は落胆の溜息と感じたらしい。



「そうね……。」



 なら、それに乗ろう。

 机の上に書類を放り投げ、椅子から立ち上がる。



「……課長?」



 不安げな彼の眼差し。


 腰の奥の甘い疼きが背筋をぞくぞくと駆け上がる。

 息が浅くなり、手足の先まで熱を帯びる。


 自分をコントロールできない。


 私は身持ちの固い女として知られているし、自分自身もそう思っていた。

 だから、彼のせいだ。



「第三資料室に行こうか」

「えっ!?」

「あそこなら、人は滅多に来ないでしょ?」

「そ、そうですけど……。」



 そう、私は悪くない。


 畳んだノートパソコンを抱え、早足で歩き出す。

 足の震えを悟られないように必死だった。



「それとも、ここで叱られたい?

 もうすぐ、誰かが帰ってくると思うけど?」

「わ、分かりました」



 背後に、彼の視線を感じる。

 全身を撫でられるような熱が、体中を駆け巡った。



『やめろ!』

『彼は私のものにしろ……。』



 チリンチリーン……。



 遠くなってゆく風鈴の音が、廊下の静寂にすっと溶けていく。

 それに混ざるのは、二人の足音だけ。


 階段を下り、辿り着いた地下一階隅の部屋。

 薄暗い蛍光灯がちらつき、埃の匂いが漂う。



「さあ、入って」



 ドアを開けると、冷たい空気が二人を包み込む。



「はい」



 彼を先に入れ、距離を少しだけ空けて私も続く。

 ドアを閉めると、外の廊下の音が完全に遮断され、二人だけの世界になった。


 鍵をかけるカチャリという音が、静まり返った部屋にやけに大きく響く。

 心臓が一瞬、音に合わせて跳ねる。



「……課長?」



 明かりはドアの磨りガラスを通した廊下の照明だけ。

 最後に残った唯一の音を防ぐため、私は彼をきつく抱きしめ、唇で唇を乱暴に塞いだ。





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