17話
『そ、んな……どうか―――』
『……これで、飲みもんは空になったな。代金は店持ちにしてやる。帰んな』
薄暗い店内で、おじさんの言葉に諦め悪くも言葉を告げようとすると、ジョッキに一杯の中身を浴びた。
まさに冷や水、ではないけどそんな気持ちで謝罪をつぶやき店を後にして、残ったのはエナジードリンクの少しケミカルな香りと、髪と肌のべたつき。
そして虚無感だけだった。
そのあとの事は、よく覚えてない。
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「クゥ―?」
「……朝、か」
服の中からのティアの一鳴きで、意識が浮上する。
見渡すと見慣れない路地裏の光景。夜中降っていた小降りの雨を遮るように被った段ボール。
どうやら座りながら眠っていたようだ。
「おはよう。ティア……良かった、濡れてない」
「ククッ」
胸元から顔を覗かせる、ふさふさと乾いた毛並み、温かい体温に安堵した。
いつの間にか外で一晩を越していたようだけど、無意識下でティアを雨風にさらさないようにしたその時の自分に感謝だ。
一方で、
「……寒い」
頭から肩にかけて不快なべたつきと湿り気。よくこんな格好で寝こけていたものだ。
「……学校」
目線を横にやると、朝においても暗がりな路地裏からまるで違う世界かのように、陽の当たる往来。見え隠れする雑踏に、思い出したように呟く。
「行かなきゃ」
『何のために?』『家に帰らなくていいの?』
漏らした声に、瞬時に自問する。
昨日の事がフラッシュバックする。
だけど、今までそう心に刻み込んできた習慣のようなものだけが、僕の体を動かして、通学路へと向かわせた。
(心配……してるよね……ごめんなさい)
楓さんへ合わせる顔がないことも、学校へと向かう背中を後押しした。
「クゥ~……」
服の中からティアの弱弱しい鳴き声。
同時に、
「……そうだね。お腹空いたね」
僕のお腹も空腹のサインを鳴らす。
「コンビニで何か買っていこうか」
「クキュ!」
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早朝の雑踏。
それらを眼下に見下ろす、その上空。跳躍、浮遊。視線を巡らせた先。
コンビニの自動ドアから出てきたその姿を視認。
「! いた……!」
見晴らしの良い屋上。
それらを飛び移り、遥か下方に居るとも知れないたった一人の人間の捜索。
常人ではまず不可能な御業は、目標を確認と同時に停止。
「灯真くん!」
そして、平静さを失った声色でその名を叫ぶとともに屋上の縁へと足をかけ―――
「コレ。落ち着かんか」
「っ!」
賑わい始める街並みの、人行き交うそこへ降り立とうとする、が。
跳躍の一瞬、手首を掴まれ引き止められる。
「雪、さん……」
「下には通勤通学の一般の人間が沢山おる。そんなところにいきなり飛び降りたら皆驚くだろう。お前さんらしくもない」
「……すみません」
襦袢から伸びる細腕、朝日を反射しそうな薄色の女性。
子供を諭すように言われて、直前にしようとしていた行為の危険性に気付く。
冷静さを欠いた視野の狭い今、歩行者と衝突する危険だってあった。
「……とりあえずは、見つかったのだな。あの少年は」
「はい」
コンビニの自動ドアをくぐり外へ出た少年は、手近なベンチへと腰を下ろし買い物袋を漁る。
「見たところ、怪我などしている様子はない。少しくたびれている様だが、野宿でもしたのか」
「あの。私、すぐに家へ連れ―――」
「やめておけ」
言い切る前に、否定の一声。
「ど、どうして、ですか?」
「……事は、子供の駄々だの、家出だの。そんな事ではない。今あの子は、人生の分岐点に立っている」
ここで、『我が家の問題』。
と、彼女の意見を突っぱねる事はできなくもない。だが、少年を想い仕える楓と共に、夜通しで街中を探し回ってくれた彼女に対し、そんな選択肢はみじんもあり得なかった。
「冒険者を目指し、自分の弱さを知って尚、諦めず、執念ともいえる今日までの研鑚。そして盲目的に進んできた今、大人の……いや、覆しようのない現実。理解していたつもりであった自らの、『無能』という烙印。それに打ちのめされ潰されそうになっている」
「それは、分かってます……昨日の結果はもう覆りません。ですから―――」
「『君の今までは無駄だった。後は私たちの言いなりになれ』。あの子に、そう言うつもりか?」
「……」
彼女の言葉、その気付きに、全身が強張る。
それと共に、掴まれた手首は解放された。
「私も、他人の事は言えない。こちらの、大人の都合で望むように引き込もうとした……だが、それでは、更にあの子へ突きつける結果となってしまう。圧倒的不利なスタートを強いられたあの子の努力は、お前さんが一番分かっているのであろう?」
「……」
「……この近くには、『裏』の入り口がある」
「灯真くんは、そこを訪ねた……?」
「分からない。だが、今そこは問題ではない。本来咎められる行為ではあるが、今重要なのは……彼は、まだ捨ててないということだ」
本当に、ただ冒険者になりたいだけなら、真に、なりふり構わぬ手段を取るなら。
自らが冒険者としての能力を有しなくても、その肩書を手に入れダンジョンへ同行する手段は、他にも存在する。
「それに縋らなかったということは、まだ彼自身、自らの『力』で冒険者になろうとしているということ。悪く言えば、本当の意味で自分に対する甘い希望を捨てられていない」
「それは……私は、どうしたら……」
「今は、見守るしかないだろう……私たち大人が無責任に手を伸ばすのは、それからでも遅くはない」
その言葉は、示されたスタンスは、
「灯真くん……」
「もし、静観することで状況が悪化してしまったら……私を恨め」
楓にとって身を裂かれるほどの忍耐を要することだった。




