第5話 「これまで一緒にいてくれて、ありがとう」
季節が、少しだけ進んでいた。
窓から入る風がやわらかくなって、制服の袖を揺らす。
なのに菜乃葉の中では、時間がずっとあの日のまま止まっている。
雫がいなくなった日。
かんなが壊れていった日。
そして、奈央の目を見た日。
教室にいるだけで、呼吸が浅くなる。
周りの声が遠くなる。
黒板の文字が読めない。
気づけば、何も考えられない時間が増えていた。
それでも、蒼だけは変わらなかった。
朝、「おはよう」と言ってくれる。
昼、「一緒に食べよ」と声をかけてくれる。
放課後、「図書室行こ」と笑ってくれる。
その優しさが、菜乃葉には眩しすぎた。
「無理しなくていいよ」
ある日、蒼が静かに言った。
「話さなくても、ここにいるだけでいい」
その言葉に、菜乃葉の目が熱くなる。
何もできない自分を、責めないでいてくれる人。
その存在が、逆に苦しかった。
ある日の帰り道。
後ろから声をかけられた。
振り向くと、奈央が立っていた。
「最近、蒼とずっと一緒だよね」
その言い方が、ひどく冷たく聞こえた。
「別に、普通だよ」
そう答えると、奈央は少し笑った。
「菜乃葉もさ、なくなればいいのに」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
奈央はそれ以上何も言わず、通り過ぎていく。
足が震えた。
心の奥が、ゆっくりと崩れていくのが分かる。
数日後。
蒼が言った。
「気分転換に、どこか行こう」
菜乃葉は少し考えてから、頷いた。
海に行こう、と自分から言った。
理由は分からない。
ただ、広い場所に行きたかった。
何もない場所に。
海は、静かだった。
波の音だけが、一定のリズムで響いている。
人も少なくて、空も広い。
二人で砂浜を歩く。
足跡が並んでついていく。
「綺麗だね」
蒼が言う。
「うん」
風が、髪を揺らす。
その時間が、とても穏やかで、優しかった。
だからこそ、菜乃葉は決めてしまった。
ここで終わらせようと。
蒼と過ごすこの時間を、最後にしようと。
海を見つめたまま、菜乃葉は言った。
「蒼」
「ん?」
「これまで一緒にいてくれて、ありがとう」
蒼は少し笑った。
「なに急に」
その声が、優しくて、泣きそうになる。
振り向かない。
振り向いたら、決心が揺らぐ気がした。
一歩、前に出る。
足元に、波が触れる。
冷たい。
でも、嫌じゃない。
「菜乃葉?」
蒼の声が、少しだけ遠くなる。
もう一歩。
水が、制服を濡らす。
「菜乃葉、待って」
その声を聞きながら、菜乃葉は空を見た。
青くて、何もなくて、広い。
――これでいい。
心の中で、そう呟く。
体を、海に預けた。
波の音が、大きくなる。
視界が、ゆっくりと揺れていく。
最後に浮かんだのは、図書室の窓際の席と、蒼の横顔だった。




