トイレにて 留学生アンドルーの発見
「留学して一番驚いたこと?それなら決まってる――トイレのことだよ」
ブリテンから日本に留学して早くも一月。
十月の日本は急激な冷え込みの中にあり、気温の変化に体がついていかなくて体調を崩した。
ホームステイ先の神崎家の一部屋で横になってぐったりしている僕を、同じ大学生の誠人はものすごく丁寧に看病してくれた。
これで誠人が女だったら間違いなく惚れていた。男でも……ああ、いや、なんでもない。
体調がある程度回復し、熱も下がり、けれど今日一日は安静にしているように口を酸っぱくして告げる誠人の指示に従って、僕はベッドに横になっていた。
誠人が持ってきてくれた大学の講義資料がノートを読むのにも飽きて、何より横たわったまま行うようなものでもない。課題はたまっているものの、体力の落ちた体と、しばらく働かせていなくてさび付いた脳はそれ以上の勉強を拒絶していた。
暇だと繰り返しぼやいたからだろうか。
誠人はややあきれながら読み進めていた本を閉じて僕の話し相手になってくれた。
同じ大学の同じ学部に通っているとはいえ、生い立ちの違う僕たちは、同じ経験をしながらも全く異なる見方をし、異なる糧として吸収しているのだから面白い。
例えば大学が主催したマイクロビットによるミニハッカソン。加速度センサによってリアルタイムで動きを評価する機械学習を用いた開発発表の場、僕たちは当然のことながら全く異なるアプローチでアイデアを形にした。
僕は単純に、この技術で実際に事業を起こすならどうするかという観点から考察を進め、床ずれ判断システムを作った。二時間以上同じ部分が圧迫されるとそこの体組織が壊死する。ならば100分ほど同じ体勢のままであるか判断すればいい。
そういうわけで、僕は学習段階で与えられた基本のコードを書き換え、動作部分を「横たわる」「仰向け」「うつ伏せ」「座っている」などと設定し、マイクロビットの感知に合わせてその体勢のイラストを提示するようにした。そうして100分経過するとパソコン画面にアラートが鳴るものになった。
自分ごとながらよくできたと思っていた。
対して誠人は動きを検知するのではなく、逆に「動かない」ことを検知する方法で開発を行った。
ウェイターなどの研修用プログラム。運ぶ料理などをいかに動かさずに運べているか、腕に取り付けたマイクロビットで検知して、その能力を評価する。
正直、動くのではなく動かないことに主眼を置いた誠人のアイデアは目から動きで、そんな方法もあるのかと舌を巻くばかりだった。
他にも、同じ講義内での注目した部分や、同じ指示に対する考えなど、僕たちはとにかく異なった。
違うこと。それが面白くて、いつからか僕たちは互いの経験を語る機会を設けるようになった。
そのせいか、他の留学生たちよりもずっと、僕たちは仲良くなることができ、互いに隔たりがなくなった。
ついでに日本語能力が急激に上昇したのもうれしいところだった。もっとも、僕と話すことで英語を身に着けようとしていたらしい誠人は、やや拍子抜けした様子だったけれど。
今日もまた話が弾んで、そうして誠人はふと思い出したように僕に聞いてきたのだ。
すなわち「留学して一番驚いたことは?」と。
僕は少しも考えずに答えた。対する誠人の反応は、変な人を見るようなもの。
「……トイレ?」
「そう。ブリテンのトイレって知ってる?」
「いや。行ったことないし」
留学生を受け入れるくらいには国際性のある誠人だけれど、生まれてこのかた国外に出たことはないらしい。そもそもアウトドアなタイプでもなくて、あまり遊びに出かけるということもない。
何しろバイトだってタイプライターを選択して自宅に引きこもる始末だ。僕も最初のころは町の案内だ何だと誠人を外に引っ張り出したけれど、今ではすっかり誠に染まって出不精になってしまっている。
誠人に染まったって、彼氏彼女じゃないんだから……。
「ブリテンに限らないだろうけれど、日本ほどトイレ事情に恵まれている国はないと思うよ」
ある程度大きな公園はもちろん、あちらこちらに公衆トイレがあって、しかも無料で使える。備品もしっかり置かれている、なんて日本以外に一体どんな国で現実のものになっているのか。
最初にパーキングエリアのトイレに出会ったときは驚愕したものだ。
「そんなものか?」
「そうだね。例えばブリテンの公衆トイレは有料だよ。入り口に人がいるか、あるいはコインを入れてゲートをくぐるわけだね。あと、お店なんかでも、トイレの扉はダイアルでロックされていて、店の人に番号を聞くようになってるんだ。しかもその番号も日によって変わったりしてね」
おかしいだろ、という顔をしているけれど、おかしいのはむしろ日本人だと思う。
「それはやっぱりあれか、水の豊かさか?」
「まあそれもあるんじゃないかな」
日本ほど雨や川が多い国は珍しいと思う。国のあちこちに大きな川があって、水に困らない。浴槽いっぱいのお湯を毎日普通に使うなんて、中々剛毅だよね。
まあ、水さえあれば無料のトイレが増えるかっていえば、また少し違うのかもしれないけれど。
「単純に管理・維持費にお金がかかるっていうのは大きいよね。あとはテロ対策だっていうのは聞くよね。トイレに爆弾を設置、とか」
「テロ、な。日本ではあまり危惧されない話だな」
「テロに限らず、事件が起きる可能性はあるよね。あと、ホームレスが住み着いたり、衛生面が問題になったり」
トイレ一つで大騒動だ、とあきれたように息を吐く。
そんな誠人はしばらく目を閉じて何かを考え、やがて「そういえば」と口を開く。
「アンドルーが日本の無料トイレが一番驚いたっていうことから始まったのか……ずいぶん壮大な話になったな」
「ん?……ああ、驚いたのはトイレのことだけれど、無料のが多いっていうことじゃないよ」
眉をひそめた誠人ににらまれる。そんなことをされる覚えはないっていうか、ただ誠人が勘違いしただけなのにひどい。
「まあこれまでの話だって関係ないわけじゃないんだよ。特に、日本人は自分たちのトイレ事情が、水事情が恵まれているってことをあまり実感していないってところが」
「……まあ、実体験として困ったことがないと、あまり豊かさに感動を覚えるようなことはないよな」
生まれ育った土地やその文化に、人は大いに影響を受ける。逆に、その社会に特異な文化があったり、逆にある情報を制限されて育てば、人はたやすく洗脳される。
それはさておき、そうした日本の豊かさを理解できずに育っている学生の姿を僕は見てしまったのだ。
「最近鼻をすすっている人が多いでしょ?」
「ああ。季節の変わり目のせいか?寒暖差で自律神経のバランスが崩れて鼻水が出るんだったか」
「それもそうだけれど、花粉症の可能性もあるよね。ええと、ブタクサとか、イネ科のカモガヤとか」
「よくそんな名前を知ってるな」
「何を隠そう、僕もイネ科の花粉症持ちだからね」
コロナとインフルエンザが流行っているためにまだマスクをしている人が多くて埋没しているけれど、僕がマスクをしているのは病気予防ではなく花粉症対策なのだ。薬を飲んだうえでマスクをしないと、鼻水で講義に身が入らない。
まあ、花粉症の薬のせいで鈍脳になって講義内容が頭に入らないし、何よりこうして体調を崩したせいで鼻水が止まらないのだけれど。
鼻をかんだティッシュを、誠人が近くに引き寄せてくれたごみ箱に投げ込む。
「それで話を戻すけれど、僕が多分日本で一番ショックを受けたのって、トイレで鼻をかむ学生のことなんだよね」
「…………鼻をかむ音が迷惑になるからって、わざわざトイレに行くのか?」
「誠人ってそういうあたり全く気にしないよね」
「トイレも屁も生理現象だろ。それに眉を顰める連中がいるのが信じられない」
「僕はそうは思わないけれどなぁ」
例えば講義中に鼻水が止まらなくなって何度も鼻をかんでいるとひどくうるさそうな目で見られる。あと、鼻をかんだ後の手で相手に触れようとして「さっき鼻をかんでいた手だよね」と言われたこともある。別に手に鼻水がついているわけでも、鼻を指でほじっていたわけでもなくて、汚くないのに。
日本人は潔癖すぎるんだ。あるいはだからこそ無料トイレが多いのかもしれない。
「まあその男子生徒がトイレで鼻をかんでいた理由は、決して一目につかない場所で、かつ手を洗える環境だからってだけじゃないんだよ」
手のひらを突き出されて、僕は少しにやにやしながら言葉を止める。
誠人のシンキングタイム。時々彼はこうして話を遮って、自分で答えを探そうとする。いい頭の体操になるのだと言っていたけれど、どうなのか。
今のところ彼が正解を引き当てる確率は二割ほど。果たして今日は正解に至るのか、それとも僕が勝つのか――勝敗を競うものでもない気がするけれど。
「だめだ。ギブアップ」
人目につかないところで鼻をかむため以外の理由は思いつけなかったらしい。まあ、僕もそれを見るまで、そんなことをする人がいるとは思っていなかったから仕方がないかもしれない。
もったいぶるように大きくうなずけば、誠人はせかすように人差し指で組んだ腕の肘あたりをトントンと叩き始める。
「答えはね――トイレットペーパーを求めてだよ」
「ああ、ティッシュを持っていないわけか」
「うん。男子だからか知らないけれど、みんなポケットティッシュを持ち歩いていないみたいだね」
「そういうお前だって、ポケットティッシュは持ち歩いていないだろ」
鼻をかむことが多いから、僕が持ち歩くカバンにはいつだってボックスティッシュが入っているのだ。性格にはビニールパックティッシュだろうか。最近ではボール箱ではなくビニールに入ったエコをうたうティッシュもあって、持ち歩きやすさが向上した。箱ってかさばるんだよね。
「ポケットティッシュを持ち歩いていることもあるよ。誠人だって持っているでしょ?」
「ポケットには入れていないけれどな」
カバンに入れていようがポケットの中にあろうが、ポケットティッシュはポケットティッシュだ。
「で、トイレットペーパーで鼻をかむのが普通なのか?俺もすることはあるぞ」
「うん。僕もあるよ。ただ、衝撃だったのは鼻をかむためにトイレにきて、トイレットペーパーで鼻をかんだ学生が、そのごみを便器に投げ捨てて流したことなんだよ」
トイレにきて、トイレをせず、使ったトイレットペーパーを流す。たくさんの水を使って。
なんて贅沢な生き方をしているんだろうと、心からあきれたものだ。
ティッシュを持っていれば、あるいは持っていなくても、鼻をかんだ紙はごみ箱に捨てればいい。僕たちが通っている大学ではたいていトイレの入り口横にごみ箱があるわけで、出て行ってそこに捨てればいいのに、丸めたトイレットペーパーをわざわざ流すのだ。
「驚かない?少なくとも僕は驚いたよ」
「確かに驚いたな。トイレットペーパーだけを流す……そういうことを聞いていると、一人ひとりの小さな努力がエコにつながるとかいう標榜も正しく思えるな」
ああ、使わない時は電気を消しましょう、ってやつ。確かにその家の電気料は減るのかもしれないけれど、発電量は変わらないわけで、あまり意味はないんだよね。そんな電気量は、余剰分の発電のごく一部に過ぎないだろうに。みんなが常に気を付けて電気をこまめに消すのなら、必要な発電量自体が低下するから効果はあるのかもしれないけれど。
「……やっぱり、アンドルーは俺には見えていないものが見えてるんだな」
「そうだね。でも、僕に見えていないことを誠人は見えているよね」
「どうだか、な。まあ、お前と出会えてよかったよ」
「…………僕の方こそ、受け入れてくれてありがとう」
恥ずかしいことを平然と口にできる誠人は、枠にはまった謙虚な日本人からはひどく遠くにいるように見える。
けれどそんな誠人とだからこそ、僕のホームステイ生活はこれほどに楽しくて、そしてこれからも新たな発見と驚きに満ちているのだ。
僕の気恥ずかしさに気づいたのか、誠人はじっと僕の顔を見つめて。
それから、声をあげて笑った。
この確信犯め。負けたことがそれほど悔しかったのだろうか。
僕はすっかり自分が体調不良であったことを忘れていた。
わちゃわちゃともみ合いになり、体力の低下がたたって、僕は再び熱を出した。
ついでに誠人は、彼のお母さんに怒られていた。
うん、喧嘩両成敗だ。