第10話 俺だったら
(エドガーがどうしてここに)
突然のこと過ぎてアンドレアは言葉を失った。
「ようこそ、我が商会へ」
呆然と立つアンドレアに、エドガーは片手を伸ばしてくる。
握手を求められたのだと、とっさに手を差し出した。
自分とは違う大きな手がアンドレアの細い手をがっちり掴む。
力強い熱に戸惑って、アンドレアは無意識に手を引こうとした。
簡単に握手は解け、長い指先がこの手のひらをなぞりながら離れていく。
(本当にエドガーなのよね……?)
何しろ顔を合わせるのは数年ぶりのことだ。
一方的な婚約破棄は人を使って事務的に伝えられ、花嫁姿を見せることもなく関係は書類一枚で断たれてしまった。
この胸の痛みは罪悪感だろうか?
最終的にポールに嫁ぐことを決めたのはアンドレアだ。
だがケラー家から契約不履行の賠償金が支払われ、エドガー側シュミット家も納得してそれを受け取った。
婚約は既に過去のものとなり、すべてが円満に終わったことだった。
「どうぞおかけください。わざわざご足労いただかなくても、呼び立てがあればこちらが出向きましたのに」
促されて元の位置に座ると、向かいのソファにエドガーも腰を下ろした。
来る前の威勢はどこへやら、他人行儀なエドガーを前にアンドレアは何を言えばいいのか分からなかった。
(もしかしてエリーゼからライラのことを聞いたのかしら)
ケラー侯爵家に里帰りしたとき、義姉のエリーゼは弟のエドガーと一度話をすると約束してくれた。
婚約者のライラをポールに寝取られたと聞いて、早速探りを入れにきたのではないだろうか。
(だとすると、ポールを誘い出そうとして、わたくしがやってきたからエドガーも驚いたんじゃ……)
しかしエドガーは先ほど、アンドレアを見て「待ちかねた」と口にした。
まるで自分が来ると知っていたかのような口ぶりだ。
正面に座るエドガーからは、感情をまったく読み取れない。
ここへ来た目的も忘れて、アンドレアはただ困惑して座っていた。
「早速ですが、シュナイダー夫人。交渉を始めてもよろしいですか?」
「えっ? え、ええ、もちろんよ」
少々間の抜けた返事に、エドガーの顔が僅かに笑いを含む。
それに気づいた途端、アンドレアの負けん気に火がついた。
「シュナイダー家とは長年取引を続けてきましたが、この火薬の値は十年以上も前に決められたもの。そろそろ見直しが必要な時期かと思いましてね」
「だからと言ってこの値段は法外過ぎるわ! いくらなんでも適正価格を無視し過ぎよ。商売をする気があるならきちんと市場価格を調査すべきではなくて?」
目の前に件の見積書を広げられては、アンドレアもおとなしくなどしていられない。
気づけば仕事モードに入り込み、エドガー相手に白熱した議論を交わしていた。
「では今後はこの値段設定で。シュナイダー家もこれでご納得していただけたということでよろしいですね?」
「ええ、いいわ」
「それでは正式な契約書は後日こちらから送らせていただきます。今後ともどうぞご贔屓に」
再び握手を求めてきたエドガーに、アンドレアは冷たい視線だけを返した。
「この値でいいのなら、わたくしだってすぐに再考したわ。なぜわざわざあんな馬鹿げた見積もりを出したというの?」
「貴女を表に引っ張り出すためですよ。あのくらいのことをしなければ、交渉は下の者に任せていたでしょう?」
「それはそうだけど……」
飄々としたエドガーの真意が掴めない。
ただこの様子では、まだライラのことを知らされていないように思えた。
「では今日はこの辺りで。入り口までお送りしますよ」
手を取られ、アンドレアはゆっくりと立ち上がった。まるで夜会でエスコートを受けているような丁重な対応ぶりだ。
しかしほんの一瞬だけ不自然に強く引っ張られた気がした。バランスを崩したアンドレアは、そのまま毛足の長い絨毯に躓きそうになった。
「きゃっ」
「おっと危ない」
あわやというところでエドガーの腕に抱き留められる。
「誰だ? こんなところにこんなものを置いた奴は! シュナイダー夫人に何かあったら賠償責任くらいじゃ済まされないぞ!」
エドガーのせいで躓いたのにも拘らず、そんなことを言われたアンドレアはすぐさま抗議の声を上げようとした。
「何かあったら遠慮なく頼れ」
「え?」
ふいに耳元で囁かれる。
驚きで顔を上げたアンドレアは、真剣な眼差しのエドガーと至近距離で見つめ合った。
「俺だったらアンドレアの力になれる」
腰に回された手に力が籠められる。
言葉を返せずにいると、密着した体はすぐに離された。
「さぁ、全員で夫人のお見送りだ」
そのエドガーの一声で、商会の人間がずらりと並び出す。
それ以上は言葉を交わせないまま、アンドレアはシュナイダー家に戻るしかなかった。