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B・Bの向こう側へ  作者: 今田喜碩
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2001年5月3日 夕方

 プリントアウトされた書類を読んでいた堀井は頭を抱えた。自分でも知らず知らずのうちに呟く。


「あ~、こりゃ速見が腐るわけだ」


「速見君が、ですか?」


 レンタルビデオ屋のカウンターを挟んで座っている喜久子が反応した。二人の頭上にある時計の針は午後4時を示していた。


「うーん。プロレーサーになるにはどうしたらいいかって調べてたけど、調べれば調べる程、泥沼にはまっていく気がするよ」


「運転が上手なだけなら駄目なんですか」


「普通に運転が上手な人はいっぱいるよ。でもそこらのタクシーの運転手がF1に出たとか聞いたことあるかい?」


「いえ、F1自体知りませんし」


 元来そういう性分なのか、彼女は受け答えがサッパリしている。


「だよねぇ。でもアイルトン・セナとか、シューマッハとか鈴木亜久里って名前に覚えない? F1ブームの時にだいぶ有名になったと思うけど」


 喜久子は軽く目をつぶると、しばらくしてから思い出したように答えた。


「なんとなく覚えてます。男子の間で流行ってたような。たしか弟がゲームを持っていたと思います」


「惜しい。それは多分、中島悟のゲームだ。F1レーサーという括りでは合ってるけど」


「……それが速見くんとどういう関係が」


 喜久子は赤いセルフレームの奥から堀井を見つめた。


「モチベーションの問題らしい」


 堀井は眉根を揉みほぐしながら続ける。


「僕にはどうしても彼が不貞腐れて走っているようには見えないんだよね。でもある人によると、モチベーションが低いから本来の実力が出し切れてない、という事なんだ。ところで喜久子君、君には夢があるかい?」


「夢ですか? ……無いわけじゃないですけど」


「それがさ、もうすでに門前払いされていると知ったら、それでも夢を追い続けることが出来るかい?」


「夢を追いかけるに遅いも速いもないと思いますよ」


 ためらわずに喜久子は答えた。人生はいつだってやり直せる。夢を追いかけるのに遅すぎるという事はないはずだ。


 だがその言葉を予想してたように、堀井はため息をついた。


「うん、まあ、一般論としては正しい。でも、彼はそうじゃなかったようなんだ。年齢制限のある仕事があるように、彼もまた、手遅れだったんだ」


 堀井は顔を上げて喜久子の顔を見つめた。


「なんでしょう?」


「ドライブにでも付き合ってあげたらどうだい?」


「私、免許も車も持ってませんよ」


「速見のドライブに付き合ってくれって話さ。同級生だったんだから知らない顔じゃないでしょ」


「なんで。いきなりそうなるんですか」


 喜久子の顔が赤くなり、語尾が少し荒くなった。だが堀井は気にせずに天井を向いて投げやりに言い放った。


「走り屋の世界って見てきたけどさぁ、やっぱり男の方が多いんだよね。そりゃ女性の走り屋もいるって話だけど、まだ見たことがない。速見は真面目すぎてガス抜きが下手なタイプだから、女の子と気楽にドライブすれば、肩の力が抜けるんじゃないかなって」


「なら私じゃ駄目ですよ。私もガス抜き、下手な方ですから。なんにも喋ることもないですし」


 そういう喜久子は少しだけ肩を落としているように見えた。


「上手く笑うことが出来なくて、私は就職に失敗して、結局アルバイトですから」


「そうかい? 高校の時よりは柔らかくなったと思うよ」


「接客業してますから、それなりに慣れますよ」


「そうかい?」


 堀井は書類を鞄に詰め込むと、席を立ち上がった。


 見上げながら喜久子は尋ねた。


「今日も大沼に行くんですか?」


「いんや今日は行かない。人と合う約束してるんだ。もうそろそろ時間だろうから出発するよ」


 ビデオ屋から出ると堀井は自転車にまたがって大縄町に向かった。


 車ならば10分程度で到着するはずだが、自転車では速度に大きな差がある。結局20分程して目的の場所についた。


 時刻は午後4時50分。まだ陽はあるが、ほんのりと肌寒さを感じる。


 堀井は指定されていた喫茶店の中に入ると適当に窓際に座り、コーヒーを頼んでガラス窓の向こうにある店を見つめた。


『ボディショップ須藤』


 相川が務めている会社だ。


 昨日の帰りがけ、相川とメールアドレスの交換をして、大沼とは別の場所でゆっくり話をしよういうことになった。この喫茶店が相川の職場から一番近く、昼食を食べるためによく訪れるという。


 そこで待ち合わせという約束だ。


 暇つぶしに鞄から先ほどの書類を取り出す。インターネットで調べた、プロレーサーになる方法が記載されているものだ。


 再度、目を通しても、やりきれない気分になる。


 堀井自身は作家を目指しており、その修業の一環として大学で映像作家なるものをやっている。機会があれば演劇の脚本にも手を出してみたいところだ。


 このように堀井自身には未来があった。もし一つのなりたいものが無理だとしても、似たような近い道を選ぶという手段があった。


 だが、俊介は違った。これは、あまりにも救いがない。


 テーブルの上に注文したコーヒーが届き、ミルクを入れてカフェオレにする。スプーンでかき混ぜてから一口すすると、ため息をついた。


 30分程待っただろうか、ドアが開いてスーツ姿の相川が店に入ってきた。視線を巡らせてこちらを確認すると、片手を上げて挨拶をしてくる。


「車の修理もやってると聞いていたんですけど、今日はスーツなんですね」


「ああ、今日は事務作業がほとんどだったよ。車の修理が出来たからいつ取りに来るか確認したり、費用の見積もりを立てたり。まあ小さな会社だからなんでもやるさ」


 椅子に座りながら相川は答えた。カウンターにいる店主の方に視線を送ると、ナポリタンとコーヒーを慣れた様子で注文する。


「それで、調べてきたんだ。プロレーサーになる方法」


「はい。本だとあんまりそういう情報がなかったんで、主にインターネットで」


「じゃあ聞かせてもらうか。違うところがあったらその度教えるよ」


 促されて堀井は資料に目を通しながら語り始めた。


「すごく大雑把に言えば、F1レーサーになるためにはF3というクラスから始めなければならない。で、多くのプロレーサーがそうであるように、このF3で走っている人のほとんどが、子供の頃からカートをやっている。カートと言っても遊園地にあるような遊具じゃなくて、時速が70キロとか80キロも出るような本格的なやつですね」


 コーヒーを口に含み言葉を進める。


「なぜ子供の頃からカートをやる必要があるかというと、まず車を運転する、という経験を身体に教え込むのと、同時に速さというものに抵抗をつけていくためです。カートをやっている人は子供の頃から運転しているだけあって、18歳にならないと車の免許を取れない普通の人と比べて、圧倒的な技術の差がある。そうして同じような環境の仲間たちと競争してに腕を上げ、優秀な成績を修めたものがF3へとランクアップしていって、さらにその中の一握りが、F1レーサーに成り上がる。――これがプロのレーサーになる方法です」


「うん、だいたい合ってるよ」


 相川は相づちを打つと、目の前に置かれたナポリタンにフォークを突き刺した。


「それで、その流れのどこに、シュンが不貞腐れる理由があると思う?」


「一言で言えば、金と運、ですね」


 きっぱりと断言した。堀井は資料から目を離し、頭をかきながら続ける。


「まずカート自体、金がかかるんですよ。カート本体を中古のエンジン付きで買っても20~30万はする買い物です。レースに参加するためには参加費も必要だし、ヘルメットやレーシングスーツが必要不可欠になる。それ加えてガソリンやタイヤなどの消耗品でお金は溶けていくようには消えていく。他にはカートをメンテナンスしてくれるメカニックも雇わなくちゃいけないし、エンジンも一試合ごとにオーバーホールする必要がある上に、カートのフレームも劣化して交換しなくちゃいけない。おまけに遠征に行く度に交通費もかかって、最低でもレースの数日前にはサーキットに入って練習しなくちゃならないから、滞在費も馬鹿にならない。それ以前の話――」


 ここで堀井は両手を上げた。


「函館にはレーシングカートのチーム自体が、ないんです。速見はカートを経験するチャンスすらなかった」


「そうなんだよなぁ。札幌まで行けばあるけど、函館には本格的なチームはないんだよ」


「カートの経験無しでプロのレーサーになった人は、ほぼいません。ラリーレースなら別なんでしょうけど、少なくともサーキットを走るプロのレーサーとしては、カートの経験があるのが最低条件になる。函館に生まれた時点で、速見には、レーサーとしての道はほぼ閉ざされていたんです」


 相川は頷きながら聞いた。


 堀井の言う事はほぼ間違いない。昔よりも門戸が広くなったとはいえ、レーサーになるのに必要なのは、本人の資質でも、努力でも、才能でもなく、まずはやっていけるだけの資金があるかどうかだった。


 そしてどれだけ資金があっても、有力なレーシングチームに入門しなければレーサーへの道は開けない。


 堀井の言った事は端的ではあるが、事実だった。それでなくても車というものが金食い虫だ。趣味で走り屋をやっている相川自身ですらも、常々頭を悩ませていると言っていい。それを一生の職業にしようと本気になった場合、どれだけの資金が必要になるのかわからない。


 ナポリタンを頬張りながら、相川は数年前に俊介に相談されたことを思い出した。


 それは俊介が高校を卒業する少し前のことだった。大沼で走り終わって雑談に興じていた時に、俊介がふと漏らした言葉だ。


 ――相川さん、レーサーになるのってどうしたらいいんですかね?


 その時の自分は質問の意味を、『走り屋としての頂点にいる、ドリフトキングと呼ばれている土屋圭市のようになるにはどうしたらいいのか?』という意味だと受け取った。


 だから相川はまず走り屋としても腕を磨くことが第一だと言い、そして余裕があれば国内ライセンスを取り公式レースに出るようにすればいい、と答えたのだ。


 だが今から思えば、俊介はもっと純粋な、競技としてストイックな速さを目指していたのだろう。


 俊介の走りの腕に、暗い影を感じるようになったのはその後のことだった。


「シュンが不貞腐れているって言った意味、わかっただろ」


「はい。調べているうちに、自分が速見の立場だったら、と思いました。でも……」


 ナプキンで口を拭うのを待ってから、堀井は問いを続ける。


「相川さんはそんな感じしませんよね? 同じように速さを目指しているのに」


「俺はそうだな、走ることを趣味と割り切っているからね。仕事と趣味を上手く両立出来ている今に満足してるんだ。だから俺はこれ以上、腕は上達しないだろうし、そういった意味では、まだ迷っているシュンは伸びしろがある」


「難しい問題ですね」


「ま。若いうちにしか経験出来ない事だから、今のうちに悩めばいいのさ。耐える心に新たな力が湧くものだって名言もある」


「誰の言葉ですか?」


「本田宗一郎、世界のホンダの創始者さ。――マツダのFC3Sに乗ってるけど、実は俺、ホンダのバイクのファンでね」


 食後のコーヒーを味わいながら相川は笑みを見せた。


 そうして談話は続いた。


 相川は実は元はバイク乗りで、同じバイク乗りの友人が函館山で事故死して以来、車に転向した事。その経験を活かして函館山ではあまり攻めないように走り屋たちに広め、一方で速見ら若い世代には、出来るだけ普段は交通ルールを守るように伝え、大沼も走っている時も万が一の自体に備えて、対向車線を超えないよう注意しているなど、様々な話をした。


 他には、まだ飲酒運転の違反が厳しくないころ、酒を飲んで運転しながら、突然服を脱いで全裸になる変人がいた事や、美原三丁目の交番は地元の走り屋に一番舐められているなどと言った与太話から、タイヤを買うお金が無いときは、廃タイヤを回収しているガソリンスタンドや処理場に深夜に忍び込み、まだ溝のあるものを勝手に拝借しているというアンダーグランドなものを含め様々だ。


 コーヒーを二杯ほどお代わりした頃、相川の携帯電話から着信音が鳴った。


 上着のポケットに入れていたそれを取り出して画面を確認すると、ヒロシからのメールだった。文字を目で追っていくと、相川の顔は自然と引き締まったものになっていった。


 その様子が気になった堀井が視線で内容を尋ねると、


「レースの詳細が決まった」


 短く答えてレースに参加する他のメンバーにも、同じ内容のものを転送する。それらが終わってから堀井に向き直る。


「じゃあ今日はこれでお開きにしようか」


「はい。ありがとうございました」


 二人は席を立ち上がり店を出た。相川は近所に自宅があるそうで、徒歩で帰るらしい。堀井は自転車にまたがったままその背中を見送ると、自ら自宅へと向けてペダルを踏み始める。


 既に陽は落ちて、空は濃紺色で染まっていた。月の光と星の瞬きを頭上に受けながら、堀井は教えてもらったことをどうやって作品に反映させようかと悩みながら、そのことで頭がいっぱいになった。

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