箱、トラそしてウサギ
ひとつ、箱があった。
「開けますか? 開けますよね?」
「その声は、マイハニー、つききハコではないか?」
静かに響き渡る声に、ナバノ士郎は問いかけた。
全裸で。
「いいですか。ハコはぁ、ナバノくんとぉ、そぉいうんじゃ、ないんだぞッ」
噛んで含めるように、そして間延びしたように、つききハコに似た声が響いた。「ないんだぞッ」のフレーズがひときわ強い。
ナバノは辺りを見回したが、ハコらしき声はすれども、ハコの姿は見えない。
そしてナバノの服も見えない。
見えないというのは、服を着ている感触があるのに目には見えないという、王様の耳がロバの耳的なアレではなくて、探しても見当たらないという意味の「見えない」です。
ナバノの視線の先に、ただただ、白い空間が空虚に、遠くまで広がっていた。
ひとつ、箱がある――(ということは、服はないということである)。
「で、どうするの?」
三度目の声を耳にして、ナバノは箱に目をやる。
――ここから声がしてるんだろうけど。
ひとつの箱であった。
薄い茶色の一抱えほどの箱であった。
「開けても平気なもんですかね? いやまぁ、大丈夫という体で聞いてるんでしょうけどね。にわかには信じがたいなぁ。爆発するかもしれんよね」
「ナバノくんは、ハコのこと疑うの?」
酷いわ酷いわと、ハコに似た声が非難の声をあげる。
「マイハニーのことは信じられるけどね、箱のことは信じられないし、こんな状況も信じられないし」
ナバノは答えた。
全裸で。
――狭い居室でもないのに声が反響してやまない白い空間。
――人語を解する箱。
――一糸まとわぬ、生まれたままの自身の姿。
――そして、異様な状況を頭では異様と認識するが、肌感覚としては異様と感じない認知の歪み。
「でも、夢って感じもしないんだよなぁ」
現実ではないだろうけどと、ナバノが零した言葉に、ハコに似た声が応える。
「夢がかなったらぁ、それはもう現実だもんね。人前でぇ、裸になる夢がかなってぇ、よかったねぇ」
「どんな夢だよそれ」
現実ではなく悪夢である。
「開けましょう?」
ハコに似た声が、ナバノに箱を開けるよう促す。
「とても信じられないよな。大抵のお話だとさ、箱を開けるとロクなことにならないよね」
「ハコは信じられる箱よ」
信じられる箱とは一体?
「もくもくと煙が出て老人になったりしない?」
「しないわ」
「煙は出ない、と。奥の方に希望が?」
「希望も絶望も」
無いと。
「箱入り娘的な」
「そんな匣じゃないわ」
分厚い怪異小説の読みすぎよと、ナバノは言われた気がした。
「理由がわからないよ」
ナバノは首を振る。
「さぁ、心を開いて、ふたを開いて」
箱が箱ではなくて人型をしていたら、およそ両腕を広げて言いそうな台詞だった。
「一体どうなるのか?」
箱のふたに手をかけ、ナバノが呟くと、
「別に、ただ進むだけよ」
ハコの声が答えた。
ナバノは手を止めて箱を問い質す。
「進むって何が? 筋書き通りに進むってことかい?」
「時間が進むのよ」
「時間はもともと進んでいるだろう?」
非難めいた声をあげる。
「そもそも時間とは何でしょう。空間のように物理的な広がりをもったものなのでしょうか? 時間とは、前後関係に過ぎないのではないでしょうか。物事の経過に過ぎないのではないでしょうか。主観的な意識の流れに過ぎないのではないでしょうか。むしろ、内的な時間意識こそが時間の本来的なあり方だとは思いませんか。では主観とは何をいうのか。自我を構成すr――」
「オーケーオーケー。僕は2行までしか読めないし、そもそも全裸なんだ。話を進めよう」
「とっとと箱のふたを開けるのをすすめますね」
ふたにかけた手に力を入れ、ナバノは箱を開ける。
この場合、ふたを開けると言っても、箱を開けると言っても、どちらでも意味が通じるよねと、ナバノは思い当たったが、沈黙を保った。
ギギギギギォ。
ふたをゆっくり開けると、そこから少女が飛び出してきた! ということもなく、
「おめでとう」
ハコに似た声が祝福してきた。
「何が?」
「新年あけましておめでとうございます」
箱を開けたら、年が明けたという話。
箱は外身だけど、空間を外身と考えると中身ですよね。服は外身で裸は中身だけど、皮を外身とすれば、骨は中身だし、骨を外身とすれば内臓は中身ですよね多分。
つまり、全裸は全にして一であるらしい。