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牢漫飛行  作者: びわこ
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底に落ちた男

イーヴォ・ラグナーが帝国兵に志願したのは十八のときだった。

故郷の田舎町では働き者で評判の青年で、剣の腕にも自信があり、誰よりも前を向いていた。


出発の日、彼の瞳は輝いていた。

まっすぐで、濁りのない、未来そのものを見据えた生きた目だった。


「帝国を守る立派な戦士になってみせる!」


――だが、配属先は地下牢番だった。


 


囚人の息が絶えるのを見届け、死体を片付け、

魔獣や亜人の残骸を焼却する。

血と腐臭と絶望が日常で、夢も理想も塩のように溶けて消えた。


牢は帝都の地下深く。

陽の光は一筋も差し込まない。

湿った石壁、煤けた松明、金属と汗と血の臭い。

朝と夜の区別は、遠くの鐘の音でしか知ることができなかった。


牢の入り口は厚い鉄扉で外から施錠される。

イーヴォは牢の中に“入る側”だった。

囚人を見張る立場でありながら、自分も閉じ込められている。

「見張る者」ではなく、「見張られながら見張る者」。

そんな矛盾の中で三十年を過ごした。


 


毎朝、囚人たちの食事と水を配り、

昼は死体を運び、夕刻には血の染みた床を洗う。

夜は松明の火が尽きるまで、ただ壁を見ていた。


何かを考えることも、もうなかった。

代わりに耳が覚えたのは、囚人の呻き声、骨を砕く音、腐肉を焼く焦げた匂い。

夜中に滴る水音だけが“生きている証”のように響く。

それが、彼にとっての子守唄だった。


 


一年で誇りは薄れ、十年で感情は鈍り、二十年で笑顔を忘れ、三十年で瞳は死んだ目になった。

同僚は戦死か出世。

地下牢だけが、彼の生きた証だった。


(……俺はまだ生きている。

だが、生きているだけだ)


唯一の心の支えだった同郷の友、ロイが戦死したと聞いたのは数日前。

報告書には「名誉ある死」とだけ。

イーヴォは笑い、そして何も感じなかった。


 


そんな日々が続いたある夜、鉄扉が乱暴に開いた。

護送兵たちが笑いながら濡れた布の塊を引きずり入れる。

一人が吐き捨てるように言った。


「もう虫の息だが、まだ生きてはいる。好きにしていいぞ。死んだら処分しろ」


砕けた鎧、赤茶の髪、泥と血に塗れた顔。

囚人番号四七――ヴァレリア。


護送兵たちは下卑た笑いを残して扉を閉め、

重たい錠前の音が響く。

その音は、囚人だけでなく、イーヴォ自身の自由を閉ざす音でもあった。


 


こういうことは、何度もあった。

見慣れているはずだった。

それでも胸の奥がざらついた。


かつては欲に溺れた夜もあった。

街で娼婦を買い、牢では若い女囚を“取引”の道具にした。

飢えや恐怖につけ込み、見返りに食料や布切れを与える。

兵たちと同じ腐ったやり口。

それを「仕方のないこと」と言い訳してきた。


だが、夜が更けると胸の奥が妙に重くなった。

その重さを“慣れ”という鎧で覆い隠してきた。

それが三十年の重みだった。


 


けれど、目の前の女は違った。

屈辱と血に塗れていても、安い娼婦や囚人にはない気高さがあった。


欲望が胸を熱くしたのは確かだ。

だがそれは、罪悪感の炎でもあった。


(俺は、また同じことをしようとしているのか?

三十年も経って、まだ何も変わっていないのか?)


鉄格子の前に膝をつき、ヴァレリアの顔を覗き込む。

月光が彼女の頬を照らした。


そして――イーヴォは気づく。


彼女の目が、生きていることに。


死にかけていながら、折れていない。

泥にまみれながらも、濁っていない。

その瞳の奥には、まだ火があった。


その光が、まるで鏡のようにイーヴォの心を照らした。

そして彼は見た。

自分がこの三十年でどんな人間になったのかを。


胸の奥が痛む。

(……こんな目で、俺を見ないでくれ)

そう思った。

だが、視線を逸らせなかった。


 


桶に水を汲み、杯に注ぎ、鉄格子越しに差し出す。


「……飲めるか」


ヴァレリアはゆっくりと杯を受け取り、喉を湿らせた。

息を整えながら、低く笑う。


「滑稽だな。死人が死人に水をやるなんて。

……でも、その水で、少しだけ息が戻った気がする。

――ありがとう」


その声は掠れていたが、確かに温かかった。


イーヴォの胸の奥で、何かが音を立ててほどけた。

三十年、誰かに“ありがとう”と言われたことなどなかった。

ましてや、それが死にかけの女の口からとは思いもしなかった。


“ありがとう”――その一言が、今まで覆い隠してきた罪の重さを、皮肉なほど優しく掘り起こす。


言葉は出なかった。

ただ、胸の奥にぽっと灯った小さな温もりを感じていた。


それは、欲でも打算でもない。

長い闇の底で凍りついていた心が、ほんの少しだけ――生き返ったような感覚だった。


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