入学5
医務室からの逃走に成功したラウルは、人気が少ない場所に向かって当て所なく進んでいった。ちなみにルベイエール学院は騎士学校の何倍も広く、初めて訪れたラウルに土地勘は全くない。
当然の結果として――
「……いかん、迷った」
頭を抱えるラウル。
未だラウルは、今後の段取りについてリアーナたちから詳細を聞いていない。学院長室に戻ろうにも、今自分がいる場所すら不明である。
仕方なく曖昧な記憶を頼りに元来た道を戻ろうとすると、見覚えのない奇妙な領域にまろび出てしまった。
そこでは、ラウルが住む国では珍しい竹林が一面に広がっている。静謐な空気が肺へと流れ込み、風に竹がそよいでさらさらと葉擦れの音がする。
ラウルが興味深げにその景色を眺めていると、竹林の奥へと続く細い道を発見した。さらに迷うリスクはあるが、この先に誰かいるかもしれないと判断してその道を進んでいくと、やがて小さな木造の家屋が姿を現した。そしてカン、カンと何かを強く叩くような打撃音が聞こえてくる。
ラウルは家屋を回り込みながら、音の出所である庭の様子を覗いてみた。すると、そこには一人の女性が佇んでいた。
ポニーテールの髪型。すらりとした長身。切れ長の瞳に凛とした表情。
学院の制服ではなく胴着と袴を纏った彼女は、木で出来た案山子のような人型の的に対し、木刀を連続で何回も振るっていた。剣撃の威力からして恐らく身体強化されていないにも関わらず、打ち込まれる木刀の速度は素早く、足の運びや身体捌きには無駄がない。
剣を操る技術には自信があるラウルの目から見ても、相当な腕前だと見て取れた。
「――何奴!」
突然、誰何の声と共に礫のようなものが飛んでくる。
「うわ――っ、つっ!」
ラウルは寸でのところで躱すことができたが、バランスを崩して尻餅を着いてしまった。
臀部に伝わる鈍い痛み。慌てて起き上がろうとしたところで、ラウルは己の喉元に木刀が当てられていることを理解した。冷や汗を掻きつつ、木刀を持つ目の前の女性をまじまじと見詰める。
「この竹林はわたしの管理する領域だ。無断で侵入するとは、お主どういう了見だ?」
「す、すみません。その、道に迷ってしまって、この先に誰かいないかと思ったもので……」
女性の剣幕に押され、ラウルは正直に答える。
「見ない顔だな。制服も真新しい……お主、新入生か?」
「はい。一応、そうなりますけど」
「成る程。まだ勝手がわからないというわけか。そういうことなら是非もなし。わたしが一先ず学生寮まで送っていってやろう」
「あ、ありがとうございます」
ラウルはほっと息を吐いた。見た目は少し怖いが、話の通じる相手で助かった。
差し出された女性の手を掴んで立ち上がる。所々に固いタコができており、ラウルにとっても馴染み深い剣を扱う者の手だ。
「自己紹介がまだだったな。わたしはアカネ・ジークリンデ。東方の国からの留学生だ」
「オレはラウル・ストレイリーと言います。新入生というか、厳密には今日転入してきたばかりで右も左もわかりませんが、よろしくお願いします」
「この時期に転入生? まだ新年度が始まって二週間ほどだぞ? 何やら事情がありそうだが……まあいい。それよりラウル。忠告しておくが、他者の領域に無断で立ち入るのはマナー違反だ。この学院に通うことになるなら覚えておくといい」
「他者の領域、ですか?」
道案内のために前を歩くアカネの背に、ラウルは問い返す。
「そうだ。例えばわたしの契約精霊クラミツハは、水と風を司る精霊だ。涼風が吹き抜ける草原や林、清流が流れ込む池や川といった領域は重要な意味を持っている。そこに見知らぬ人間が無断で立ち入れば、それは住居へ不法侵入する無法者と何ら変わりはしない。最悪殺されても文句は言えないということだ」
「っ! そこまで……」
ラウルはごくりと息を呑んだ。
思いの外自分が危険な状況だったと自覚し、背筋に冷や汗が流れる。
「ああ――それと、足元には十分注意をしてくれ。私の管理するこの竹林の中には、小さな池や川が点在している。場所によってはかなり滑りやすくなっているから、足を取られて転んだりしないよう気を付けるように」
「わかりまし――へぶぉっ!?」
言われたそばから、ラウルはぬかるんだ地面に足を滑らせてしまった。ドボン、と音を立てて小さな池に落ちてしまう。
「あ――……うむ。少し忠告するのが遅かったようだな」
アカネは少し困ったように頭を掻いた。
水深が浅いので溺れるようなことはなかったが、ラウルの全身はびしょ濡れになってしまった。髪や制服には泥や葉っぱがこびりつき酷い有り様である。このままでは風邪をひいてしまいそうだ。
「……仕方あるまい。一度引き返して我が庵に案内するとしよう」