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井戸に棲む嫁

都会を離れ、念願の古民家カフェを開いた夫婦。庭に残された古い井戸は、店のシンボルだった。しかし「井戸から声が聞こえる」という噂が立ち始め、妻が興味本位で井戸を覗いてから、その様子は一変する。水ばかりを異常に欲し、井戸のそばから離れなくなった妻。その体は次第に人間ではない何かに変貌していく。

コンクリートジャングルでの息苦しい生活に終止符を打ち、僕たち夫婦、和也と美咲は、長年の夢を叶えた。穏やかな里山が広がる町の外れに、築八十年を超える古民家を買い取り、リノベーションを施して、カフェ「木漏れ日」をオープンしたのだ。太い梁が走る高い天井、囲炉裏を残したテーブル席、そして、手入れされた庭。僕たちの理想が、そこに詰まっていた。

庭の片隅には、苔むした石造りの古い井戸が、まるでこの土地の記憶を守るかのように、静かに佇んでいた。不動産屋からは「危険なので埋めた方がいい」と勧められたが、美咲が「このお店のシンボルにしたい」と言って聞かなかった。結局、万が一の事故を防ぐために、重い木製の蓋を誂えてもらい、固く閉ざしておくことで決着した。

カフェの評判は上々で、週末には遠方からのお客さんも訪れるようになった。常連客もつき始め、穏やかで満ち足りた日々が流れていく。そんなある秋の日の午後、カウンターでコーヒーを淹れていると、常連客の一人である地元の老人が、声を潜めてこう言った。


「マスター、知ってるかい。ここの井戸、昔から『嫁取り井戸』って呼ばれてるんだ。夜になると、中から女のすすり泣く声が聞こえるって噂でね。その声に魅入られた家の嫁さんが、おかしくなっちまったって話だよ」


もちろん、僕は愛想笑いを浮かべて聞き流した。古民家にありがちな、客寄せのためのスパイスのような怪談話だろう。その話を後で美咲にすると、彼女は「素敵じゃない!お店のミステリー要素になるわね」なんて言って、瞳を輝かせていた。彼女のそういう、少し無邪気で好奇心旺盛なところが、僕は好きだった。あの時、老人の話を一笑に付さず、もっと真剣に受け止めていれば。後悔だけが、今は胸に突き刺さる。

その数日後、僕が町のスーパーへ仕入れに行っている間に、事件は起きた。店に帰ると、美咲が、普段の彼女からは想像もつかないほど興奮した様子で駆け寄ってきたのだ。


「和也さん、すごいのよ!あの井戸の蓋、開けてみたの!」


「はあ!?何を言ってるんだ、危ないだろ!」


「大丈夫だって!中を覗いたらね、ひんやりした空気が上がってきて…底の方は暗くて見えなかったけど、水がまだ綺麗に溜まってるみたいだった。キラキラしてて、すごく綺麗だったのよ」


彼女の頬は紅潮し、その目は井戸の暗がりに魅了されたかのように、うっとりと潤んでいた。僕は、二度とそんなことはするなと彼女を強く叱ったが、美咲はどこか上の空で、僕の言葉が届いていないようだった。

そして、その日から。僕の愛した妻、美咲は、少しずつ、しかし確実に、人間ではない何かへと変貌を遂げていくことになった。

最初の異変は、彼女の異常な水分摂取だった。元々、美容のためにと水をよく飲む方ではあったが、そのレベルを遥かに超えていた。常に大きなガラスの水差しをテーブルに置き、まるで喉の渇きが決して癒えることがないかのように、一日に何リットルも、ただの水をがぶがぶと飲み続けるようになった。僕が心配して声をかけても、「体が欲しがるの」と笑うだけだった。

次に、味覚が変わった。彼女が作る料理は、以前は繊細で優しい味付けだったのに、いつからか、水分量の多い、水っぽいものばかりになった。スープや煮物は出汁の味が薄まり、サラダには水気の多い野菜ばかりが使われる。そして、彼女自身は、固形の食べ物をあまり口にしなくなり、食事中もひたすら水を飲んでいた。

そして何より、彼女は井戸のそばにいる時間が圧倒的に増えた。店の休憩時間になると、決まって井戸の縁に腰掛け、何を考えているのか、蓋の上からじっと動かない。話しかけても、返事はどこか虚ろだ。


「あの井戸が、私を呼んでいるような気がするの」と、彼女は一度だけ、ぽつりと呟いた。


「美咲、どうしたんだ。最近、本当におかしいぞ。一度、病院で診てもらおう」


ある日、僕は耐えきれずにそう切り出した。すると彼女は、ゆっくりと僕を見て、静かに言った。


「おかしいのは、あなたの方よ。どうして、あんなに素敵なものを、怖がるの?」


彼女の肌が、心なしか青白く、常に潤いを帯びてきているように感じたのは、気のせいではなかった。指先はいつも水に濡れたようにひんやりと冷たく、彼女の体からは、ほのかに苔のような、土のような、湿った匂いが漂うようになっていた。

恐怖が、僕の心を支配し始めていた。これは、ただの体調不良ではない。あの井戸が、美咲を蝕んでいるのだ。僕は、地元の図書館で、この土地の古い郷土史を調べた。そこには、あの老人の話と合致する、短い記述があった。『…この地の旧家の嫁、井戸の怪異に魅入られ、水死体となって発見さる。以来、この井戸は固く封印される…』。背筋が凍る思いだった。

決定的な夜が訪れた。夜中、ふと物音で目を覚ますと、隣に寝ていたはずの美咲がいない。嫌な予感が全身を駆け巡り、僕は慌てて家の中を探した。そして、庭に出て、信じられない光景を目撃した。

美咲が、パジャマ姿のまま、あの重い井戸の蓋を開け放ち、釣瓶で何度も何度も水を汲み上げ、それを歓喜の表情で頭からかぶっているのだ。月明かりに照らされたその姿は、神聖ですらあると同時に、常軌を逸していた。


「美咲!やめろ!何をしているんだ!」


僕が駆け寄ってその腕を掴むと、彼女はゆっくりと振り返った。その顔は、もはや僕の知っている美咲ではなかった。瞳は、光を吸い込んだ井戸の水底のように昏く、濁っている。そして、微笑む口元からは、飲んだ水がだらだらと絶え間なく滴り落ちていた。


「気持ちいいのよ、和也さん。やっと、私の体が、本当にあるべき姿に満たされていくわ」


その声は、水中で響いているかのように、くぐもって聞こえた。

翌朝、僕は業者を呼んだ。井戸を、完全に埋めてもらうことにしたのだ。事情を知らない作業員たちがトラックで到着すると、美咲は「やめて!私のものを奪わないで!」と泣き叫び、狂ったように彼らに掴みかかろうとした。僕は、必死で彼女の体を押さえつけた。その体は、驚くほど冷たく、ぬるりとしていた。

土砂が、轟音と共に井戸の暗い口へと流し込まれていく。あの、僕たちの幸せを吸い込んだ闇が、少しずつ塞がれていく。その光景を、美咲は僕の腕の中から、全ての希望を失った顔で、ただ黙って見つめていた。

その夜、美咲は一睡もしなかった。部屋の隅で膝を抱え、「水が…水がない…乾いてしまう…体が、乾いて、ひび割れてしまう…」と、壊れたレコードのように、同じ言葉をぶつぶつと呟き続けていた。

翌朝、僕が目を覚ました時、彼女の姿はベッドから消えていた。家中を探し回った。店の中も、庭も、どこにもいない。最後に残されたのは、浴室だった。僕は、祈るような気持ちで、そのドアノブに手をかけた。

そして、僕のささやかな幸せは、完全に終わりを告げた。

浴槽には、なみなみと水が張られている。そして、その水の中に、美咲が、服を着たまま、静かに沈んでいた。

しかし、それは、もはや人間と呼べるものではなかった。

体は、水を吸いすぎて、異様に白く、ぶよぶよに膨れ上がっている。皮膚は半透明になり、その下の骨や内臓がぼんやりと透けて見えそうだ。豊かな黒髪だったはずの頭髪は抜け落ち、まるで水草のように、ゆらゆらと水面に漂っていた。

僕の気配に気づいたのか、その「何か」は、ぎしり、と軋むような音を立てて、ゆっくりと顔を上げた。そして、かつて美咲だったはずの口が、ごぽり、と気泡を吐き出しながら、開いた。

「ああ…和也さん…やっと…見つけたわ…私だけの、井戸…」

それ以来、僕が一人で暮らすこの家では、昼夜を問わず、どこからか、ぽたん、ぽたん、と水が滴る音が、聞こえ続けている。

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