第1話 「両思いという名前の距離」
春の光は、やさしいくせに残酷だ。
校舎の白い壁を照らし、窓から差し込む光が教室の床に四角く落ちるたび、世界がやけに綺麗に見えてしまうから。
一色菜乃葉は、その光の中でぼんやりと窓の外を見ていた。
グラウンドでは体育の授業が始まっていて、笛の音と、どこか楽しそうな笑い声が聞こえてくる。けれど、その音はどこか遠くて、まるで自分だけが別の場所にいるみたいだった。
「菜乃葉、聞いてる?」
横から顔を覗き込んできたのは、美凪蒼。
柔らかい声と、穏やかな目。いつも通りの、何も変わらない蒼。
それなのに、菜乃葉の胸はきゅっと締めつけられる。
「……聞いてるよ」
小さく笑って答えると、蒼も安心したように笑った。
それだけで、胸が痛い。
二人は、両思いだ。
けれど、付き合ってはいない。
付き合えない。
家庭の事情。
たったそれだけの言葉で片づけられるけれど、菜乃葉にとっては、どうしようもなく重たい現実だった。
蒼はそれを知っている。知っていて、何も言わない。
「関係だけでもいい」
蒼がそう言ってくれた日のことを、菜乃葉は忘れられない。
嬉しかった。けれど同時に、申し訳なくて、苦しくて、涙が出そうだった。
だから二人は、恋人じゃない。
でも、誰よりも近い。
そんな曖昧な関係を続けている。
「今日の放課後、図書室行く?」
蒼が聞く。
「うん、行く」
「じゃあ、いつもの席ね」
その“いつもの”が、菜乃葉にとっては宝物みたいだった。
昼休み。
教室は一気に騒がしくなる。
「菜乃葉ー! 弁当一緒に食べよ!」
元気な声でやってきたのは、水谷奈央。
明るくて、よく笑って、クラスの中心にいるような男子。
その後ろから、少し控えめに歩いてくるのが雨宮雫。
さらに遅れて、ドアのところでひらひらと手を振るのが幼なじみの小森かんな。
「今日もフルメンバーだね」
かんなが笑う。
このメンバーで昼を過ごすのは、いつの間にか当たり前になっていた。
机をくっつけて、弁当を広げて、他愛もない話をする。
好きなアイドルの話。
テストの愚痴。
先生のモノマネ。
奈央が笑い、雫がつられて笑い、かんなが少し遅れて笑う。
その光景を見ながら、菜乃葉は思う。
――この時間が、ずっと続けばいいのに。
何も起きないで、何も変わらないで、ただこのままで。
「そういえばさ」
奈央が箸を止めて言った。
「蒼と最近よく一緒にいるよね?」
菜乃葉の手が一瞬止まる。
「え、そう?」
「うん。なんか雰囲気違うっていうか」
雫がじっと菜乃葉を見る。
かんなは、どこか意味ありげに微笑んでいた。
「……別に、普通だよ」
ごまかすように笑うと、奈央はにやにやする。
「へー? 怪しいなあ」
その軽口が、妙にくすぐったい。
バレたら困るのに、バレたい気もする。
この気持ちが何なのか、菜乃葉自身もよく分からなかった。
放課後、図書室。
窓際の一番奥の席。
人があまり来ないこの場所は、二人だけの秘密基地みたいだった。
蒼は本を開いているけれど、あまり読んでいないことを菜乃葉は知っている。
菜乃葉も同じ。
ページはめくれるのに、文字は頭に入ってこない。
静かな空間に、時計の針の音だけが響く。
「今日、楽しそうだったね」
蒼が小さく言う。
「うん。みんなといるの、楽しいから」
「そっか」
それだけなのに、蒼の声は少しだけ優しかった。
沈黙が落ちる。
気まずくない沈黙。
むしろ心地いい。
ふと、蒼が言った。
「この時間、好きだな」
菜乃葉の胸が、ぎゅっと締めつけられる。
好きだと言われたわけじゃないのに、言われたみたいな気持ちになる。
「私も」
小さな声で答える。
目は合わせられなかった。
窓の外では、夕日が校舎を赤く染め始めていた。
その光の中で、二人の影がゆっくりと伸びていく。
恋人ではない。
けれど、誰よりも近い。
そんな関係が、確かにここにあった。
菜乃葉は、その時間を噛みしめるように、静かに息を吐いた。
――このままでいい。
このまま、何も変わらなければいい。
そう、心のどこかで強く願いながら。




