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プラゼボ

作者: 野馬知明

木曜日の夕方ちかく。土岐明は弁護士の宇多に携帯電話で呼び出された。蒲田の印刷工場二階の自宅から京浜東北で東京に出た。地下街を大手町まで歩く。東京メトロの半蔵門線を乗り継ぐ。神保町を経て九段下で降りた。繚乱の桜が散ったばかり。日の陰った片側二車線の靖国通りは何となく肌寒い。時折流れる坂上からの風が頭髪をもてあそぶ。玉葱の日本武道館を左の眼の端で眺める。靖国神社の坂を上りきる。大村益次郎像を右手に見る。T字路の交差点の次の狭隘な路地を左折する。宇多法律事務所が入居している灰色のペンシルビルが右手にある。狭い階段で二階のドアにたどり着く。帰り支度の女秘書がうつむき加減に出てきた。階下から上ってきた土岐の目線が秘書の伏し目に正対した。秘書は差し込んだドア鍵を抜いて階段をけだるそうにそそくさと下りてゆく。宇多は受付奥の応接室で、銀鼠の三つ揃いでふんぞり返っていた。最新のスマートフォンを片手に待っている。ガラスのセンターテーブルの上に微糖の黒い缶コーヒーが二本。缶の底の縁から汗がにじみ出ている。

ソファに腰掛けながら土岐が挨拶しようとする前に宇多が堰を切ったように話し出した。

「早速だが調査依頼だ。先月たまたま暇だったんで国選弁護人をうっかり受けてしまった。昔は国選なんて引き受け手がなかったもんだが、今じゃ弁護士が余ってて抽選だ。外れてもいいと思ってたら当たってしまった。そうしたら、急に実入りのいい別件の弁護依頼が入ってしまって、そこで君の協力が必要になった」と言いながら缶コーヒーのプルトップを引く。

「被告は当番弁護士で接見した男で、・・・腐れ縁かも。三か月ほど前の殺人事件の調査だ。金にもならんし、マスコミの注目も急速に冷めてきているので、あまり力を入れたくない。しかし、あまりいい加減な弁護活動をすると法曹界に悪評が立つ。それは避けたい。・・・とりあえず、公判前整理手続の状況を説明する。それから依頼内容を言おう」

 窓外のオレンジの夕暮れが急速に濃紺の夕闇に暗転する。応接室の照明の乳白の明るさが室内に充満してくる。首筋からやわらかな冷気が侵入してきた。ワイシャツの襟を立てながら国選と聞いて土岐は意気の消沈してくるものを感じた。報酬をあまり期待できそうにない。

 宇多がソファ脇に置いてあった、メモを書き込んだA4コピーを土岐に手渡した。

「被告は真田徹、三十三、定職なし。四流大学を六年かけて卒業。好奇というネット喫茶をねぐらにしていたホームレス。一月十七日に殺害された今田実も三十三。ホームレスのようなものだが山谷のホテル小林という木賃宿に住んでいた。犯行当日、朝方に出たネット喫茶から犯行現場まで真田の画像が七か所の防犯カメラに、ご丁寧に時系列で捉えられている。おまけに、真田が犯行前日の一月十六日に凶器を購入した御徒町のスポーツ用品店の店員の目撃証言がある。凶器はマンクング社のボウガン。犯行現場近くの茂みから犯行の翌日に発見された。真田の指紋が今田の背中に刺さっていた矢からもボウガンからも取れている。検察の証拠固めは完璧だ。真田は隅田川沿いのスポーツセンターのトラックでボウガンの試し打ちをしようとした。スポーツセンターのトイレに入ったところ、たまたま今田がいた。検察のストーリーでは、真田は、今田のちょっとした言動に不快感を覚え、ホームレス生活からの鬱憤もあって、それらを晴らすために、今田に面白半分に照準を合わせたところボウガンが暴発した。故殺ではないので傷害致死罪であれば、量刑はそれほど重くはないと思うが、真田はそもそも今田に会ったこともないと主張している。だから検察のストーリーを全面否認している。しかし供述調書にはサインしているんだ。真田は取り調べ捜査官に強要されたと言っているが、どうも気の弱い投げやりな性格のようだ。これだけ聞きだすのに、えらく時間を要した。最初は、口がきけないのかと思うほど、口が重かった。回答も、こっちがいくつか選択肢を用意して聞かないと、答えない。いつまでも黙り続ける。何を聞いても『とくに』とか『べつに』とか答える。厄介なやつだ。未必の故意による殺人だとする検察のストーリーを受け入れれば、検察が勝訴しても、裁判官の心証もよくなるから、多少量刑は軽くなるのだが、真田は頑として、アリバイを主張している。だから当然、反省もしていない。東北から出てきた今田の遺族に謝罪もしてない。そのくせ接見したとき、留置場の生活も現在の拘置所の生活も、三食屋根付きで、ネット喫茶や脱法ハウスをうろついていた娑婆の生活と比べたら天国のようだとほざいている。冤罪を晴らしてやろうという、こちらのモチベーションが低下する。・・・困ったものだ。検察のストーリーと真田の主張するアリバイはそのレポートにある。防犯カメラの七地点の映像のコピーがある。顔写真は髪の薄いしゃくれ顎の細面が今田で、長髪で丸顔が真田だ」

 土岐は差し出されたA4のカラーコピーを手に取った。パラパラとめくった。左の列に時刻、右二列に真田が主張するアリバイと検察のストーリーが対比されている。ページの下には小さいポイントで脚注がひしめきあっている。カラーコピー写真の今田も真田も一様に顔色が悪い。疲労困憊しきったような表情。口角が垂れている。とくに殺害された今田の顔には目の下と頬に薄らとした影のような死相が出ている。資料の最後に今田の死体検案書が添付されている。資料に目を落としながら土岐が言う。

「それで、今回の調査は?」

「やればやるほど赤字になるので、何も依頼したくないのだが、恰好だけはつけないと。・・・裁判所が認めてくれる費用の範囲内で体裁を整えたいので真田が主張するアリバイと検察のストーリーを簡単に検証してくれないか。ざっとでいいから明日の昼過ぎに結果を教えてくれ。それを持って接見に行く。接見に行けば多少小遣い稼ぎになる」

「でも、・・・まだ、どういう調査結果になるかわからないでしょ」と宇多の顔を上目づかいに見ながら、土岐は缶コーヒーに手を伸ばす。

「いやあ、ついでがあるんだ。近くを通るから、接見する。接見すればカネになる」

「へえ。会うだけでカネをもらえんですか」

「国選はいろんなことで、チマチマとカネを出してくれる。単価は安いから、ポイントで稼ぐしかない。ただ、単価の規定が微に入り細を穿っているから、請求書類を作るのが面倒だ」と言うのを聞いて、土岐は缶コーヒーを持ったまま帰宅した。


翌日。金曜日の早朝。土岐は犯行日の前の深夜から真田がいたとアリバイを主張しているネット喫茶に向かった。好奇というその喫茶店は上野駅から中央通りを御徒町方向へ五分ほど歩いた右手の路地を少し入ったところにあった。好奇という黒地に白字の怪しげな看板が幅員三メートルあまりの狭い道路に突き出ていた。店内は薄暗い。、迷路のような通路の両側にべニアで囲った個室が並んでいた。壁紙が黒い。入店したとき、利用客の一人が、受付脇のフリードリンクを取りに来ていた。受付でアルバイトの店員から利用方法を聞いた。三十分だけ利用することにした。指定されたブースのパソコンは中国製の廉価版だ。キーボードの白い文字がいくつか、擦り切れて見えなくなっていた。机の上もキーボードもマウスも、ねっとりとべたついている。パソコンを立ち上げた。ネットサーフィンをしながら、事件当日、真田がこの店を九時すぎに出たことを宇多から受け取ったレポートで確認した。この時刻は、真田の主張するアリバイも検察のストーリーも同じだ。三十分たって、受付で会計を済ませた。領収書を受け取りながら、受付のアルバイト風の若い男に聞いてみた。

「3か月前の木曜、この店を利用した人が、殺人事件起こしたらしいんですが、知ってます?」

 若い男のよどんだ目が暗く低い天井をななめに見つめた。

「ええ。オレも刑事さんに質問されたんで。でも木曜はオレのシフトじゃないんで」

 土岐は、その日の受付担当者の名前と携帯電話番号を聞き出した。スマホに登録した。九時過ぎに、穴倉のような店を出た。外光がまぶしい。

 事件当日、ネット喫茶から出て、真田はバス停に向かったと言う。検察は上野駅方向に向かったとしている。土岐は先に検察のストーリーに沿ってルート検証することにした。

中央通りに出た最初のT字路に擦り切れた横断歩道がある。渡らずに左に折れればバス停がある。バス停に行かずに、まっすぐ行くと上野駅。途中に交番がある。

横断歩道を渡ると交番の前を通らずに済むが、JRのガード下で再び中央通りにかかる横断歩道を渡らなければならない。土岐は遠回りになるが交番の前を通らずに中央通りをアメ横商店街方向に横断歩道を渡った。交番の対面にパチンコ屋がある。その左隣は巨大タンカーの船首のような形をした家電量販店のビル。歩道をすすむにつれてビルの奥行きが狭くなる。ガード下の通りの入り口でアメ横商店街をのぞける。家電量販店の裏側の最初のビルは首都圏を中心にチェーン展開しているドラッグストア。店員が路面に商品ワゴンを設置している。信号が変わった。ガード下の20メートルほどの幅広の横断歩道を歩行する群衆に身を任せて渡る。右手に地下鉄と地下街への入り口が口を開けている。その手前をタクシーが縦列で待機している。

最初の監視カメラの画像は、九時半に地下鉄銀座線の改札近くの地下街で撮られている。

喫茶好奇からまだ十分も歩いていない。監視カメラの位置を確認する。地下通路の天井の端から、地下通路の奥に向けてレンズが固定されている。広角に浅草方面の改札と銀座方面の改札と券売機がとらえられている。画像のコピーではジャージーを着て、野球帽を目深にかぶり、白いマスクであごを覆った男が煙草にライターで火をつけている。通路の中心だ。肩にクロスボウを入れた袋のひもをかけている。顔は見えない。正面を向いている。うつむき加減の角度から野球帽のニューヨークヤンキースのロゴがかろうじて見える。静止して煙草に火をつけている。画像にぶれがない。画像の位置関係を確認する。背後に映っている柱の模様から男の身長が百七十センチ前後だと推測できる。真田はここから、地下鉄銀座線に乗り、稲荷町、田原町を経て、浅草に向かったことになっている。

二番目の画像は、九時四十五分に浅草駅の改札を出たところで撮られている。最初の画像同様に監視カメラに正対し、タバコに火をつけている。同じジャージー、同じ野球帽、同じ白いマスク、同じ袋を肩にかけていることが確認できる。

三番目の画像は、九時五十五分に吾妻橋の交差点近くの商店街で撮られている。浅草駅の改札から徒歩五分足らずの防犯カメラ。ここでも同じような画像が撮られている。ここから真田は徒歩で、隅田川沿いの江戸通りを北上した。検察提出の供述証拠によれば、真田は日ごろのままならない生活の鬱憤をはらそうと、隅田川土手でクロスボウの試し打ちをするため適当な場所を探していた。ぶらぶら歩きながら隅田公園に向かう途中、江戸通りの隅田川沿いの歩道の上で煙草に火をつけているところをコンビニエンスストアの駐車場の防犯カメラに十時十分、コインパーキングの防犯カメラに十時十五分、言問橋近くのガソリンスタンドの防犯カメラに十時二十分、スポーツセンターの監視カメラに十時半ごろ、それぞれ撮られている。いずれの画像もポーズがほぼ同じだ。道路に背を向け、二メートルを少し超える高さから下方に向けられたカメラのレンズに正対するように立っている。画像の時刻を見ると、だいたい五分おきに撮られている。それぞれの防犯カメラの間隔は二百メートルもない。〈明確な目的を持って歩けば二百メートルの距離を歩くのに五分もかからない〉と宇多の注記がある。

このほかにも監視カメラや防犯カメラを設置している箇所はいくつかあったが証拠申請されていない。真田が歩行し、静止していなかったため画像が不鮮明であったのかもしれない。あるいは七枚の画像で立証に十分との警察と検察の判断であったのかもしれない。

 土岐は東武伊勢崎線のガード下から百メートルほど北上した。十時十分の画像を提供したコンビニに入った。客は小柄な老人二人。黄緑色の制服の店員はレジに一人と商品棚に商品を並べているのが一人いた。土岐は年上に見えるレジ前の中年男性店員に声をかけた。

「すいません。防犯カメラについて、ちょっとお聞きしたいんですが、・・・」

「・・・はあ?」と気の抜けたような返事をする。

「防犯カメラは、このレジの上のやつと、駐車場にあるのと、2台だけですか?」と聞きながら、土岐はレジ脇の板ガムを一個つかんだ。それをレジカウンターの上に置く。

「・・・そうです。・・・このガム一個でよろしんですか?」と焦点の合わない目を土岐に向ける。ガムのバーコードをスキャンする。

「画像は、どのくらい保存してるんですか?」

「・・・設定は三十日、一か月ぐらいです。・・・お支払いは現金ですか?」

「現金で。・・・録画媒体はハードディスクですか?」と言いながら、土岐はズボンのポケットの中の小銭をまさぐる。

「・・・そうです」と言いながら、店員は土岐が出した小銭を一枚ずつ確認する。

「一か月分の録画はどっかに保存しておくんですか?」

「いえ。順次上書きしてゆきます」と店員はつまらなそうに言う。それだけ聞くと土岐はコンビニを出た。さらに北上した。言問橋西詰の交差点手前で十時二十分に画像を記録していた外資系のガソリンスタンドでも同じ質問をした。同じような返答があった。ただ、店内のカメラは強盗の顔を特定するのが目的で、店外のカメラは強盗の逃走車やガソリン代を踏み倒して逃走する車両を特定するのが目的だ、という説明があった。証拠画像は店外だ。

国道6号線の通称江戸通りはそこで終わる。さらに北上した。最後に尋ねた区立のスポーツセンターの管理棟ビルでは、監視カメラ設置の目的は夜間の痴漢や暴漢を捉えるため、とのことだった。画質を高く設定してあるため、一週間分しか録画されていないという。

犯行時刻は午前十時から十一時ごろ。犯行場所はスポーツセンターのアンツーカーのトラック脇の男子トイレの近く。犯行現場のアンツーカーのトラックはスポーツセンターの体育館ビルと四面ある屋外テニスコートの間にあった。当日のトラック利用者はいなかった。

殺害現場近くの男子トイレは、平屋の予約管理事務室の反対側の廊下奥にある。ドアが事務室通路側とトラック側の両方で開放されていた。老齢の管理棟ビルの事務員の説明によると、男子トイレはトラック側からも事務室側からも利用しやすいように、換気の目的もあって、両側のドアを常に開放している。

一周二百メートルのトラックをのぞく。トイレの真上は観客席。アンツーカーのトラックの向こう側は隅田川の土手になっている。トラック全体が三メートルほどの浅黄色のコンクリート塀に囲まれている。外から見えるのは観客席だけ。トラックは見えにくい。南隣に5階建ての体育館ビル。見上げると窓が多いのが目につく。窓際に人の気配は感じられない。 

宇多の資料の注記によると、殺害された今田は、この近くのとんかつ屋がお気に入りで、宿のある山谷から歩いてきて、その帰りにスポーツセンターのトイレを利用することがよくあった。お湯の出る便座があり、トイレットペーパーも常備されている。隅田川の土手にブルーシートで囲いを作って生活しているホームレスの利用も多い。

今田の遺体は、翌日の春の体育祭の下見に来ていた近くの公立商業高校の非常勤の体育教師が発見した。夕方のことだ。クロスボウの矢が背中から心臓を射ていた。着衣は上は黒いパーカー、下は茶のコールテンだった。いずれも数年間、洗濯した形跡がなかった。

土岐はトラックを管理している平屋の事務所に立ち寄った。事務所は男子トイレから五十メートルほどの廊下伝いにあった。途中に女子トイレがある。濃い鼠のジャージーを着た初老の事務員が、事務机が十ほどある事務室に一人で座っていた。土岐が受付の小さなガラス窓をスライドさせると無言のまま、面倒くさそうに椅子から立ち上がってやってきた。

「すいません。ここのトラックの利用状況は、どうなってるんでしょうか?」

「ネットで予約状況を公開しているんで、そちらをご覧になれば、わかると思いますが・・・」と薄い頭髪を左の手のひらで頭皮になでつけている。

「今日は誰も利用してないみたいですが、・・・いつもこんな感じで?」

「隣の野球場やテニスコートは予約でいっぱいですが、トラックの方はもっぱら週末に学校の運動会やたまに企業の体育祭で利用がある程度で、とくに平日の午前中は、ご覧のとおり、利用されていないことが多いですね。あと大会が近づくと中高の学校のクラブが利用することもあります。学期中は放課後で、休み中は午前中からということもあります。まあ、学校と言ってもすぐ近くの商業高校で、この高校は統合されてなくなるので」と話がそれてゆく。

「ここのトイレは、・・・いつも開放されてるんですか?」

「トイレだけ開放しているんじゃないですけれど隣の野球場やテニスコートの利用者が、この窓口で利用許可証を提示しなければならないんで、朝八時から夜九時まで開放してます」

と話している間にも何人かのスポーツウエアの男女がトイレの方に歩いてゆく。事務室の奥で書類の整理でもしていれば、いつ誰がトイレを利用したか、気づきようがない。

土岐は、男子トイレ手前のウオータークーラーで一人の男が水を飲むのを左目で見ながら、南側のスポーツセンターの体育館に向かった。体育館のエレベータで3階で降り、北側の窓から北隣のトラックを見下ろすと、犯行現場は観客席が庇になっていて見えない。

土岐は殺害現場を一通り見聞してタクシーで喫茶好奇に戻った。スポーツセンターから十分ほどだった。それから、喫茶好奇から真田の主張するルート検証した。

真田は宇多との接見で検察のシナリオを否認している。その主張では、喫茶好奇から出たあと、上野公園のバス停から都バスに乗っている。バス停は喫茶好奇から徒歩五分ほどの不忍池のほとりにある。上野駅方面とは反対側だ。路地を見渡しても、こちら方向には監視カメラも防犯カメラもない。不忍池の桜並木にある上野公園のバス停に時刻表がある。平日午前九時台は二一分発と五二分発の二本しかない。九時ごろ喫茶好奇を出たとすれば、二一分発に真田は乗車したはずだ。上野公園のバス停はターミナルになっているが、駐車場もなく、Uターンもできない。始発バスは上野公園のバス停から、すぐ池之端方向には向かわず、中央通りを御徒町方向に右折し、上野広小路の交差点でも右折し、さらに湯島近くの交差点で不忍通りを右折して不忍池に戻ってくる。

始発の上野公園で乗車せずに、始発の停留所の向かいにある池之端1丁目の停留所で乗車すれば、5分程度は節約できる。真田は乗車した上野公園から降車した隅田公園まで三十分ほどで移動している。隅田公園のバス停の時刻表で確認すると、真田の降車したバスは時刻表では午前九時四六分に到着予定になっている。真田は隅田公園のバス停で下車し、言問橋西詰の交差点には向かわずに、言問通りを、殺人現場とは反対方向の浅草方向に少し戻り、ラーメン屋の前の横断歩道で言問通りを渡り、十時ごろに路地奥の小さなビルに入り、その二階でボウガンの試し打ちをしている。その間の移動経路に監視カメラはない。

番地とネットマップをたよりに探すと、真田がボウガンの試し打ちをしたというあずき色のビルは小さな居酒屋の向かいの細い路地を入ったところにあった。玄関正面の右の柱に看板を取り外したようなネジあとがあった。入居者がいる気配はない。入口は分厚いガラス扉。カギがかかっていた。玄関から奥をのぞき込むと、右手奥に小さなエレベータがあった。その脇に金網入りのガラス窓が見えた。人通りがほとんどなく、あたりを見回しても監視カメラは見当たらない。玄関のガラス扉の上に貸しビルの貼り紙があった。不動産屋の連絡先が書いてあった。土岐はそこに電話し、訪ねることにした。

不動産屋は、バス停のある言問通り沿いに浅草方向に五分ほど歩いたところにあった。普通の民家のようだった。格子の窓ガラスに周旋物件の張り紙がなければ素通りするところだった。その店舗に入っていくと疲れたような初老の店主がどす黒い顔で待っていた。

「この近くで御社が扱っているあずき色の小さなビルについて、・・・よろしいでしょうか?」

「・・・はい。どうぞ」と小太りの店主が腹の下で手を組んで店の奥に立ったままで言う。

「あのビルで、ボウガンの試し打ちをしたと言う人がいるんですが、心当たりありますか?」

「・・・リバーサイドの例の殺人事件の関係ですか?」と店主の相好から愛想が消える。

「警察にも言ったんですけど、あのビルは一年近く空き家ですが。あなた、警察関係の方?」

「いえ。被告の弁護活動してる者です」

「・・・へえ、弁護士さんですか」と言われても土岐はあえて否定しない。

「あのビルの2階でボウガンの試し打ちをしたと言ってるんですが、可能ですか?」

「幅は三・三メートルほどしかないんですが奥行きは十メートル以上あるんで、できないことはないでしょう」と店主は組んでいた手をほどいてグレーのスエットズボンをずり上げる。

「昼間は、来客用にあのビルの玄関は、オープンにしてるんですか?」

「・・・とんでもない。・・・客が来るたびに、カギをもっていって、開けています」

「事件当日、誰か物件を見に来ました?」

「・・・その日は、なかったです」と店主はつまらなそうに言う。

「事件前に、物件を見に来た人のリストのようなものでもあります?」

「ないです。手付でも払うというのなら、住所、氏名、連絡先を書いてもらいますが。あの物件は割安なんで見には来るんだけど、使い勝手が悪いってんで、帰っていくんで。ただ事件の前か後か、記憶ははっきりしていないけど、若い美人が見に来たのは覚えてる」

「どんな女性です?」

「サングラスをかけていたんで、冬だったから印象に残って。目鼻立ちのすっきりした若い大柄の女だった。このへん、ソープランドや歓楽街があるから、その筋の女性じゃないかと」

それだけ聞くと、土岐はその不動産屋をでた。そこから狭い路地を南下して浅草駅までぶらぶら歩いた。二十分ほどで、雷門通りの地下鉄の駅に出た。銀座線に乗り、日本橋で東西線に乗り換え、九段下で降りた。昼前の法律事務所に宇多は不在だった。昨晩すれ違った女秘書がいた。黒縁メガネの柄を右手の親指と人差し指でつまむ。土岐の顔を見るなり、

「お昼には帰ってくると思います。さっき、出先から先生にお弁当を買っておくように頼まれたんです。すいませんけど、ちょっと、お留守番をお願いできますか?」と言いながら事務所を出ていった。土岐は八畳ほどの応接室のマホガニーの書棚から東京都の地図を取り出した。台東区の地図で真田の主張するアリバイと検察のストーリーを地図で確認してみた。検察が描く地下鉄の移動ルートは浅草通り沿いで、真田が言う都バスの移動ルートは、その北の言問通り沿いだ。地図上では東西に平行になっている。

真田の主張では、喫茶好奇から殺人現場近くまでバスで移動している。不動産屋の証言が正しいとすれば、空き家のビルでボウガンの試し打ちをしたという真田のアリバイは崩れる。検察のストーリーでは地下鉄を利用して、上野から浅草まで移動し、そこから殺人現場まで歩いている。こちらは七枚もの監視カメラにその画像が残っている。カメラのレンズの位置が斜め上方なので、顔そのものは映っていない。裁判所が真田本人と認定すれば真田の主張するアリバイは完全に否定される。真田を犯人とする傍証としては、凶器を真田に売ったというスポーツショップの店員の証言と当日の朝、真田が監視カメラと同じ服装だったというネット喫茶好奇の店員の証言、さらには凶器から検出された真田の指紋がある。

 十分ほどして、女秘書が戻ってきた。息をきらしている。白いブラウスの胸がこれ見よがしに弾んでいる。白いレジ袋に鳥肉弁当とカップスープが入っていた。

固定電話が鳴った。秘書が用件を聞く。聞き終えて白い受話器を置きながら土岐に言う。

「・・・先生、少し遅れるそうです。よかったら、お弁当を食べてほしいという伝言です」

 土岐は鳥肉弁当を食べることにした。箸を割って食べながら記憶の糸をおもむろにたどる。三か月前、クロスボウによる殺人事件のニュースがあったような気がした。ただ、その後、まったく話題になってない。警察の証拠固めが完璧で、被害者も加害者も、いずれも社会的にまったく影響力のない人間だからかもしれない。事件が広がりを見せていない。殺人事件ではあるが、猟奇性も社会性もないとマスコミが判断した。週刊誌ネタにもなっていない。

 土岐は食べ終えてから携帯電話で東京都交通局に電話した。事件のあった一月十七日の午前九時二一分、上野公園発の亀戸駅前行に乗務していた運転手を聞き出そうとした。事情を話したが、相手は、個人情報なので教えられないという。

「運転手さんにこの携帯電話の番号を伝えて、そちらから電話いただけないですか?」と土岐が言うとしぶしぶ応じてくれた。裁判の関係だと言ったのが効いたのかも知れない。

 昼食が済んでから、応接室のソファで横になってうたた寝をした。軽いいびきを立て始めたころ、帰ってきた宇多が土岐を揺り起した。土岐はゆっくりと目を覚まして伸びをした。

「いずれの主張も、自然で無理はない」と土岐はソファに座りなおして細い目をこする。

「・・・資料にも書いておいたが、検察の証拠の監視カメラの映像を見たネット喫茶のバイトのあんちゃんの証言では、服装と外見から真田に間違いないそうだ」

「顔そのものは映ってなかったのが気になるけど、それじゃ、一件落着じゃないですか」

「・・・おれも、そうしたい。しかし、監視カメラの映像はななめ上方からのショットだ」

「本人確定できない・・・ということですか」

「これが一番鮮明な映像だ」と宇多がアタッシュケースをテーブルの上に置いてコピーを一枚取り出した。土岐の前に出されたコピーにジャージーの上下と野球帽をかぶった男が煙草に火をつけている見覚えのある画像がある。白いマスクをあごにずらして煙草をくわえ、右手のライターに左手を添えている。首筋に長髪が黒い塊になって見える。

「確かに、これじゃ顔が確認できないですね。どれも同じポーズなんですよね。後半の4枚は道路に背を向けて、レンズに正対してる」

 宇多は土岐の手元を覗き込む。土岐の鼻先を柑橘系のヘアトニックの匂いがかすめる。

「タバコに火をつけているところか。北風が吹いていたのかもしれない。レンズに正対したのではなく、正面からくる北風でライターの火が消えないように横向きになったのかも」

「道路を向いてない。正面の北風を避けるなら道路に正対しても」と土岐は自信なげに言う。

「・・・真田は右利きなんだ。右手でライターを持てば、左手で北風を遮蔽できる。そのためには道路に背を向ける必要がある。歩道を挟んで道路は西、レンズは東だ。その映像は本人が静止しているから、鮮明なんだ。・・・何か気になるか?」

「画像の時刻を見ると、だいたい5分おきに煙草に火をつけてる」

「・・・真田は相当なヘビースモーカーだったと言っていた」

「チェーンスモカーだったんですか?」

「ただ、それは昔の話で、最近はカネがないので、節煙していたそうだ。それにモク拾い・・・」

「すると、事件当日は興奮してて、ついチェーンスモークしたということですか?」

「・・・そうかもしれないが、・・・何に興奮していたのか?」

「殺人に、・・・」

「検察のシナリオではボウガンの試し打ちで計画的な殺人ではない。要するに検察は動機を解明できていない」と言いながら宇多はイタリア製の靴を跳ね上げるようにして足を組む。

 土岐は考え込んで、独り言のように言う。

「試し打ちで人を殺すでしょうか?」

「・・・検察が立証したいのは、未必の故意の殺人だ」

「未必の故意?」

「明確な殺意はないにしろ、ボウガンで試し打ちすれば今田は死ぬかもしれない。必ず死ぬとは限らないが死んでもいいや、という思いで試し打ちすれば未必の故意が成立する」

「要するに、検察は動機を解明できなかったんでしょうね。もし、ボウガンの暴発のようなものであれば、傷害致死だから量刑もだいぶ軽くなるんでしょうね」

「・・・それ、真田に言ってみたんだが、現場には行っていないと強硬に否定している。未必の故意でも、殺人は殺人だ。傷害致死なら、量刑も半分以下になるんだが、・・・」

「それにしても、検察はなんで動機の解明をしなかったんでしょうかね。試し打ちなんか、子供だましの動機じゃないですか。そんなんで公判を維持できるんでしょうかね」

「・・・そのへんが、こっちのつけ込むところだ。要するに、故殺であれば、ボウガンを捨てる前に指紋を消すか、最初から手袋をして扱っていたはずだ。それとも指紋を消し忘れたか、慌てていて指紋を消せなかったか?・・・要するに、検察は裁判官が一番受け入れてくれそうなストーリーをねつ造したんだろう。裁判官は所詮世間知らずだから、検察の作文も起承転結や文法表現が正確で、規矩準縄に則っていれば、忖度して気を利かせて主張を受け入れるやつが多い。どうせ裁判官と検事のやつらは仲間なんだから、・・・」

「真田はなんでボウガンの試し打ちでわざわざバスに乗って狭いビルに行ったんですか?」

「それがポイントだ。昨日渡した資料の脚注にも書いておいたが、なんでもネットの商品モニターアンケートに当選して、ボウガンの試し打ちを三万円で依頼されたそうだ。そうそう、ボウガンというのはある会社の商標登録名で、正式な商品名はクロスボウというそうだ」

「そのクロスボウが、凶器、・・・ということですか?」

「・・・そう。その矢が今田の背中から心臓に突き刺さっていた。真田の指紋付きだ」

「よほど運の悪いやつですね。偶然背中から心臓に命中した、・・・ということですね」

「・・・そのへんも、反論できるな」と宇多は腕を組む。

「いずれにせよ真田の主張を証明するためにはアンケート提供者を探せばいいわけですね」

「秘書に一日だけネットサーフィンさせてみた。そういうサイトは見つからなかった」

「そうじゃなくって、・・・真田が使ってたネット喫茶のパソコンから、IPアドレスをたどって、サーバーのアクセスログを特定しなかったんですか?」

「そういう分野は専門じゃない。警察なら人もカネもあるからサイバー犯罪対策室あたりでやるだろうが。警察は監視カメラの映像をたどって証拠固めして真田が主張している線の捜査を本腰を入れてやっていない。多少やっているかもしれないが検察のストーリーに不都合なものは湮滅しているだろう。事件当日の都バスの運転手に証言を取りに言っているかもしれないが、とりあえず、証拠も証言もそろったから、無駄な捜査はしないということだろう。経費節減ということだ。社会的にまったく注目を浴びてないつまらない事案でもあるし」

「都バスの運転手には当たってみるつもりですが、そもそも真田はどういう人物ですか?」

 宇多は丸い視線を応接室の窓の外に泳がせた。

「昨日も言ったが四流大学を六年かけて卒業し、飲食関係のブラック企業に就職し、三か月でやめている。それから、フリーター人生だ。その後、父親が脳梗塞でなくなり、入院費がだいぶかかったそうだ。二年前、今度は母親が心筋梗塞で入院し、すぐ死んだ。日野あたりに小さな一戸建てがあったが相続時に売却し、両親の借金を返したら、ほとんど残らなかったそうだ。真田はしばらく、高円寺の安アパートに住んでいたが、昨年秋から、家賃が払えなくなって、最初は脱法ハウス、最近はネット喫茶を定宿として、バイトのない日はコンビニやファストフード店のごみ箱をあさり、夜はネット喫茶で懸賞サイトやアンケートポイント稼ぎでしのいでいたそうだ。ネット喫茶の住み込み従業員をかたって祖父母、両親、四人兄弟の八人家族を偽装して、懸賞サイトやアンケートサイトに百ぐらいのマイページを持っていたそうだ。図書券やら商品券やら優待券がネット喫茶の真田宛に届くから好奇という店では有名人だった。わずかな金額だが御徒町の金券ショップで換金していた。でも逮捕時の所持金は四千三百十一円だった。高円寺にいたときに口座を作ったネット銀行には多少残高があったようだ。カネのないときは一晩中ネット喫茶のフリードリンクでしのいでいた」

 土岐は腕組みをして聞いていた。他人事とは思えない。

「それで、被害者の今田っちゅうのは?」

「似たようなものだ。岩手から東京に出てきて高卒で葛飾のある輸出企業の孫請けに就職したが円高の直撃を受けて会社は倒産。その後、派遣会社に登録し不安定な生活をしていたがアパートの家賃を滞納して山谷のドヤ街をうろつくようになった。派遣会社で社員と喧嘩してリストラされ、それ以来日雇いで生計を立てて」といい終えて宇多は深いため息をはいた。

「それで、僕はこれから何をすれば?」

「第二回の公判のとき、証人として喚問するかも知れないので検察のストーリーを覆すような情報を探してくれないか。あるいは真田の主張するアリバイを立証するようなネタでもいい。いずれにしても裁判所が証人として認めてくれればお前に交通費と日当が支払えるので」

「ということは、ギャラはこの事務所からでなくって、裁判所から貰えということですか?」

「すまん。この事案はただでさえ赤字だ。この埋め合わせはいずれ別の依頼でなんとかする」

 釈然としないが土岐は承服せざるを得ない。今のところ、他に仕事がない。

「これから別件で出かける。手持ちの資料を全部渡すので、証人喚問のネタを探してくれ」と言いながら宇多は立ち上がった。隣の事務室で女秘書に何かを指示し、事務所の外に出てゆく気配がした。宇多が応接室を出たあと、土岐は資料をその場で検討することにした。資料はいくつかのテーマごとにダブルクリップで分別されていた。最初に土岐の目に止まったのは真田がエントリーした商品モニターに関する情報だった。宇多が真田に接見したときのメモをもとに作成したもので、まとまりがよくない。ワープロで作成したのは秘書だろうが、断片的な情報が羅列されているだけで、できがよくない。宇多の力の抜き加減がよくわかる。

資料によると真田は去年の暮、アルバイト募集のサイトで商品モニターの掲示を見つけ、エントリーした。氏名、住所、年齢、職業、身長、体重、喫煙歴、同居人、モニター会場までのアクセスなどの質問項目があり、守秘義務の説明があった。虚偽の記入があった場合は失格になるという一文があったので職業は正直にフリーターと記入した。喫煙歴は十年、モニター会場までの交通は都バスで、上野公園から隅田公園とした。住所は好奇にした。

エントリーしてから一週間後に当選のメールが真田のフリーメールアドレスに届いた。それによると、御徒町のスポーツショップで野球帽、ジャージー、クロスボウ、矢、クロスボウを収納する袋、スポーツサングラス、スポーツマスクを買うように、との指示があり、メーカーとブランドの指定があった。すべてを着用し、領収書を持参すれば、代金をアンケート会場で支払い、購入した物品は、クロスボウと矢以外は自分のものになる。別途、モニター会場で日当として三万円が支払われる。真田は手持ちの金が不足していたため、スポーツサングラスとスポーツマスクは購入できなかった。

一月十七日午前十時ごろ、モニター会場には大柄の中年女性が白いマスク、グレーのファッショングラス、白い手袋、白衣姿で玄関で待っていた。そのビルの二階の会場は幅三メートルほどの細長い部屋で、部屋の端の的に向けてクロスボウを試し打ちした。指示された商品の領収書と交換に日当三万円と物品代三万円ほどを受け取った。そのときスポーツサングラスは着用せず、マスクは手持ちの白いマスクを使用していた。試し打ちは白衣の女の携帯に電話のあったところで終了した。真田はクロスボウと矢を白衣の女に渡し、そのビルを離れ、浅草の老舗のてんぷら屋で昼食をとり、スカイツリーラインでスカイツリー駅でおり、夜まで東京ソラマチで時間をつぶした。上野の好奇に戻ってきたのは午後十一時過ぎだった。

 警察はまず、遺体に突き刺さっていた矢から凶器がクロスボウであることを特定した。つぎに、スポーツセンターの監視カメラから死亡推定時刻の直前にとらえられた野球帽、ジャージー、肩から袋を下げた男の画像を確認した。それから、言問橋西詰近くのガソリンスタンドの画像を見つけ出し、男の足跡を江戸通り沿いに逆追尾し、浅草駅、上野駅にたどりついた。そこで防犯カメラの画像が途切れた。

マンクング社製のクロスボウは都内数か所のショップとネット通販で扱われている。上野、御徒町近辺でクロスボウを販売している店舗を探したところ、御徒町で犯行前日にクロスボウとその格納袋を購入した男を突き止めた。同時に殺人現場近くの隅田川の土手の茂みの中からクロスボウが発見された。クロスボウを売ったという店員から風体と人相を聞き出し、監視カメラの画像をもとに近辺を聞き込み、捜索したところ、喫茶好奇のアルバイト店員にたどりついた。クロスボウと矢から真田の指紋が検出された。二月になって真田は夜、ネット喫茶に現れたところを通常逮捕された。所持していたクロスボウ格納用の緑の袋の中からピューマのジャージーとニューヨークヤンキースの野球帽と白いマスクが押収された。

 土岐はそこまで資料を読み込んで、資料に記載されている今田の住所であるホテル小林をたよりに、南千住に向かうことにした。九段下から東西線で竹橋、大手町、日本橋を経て、茅場町で日比谷線に乗り換え、北千住行に乗って人形町、小伝馬町、秋葉原、仲御徒町、上野、入谷、三ノ輪を経て南千住についたのは3時頃だった。今田が住所としていたドヤ街は駅を出て、ガードをくぐった泪橋の交差点から浅草方向に数分のところにあった。明治通りから一本裏通りに入ると、すべての電信柱に木賃宿の看板が張り出されている。裏通りの中央に立つと木賃宿の看板しか見えない。連れ込み宿のような名称や近代ホテルのような名称が重なり合うように狭い通りに林立している。空も通りも異様に狭く感じられた。土岐は通りの中ほどにあるホテル小林の玄関に立った。木造モルタルの建付けの悪い引き戸の奥に病院の受付のような木のカウンターがあり、腰の高さに管理人の小窓があった。その小窓を少し開け、声をかけた。しばらくして、首にピンクのうすいスカーフを巻いた銀髪の老婆が顔を出した。胡散臭い奥まった目つきで土岐をまぶしそうに見上げる。話し出すそぶりがない。

「今田さんのことで、すこし話をうかがいたいんですが、・・・」

「・・・イマダ?」と老婆は巾着のような口でガムをかむようにおうむがえす。

「3か月ぐらい前まで、ここに住んでた人です」

「知らないね」と老婆はしわだらけの指で小窓を閉めようとする。

土岐はとっさに右手を差し入れた。

「スポーツセンターで殺された人なんですけど、・・・」

「・・・ああ。・・・それで?」

「どんな生活してた人か、・・・うかがいたいんですが、・・・」

「・・・そんなこと知らないよ」と老婆はつぶれたような爪先で小窓を閉めたがる。

「誰か知ってる人、・・・いませんか」

「・・・そのへんで、聞いてみたら、・・・」と言うなり、老婆は小窓をぴしゃりと閉めた。

小窓のある部屋の後ろに赤茶けた鉄製の狭隘な外階段がある。階段の向かい側に一間おきにこげ茶のベニアのドアが三つ並んでいる。一番手前のドアをノックしてみた。間隔をあけて二回ノックしたが、返答がない。真ん中のドアもノックしてみたが、やはり返答がない。一番奥のドアをノックするとスウェットの老人がゴマ塩の無精ひげで出てきた。目ヤニにまみれた眼が、何?と言おうとしている。部屋をのぞくと三畳ひと間のようだった。

「殺された今田さん、・・・ご存知?」

「・・・ああ、『死ニタイ』ね」と言いながら土岐の手元のあたりを見まわしている。

「死に体って、・・・相撲の?」

「・・・いいや、やつの口癖だ。あいさつ代わりに、『死にたい、死にたい』と言うのさ。こっちまで滅入ってくる。このへんの人間に生き生きとしているやつはいないが、心の中でそう思っていても、ばんたび、『死にたい』と口に出して言うやつは、そうそういない」

「どんな生活してたか、・・・おうかがいできます?」

「・・・あん人は、この二階の部屋なんで、二階の連中のほうがよく知ってると思うけど」と言いながらドアノブを握りしめている。ドアを閉める気配がない。その老人の情けないような表情をうかがう。情動がみられない。何を考えているのか土岐にはわからない。

「そうですか。そいじゃ、2階の人に聞いてみます」と言って、いったん通りに出た。自動販売機を探した。二軒先に缶コーヒーの自動販売機があった。千円札のしわを伸ばして缶コーヒーを二本買った。それからホテル小林に戻り、外階段で二階に上がった。鉄の手すりが赤錆にまみれている。手のひらが真っ赤になった。ジグソーパズルのピースのようなひびの入ったコンクリートの狭い廊下の片側に一階と同じようなべニアのドアが三つ並んでいた。亀裂の入った一番手前のドアをノックすると薄汚れたTシャツの中年男が出てきた。

土岐は買ってきた缶コーヒーを男の目の前に差し出した。

「ちょっと、お尋ねしたいんですが、今田さん・・・ご存知で?」

「・・・殺された?」

「ええ・・・」と言いながら部屋をのぞき込む。一階と同じ造りだ。

「・・・隣にいたから知ってるよ」と言いながら土岐の手元の缶コーヒーを注視する。

「立ち話もなんですから、近くの喫茶店でコーヒーでも飲みながら、いかがですか?」

「・・・いいけど、・・・」と言いながら、男の眼は缶コーヒーと土岐の顔を往復する。

「これは、後で飲んで下さい」と言って缶コーヒーを二本差し出す。男はサンダル履きで部屋の外に出てきた。カーキ色の薄汚れた作業着を着ている。汗の染みついたにおいがする。

ホテル小林から三分ばかり歩いた。泪橋の交差点の埃っぽい喫茶店で話すことになった。蒸気機関車の客車にあるような骨董ものの背の高い焦げ茶のボックスに腰掛けるなり、土岐は切り出した。

「そいで、今田さんはなんで殺されたか、・・・心当たりありません?」

「さあ、あいつを恨んでいるやつはいなかったと思うけど」と男はメニューに見入っている。

「ほう、性格のいい人だったんですか?」

「・・・性格?」

「・・・たとえば、・・・いつも気を遣うとか」

「そんなもん、ここじゃ、価値がない」と言いながら男は店の中年女にホットコーヒーを注文した。土岐も同じコーヒーにした。

「じゃあ、・・・だれからも恨まれていなかったのは、・・・どうしてですか?」

「・・・やつは、楽な仕事を、みんなに回してくれてたのさ」

「あっ、・・・今田さんは手配師だったんですか」

「やつはヤクザじゃなかった。舎弟でもなかった」と男は垢にまみれた手相を左右に振る。

「・・・どんな仕事を回してたんですか?」

「・・・健康診断の仕事」と言いながら男は落ち着きなく店内を見回している。

「・・・健康診断?」

「・・・なんていうか、忘れちまったが、血を抜いて、薬をのむやつ」

「ああ、・・・治験ですか」

「うん、多分そうかもしれない」と言いながら男は出てきたコーヒーにミルクと砂糖を入れる。土岐はブラックのまま、一口コーヒーを含んだ。土岐のコーヒー皿にあるミルクポーションとスティックシュガーに男の垢にまみれた手が伸びた。土岐はコーヒー皿ごと手渡した。

「・・・で、今田さんは、どんなふうに仕事を回してたんですか?」

「立ちんぼは、冬は、つらいのよ。日の出前から、そこのバス停近くに並んでさ。手配師のトラックが、来るのを待つのよ。日も出てないから、真っ暗で寒いったらありゃしない。風でもふきゃ、またぐらのソーセージとボールが、ちぢみあがるのよ。それが、おととしの冬から、お日様が出てから、健康診断を受ける仕事でさ。薬飲んで、一回三千円から一万円ももらえる。看護婦がヘマすると、二回も三回も血ぬかれて、痛い思いするけど、日雇いのきつい土方仕事にくらべりゃ、天国よ。去年一年、やつが立ちんぼをやってるところ見たことない。やつが死んでから、めっきり血抜きの仕事が減って、注射あとが消えるようになった。いっときは、毎週血抜かれてたから、針のあとが消えなくって、道でお巡りに出くわすと、ヤクやってるのと間違われるんじゃないかって、ひやひやでさ」

 土岐は男が突き出した左腕の注射痕を注視した。皮膚が盛り上がり、ひきつっている。

「・・・どこで、血を抜かれたんですか?」

「・・・駅前の、千寿南クリニック・・・」

「どうやって、仕事をまわしてたんですか?」

「・・・若くて元気な奴にはあまり声をかけなかったな。最初は健康診断を受けないかって声かけてきて、・・・受けるだけで、時給千円ぐらいもらえた。健康診断に合格して、血を抜かれて、薬を飲むようになると、半日で一万円ぐらいもらえた。おれも腰痛があるから、ありがたい仕事だった。やつはだいぶカネをため込んでいて、敷金、礼金、前家賃がたまったから、もうすぐちゃんとしたアパートに引っ越すと言ってた」

「・・・今田さんの身長と体重、・・・どれくらいか分かります?」

「おれよりちょっと大きめだから百七十近くあったかも。体重は、あんま太ってなかったから七十キロはなかったんじゃないかな」と言いながら男がコーヒーカップの底を覗き込んだ。男のコーヒーがなくなっていた。男はカップの底の残滓を音を立てて吸い出している。

土岐はこわばった茶のビニールシートから腰を上げた。礼の会釈をして伝票をわしづかむとレジに向かった。九段下あたりのコーヒーの半額ほどだった。会計を済ませながら店員に千寿南クリニックの所在を尋ねた。要を得ない。駅の近くとしかわからない。

五時を回っていた。男と別れて、喫茶店を出てから駅に向かった。三分ほど歩いた。南千住駅前で千寿南クリニックを探した。駅前の電信柱に看板があった。看板の案内に従って、千住大橋方向に少し歩くと、すすけた工場の高いコンクリート塀の間に、その医院はあった。クリーム色のモルタル三階建てで、玄関が民家のドアのようになっていた。内部が見えない。診療時間の看板がなければ医院と気づかない。診療科目は内科、循環器科、呼吸器科、リウマチ科で、診療時間は木曜日を除く平日の午前十時から午後一時と午後三時から午後六時までと土曜日の午前十時から午後一時までとなっている。院長は梨本和正とある。

土岐はドアを押して中をのぞいた。玄関ドアの奥にもう一つドア。右手にかろうじてすれ違えそうな階段があった。ちょうど、頑健そうな中年の男が二階から降りてきた。土岐を怪訝そうな目で一瞥すると、奥のドアを引いて中に入っていった。その後ろを眉間に深いしわのある老看護婦が続く。老女にしては大柄だ。一坪ほどの狭い空間ですれ違った。

奥のドアの中は受付と待合室。病人らしくない風体のよくない男が五人、二本の長椅子に腰かけて壁に掛けられた液晶テレビを見上げていた。音声がない。受付カウンターの向こう側には女が二人。お互いに相手の体形を際立たせていた。一人は若い医療事務員で、白衣を着て、パソコンから領収証を打ち出していた。顔の大きな女だ。小太りに見える。もう一人は書類のようなものを整理している。大柄で顔の小さな女だ。痩身に見える。じっくり見ると童顔だ。その女事務員が老看護婦の後ろから待合室を覗き込んでいる土岐に気付いた。

「・・・すいません。診療の受付は五時までなんですが、・・・」

「そうですか。そとの看板では診療時間は午後6時までとなってたんで」と言いながら土岐は外に出た。それから駅前の鄙びた喫茶店小塚原にはいり、観音開きの木枠の窓から、千寿南クリニックの前の通りが見渡せる席に座った。とりあえず、ホットコーヒーを注文し、ちびちび飲むことにした。すぐに出てきた伝票の金額に、釣りのないように小銭を用意した。

窓の外の人通りはまばらだった。駅前の通りとは思えない。やがて、先刻待合室の長椅子に座っていた労務者風の男たちが、一人二人と三々五々通りに出てきた。駅の方向ではなく泪橋のほうに向かって歩いて行った。最後の五人目の男が出てから、しばらくして六時になった。二階の窓から明かりが消え、三階に明かりがぼんやりともった。さらに十分ほどして若い大柄な女事務員が淡いブルーのデニムジャケットで出てきた。医療関係者には見えない。どこにでもいるような普通のOL風だ。土岐は喫茶店小塚原のレジに代金を置き、そのまま駅前に向かった。女は定期券を自動改札にかざしているところだった。土岐はスイカを手にして女を追った。女は常磐線のプラットフォームに上って行った。ちょうど三河島方向から電車が入ってきた。電車の重い騒音が階段に響く。女は小走りに階段を駆け上がる。土岐は一段おきに駆け上る。到着とともにドアが開き、女が乗り込む。降車する乗客はほとんどいない。車内はすでに満員だ。土岐は女の真後ろから体を密着させて電車に飛び乗った。女の背中の曲線が土岐の胸に吸い付く。女の髪が土岐の鼻先をかすめる。百六十五センチぐらいありそうだ。土岐は体をそらせて隙間を作った。

「千寿南クリニックの方ですよね」と言う土岐の言葉に、女の頭が鋭く反応した。振り向こうとする。肩越しに土岐を見ようとするが、首も体も十分に回らない。

「・・・どなたですか?」と聞くのがやっとだ。

「先ほど、受付を断られた者です」

「・・・ああ」と言ったなり、女は沈黙する。

「どちらまでですか」と土岐は丁重な声音で聞く。

「・・・柏です」

「申し訳ないですが、次の北千住で、5分ばかり、お話を聞けないしょうか?」

 女は答えない。周囲の通勤客が土岐との会話に耳をそばだてていることを意識している。北千住についた。東武線と千代田線乗り換えの乗客の圧力で二人ともホームに押し出された。

「よろしいしょうか?」と土岐は上目遣いに頭を下げる。

数人の通勤客が迷惑そうに二人を一瞥して乗換ホームに小走りに歩いてゆく。

「・・・どういうことですか?」と女が言い終えないうちにドアが閉まった。

「こんなとこじゃなんですから、駅ナカの店で座ってお話しできませんか?」と言う土岐の顔と遠ざかってゆく電車を女は幾度も見比べる。そのたびに土岐は頭を下げ、女のパンプスの足元に目を落とす。女は応諾をはっきりさせない。

「とりあえず、駅ナカへ」と土岐は女の瞳を凝視する。女は右肩をすくめる。それを合図に右目の隅で女を確認しながら土岐は駅ナカの喫茶店へ向かった。

「突然すいません。僕、土岐明といいます。法律事務所の手伝いをしてます」

 女は細い指で挟んだ名刺をじっと見つめている。

「千寿南クリニックに今田というひとが出はいりしてたと思うんですが・・・」

「一月に亡くなった方?」と顔を上げながら聞く女の瞳が不安げに小刻みに揺れている。

「その犯人として真田という男が裁判にかけられてるんですが彼は無実です。2人の接点がよくわからないんですが今田さんは千寿南クリニックで、どういうことをしてたんですか?」

「・・・治験に、参加していた、・・・と思います」

「それだけ、・・・ですか?」

「・・・近くに住む人にいろいろな治験の紹介をしてくれていたと思います」

「どういう経緯で、今田さんが治験に参加するようになったんですか?」

「あのあたりは工場が多くて地元住民があまり多くないんです。老人や生活保護の人は多いんですが健康保険証を持っていない人も多くて、それであのクリニックはクランケが少なくって、院長先生が治験の指定病院に参加することになったんです。ネットで治験ボランティアを募るんですが、都心から少し距離があって集まりがあまりよくなくって。そんな時、今田さんがたくさんボランティアを紹介してくれて、去年一年間は、とても忙しかったんです」

「治験参加者をなんでボランティアと言うんですか?お金を払ってるんですよね」

「売血と同じで治験を生活の糧にされると困るんで。治験に参加すると負担軽減費で現金をお渡しするんですが、お小遣い程度の金額なんでそれで生活することはできないと思います」

「でも、・・・今田さんは相当収入があったようですが、・・・」

「・・・たぶん、ボランティアの紹介料じゃないでしょうか」

「1人いくらぐらいですか?」

「・・・数千円だと思います」

「今田さんは何人位紹介したんですか?」

「・・・一年で、累計五十人程度だと思います」

「すると合計で、年間10万か20万程度ということですか?」

「・・・その程度だと思います」

「今田さん自身はボランティアとして年間どれくらい軽減費を受け取っていたんですか?」

「・・・多くてせいぜい、五万円から十万円程度だと思います」

「でも今田さんは、去年は日雇をしてなかったみたいで。それでも普通のアパートに入居できるだけの金額を貯めたらしいですよ」と土岐が言い終えないうちに女は立ち上がった。

「・・・すいません。家族が心配するので、・・・」と言ったなり店を出ていった。口をつけていないコーヒーが二つ残った。土岐は無理してコーヒーを二杯飲みほし、帰宅した。

日暮里経由で蒲田に帰宅してすぐ、千寿南クリニックの梨本和正を検索してみた。最初に出てきたのは千寿南クリニックのホームページだ。そのつぎに宝徳大学付属病院の内科診療担当が出てきた。梨本は木曜日の午前中の担当になっていた。ついでに梨本の履歴を見ると、宝徳大学医学部卒とある。宝徳大学付属病院の電話番号をスマートフォンに登録した。

翌朝、宝徳大学附属病院に電話した。一月十七日に梨本医師が出勤したかどうかを確認するのが目的だった。さんざん、たらいまわしにされたが、最終的に梨本の出勤を確認できた。それから自宅近所のクリニックに向かった。九時ちょうどに駅前商店街裏のクリニックの自動扉を抜けると、待合室に老婆がひとり、ぽつんと座っていた。五分も待つと、診察室に名前を呼ばれた。三畳もないような狭い診察室に入ると、旧知の開業医が待っていた。

「つかぬこと伺いますが、こちらのクリニックでも治験やってます?」

「・・・たまに、頼まれてやっていますが、それが何か?」

「知人に治験ボランティアで生活しているような人がいるんですが、それって可能ですか?」

 医者はどんぐり眼をさらに丸くする。なぜそういう質問をするのか理解しかねている。

「短期的にはできないこともないかもしれないけれど、ずっと、というのは無理でしょう」

「短期というと・・・どのくらい?」

「入院治験というのがあって、半月入院で十五万円ぐらいでるから生活できるでしょう」

「じゃ、それ繰り返せば、ずっと、それだけで生活してゆけるんじゃないんですか?」

「いや。治験の規約では治験が終わった後、一定期間、ほかの治験には参加できない」

「一定期間というのは、どれくらい?」

「・・・まあ、ものにもよるけど、・・・三、四か月、・・・」

「でも、色んな病院で色んな治験をやってるようだから渡り歩けばいいんでしょ」

「それは投薬の効果が特定できないから禁止されている。複数治験をやっちゃうと薬の飲み合わせが悪い場合、著しい健康被害の生ずることがある。最悪、死に至ることだってある」

「じゃあ、治験で生活するのは不可能ってことですか?」

「ルールを犯せば、できないことはないけど、ルールを守らないことは想定されていない。

掛け持ちでやっているボランティアもいるようだけど。でも、時々名寄せをしているから、ばれたらその治験ボランティアはブラックリストに載って、それまでだ。治験に参加できなくなる。それに治験ボランティアは保険証持参が条件だから重複治験や連続治験をやるとなると、ばれないためには治験者の名義をすりかえなければならない。そのとき初診・再診料、医学管理等、投薬の名目で保険請求するから、不正請求をしていることになる。言っておくけれど、あんたは肝臓の数値が悪いから、治験ボランティアにはなれないよ。・・・今日は受診じゃないの?」という医者の声が土岐の背中に投げかけられた。

 その足で土岐は、京浜東北線で御徒町のスポーツ用品店パープルに向かった。アメヤ横丁脇の四階建ての真黄色のビルだった。御徒町駅から三分ほどの距離だ。一階にいた茶髪の男子店員にポスシステムを管理している部署を聞いた。

 四人も入れば満員になりそうなエレベータで四階で降りた。降りたところに腰高の受付カウンターがあり、そこから二十坪ほどの薄暗いフロア全体が見渡せる。五、六人の社員が見える。のんびりしている。散発的にキーボードを叩く音がする。

「すいませーん」と土岐が高いキーで言うと受付カウンターの奥の机にいた女子事務員が立ち上がった。土岐はポケットから名刺を出した。女子事務員は名刺を見ながら、土岐を受付脇の応接セットに誘導した。一メートル半ほどのクリーム色のパーティションに囲まれている。しばらくして、浅黒い顔のずんぐりむっくりした男が現れた。手に土岐の名刺を持っている。男が自分の名刺をさしだす。土岐の名刺をテーブルに置いてソファに腰かけた。

「ご存じだと思いますが、3か月ほどまえ、殺人事件がありまして、その凶器をたしか、被疑者がこちらで購入したらしいんですが、・・・」という土岐の問いには答えない。

「・・・お名刺を見る限りでは、警察の方ではないんですね」

「すいません。僕はフリーランスで、被疑者の弁護をしてる弁護士に調査を依頼されまして」

「ここにも刑事さんが来られました。で、どういうことを調査されたいんですか?」

「被疑者、いや正確にいうと今は被告なんですが、一月十六日にこの店でボウガン、いや、クロスボウを購入してるんですが、クロスボウを販売したというデータはないでしょうか?」

「そのことを刑事さんに聞かれた記憶はないですね。ちょっと調べてみましょう」

 土岐は名刺をながめた。見達勉とある。見達は国防色の金縁のバインダーを持って現れた。

「・・・ここ一年は、・・・一月十六日以外には売れていないですね」

「それ以前は売れてないんですか?」

「・・・すいません。御覧の通り、この事務所は手狭なもので、会計年度が終わると、倉庫に書類はしまっちゃうんです。データベースはハードディスクに残してありますが、・・・」

「それじゃ、被告が購入したジャージーと野球帽はどうですか?」

「・・・どこのメーカーのものですか?」

「ジャージーはピューマのグレーのもので、野球帽は濃紺でヤンキースのロゴがあります」

「・・・それは毎日のように、よく売れています。いつ頃のデータがご入り用ですか?」

「それじゃ、スポーツマスクはどうですか?」

「スポーツマスクは花粉が出始めたんで最近よく売れていますが一月ごろは多分それほど売れていないと思います。九州あたりではPM2・5と黄砂の関係でよく売れているそうです。それでお知りになりたいのはマスク本体の方ですか、それともフィルターの方ですか?」

「本体とフィルターと別売りなんですか。ドラッグストアにあるようなのとは違うんで?」

「サンプルをお見せしましょう」と女事務員にスポーツマスクを持ってくるように命じた。

「スポーツサングラスも普通のサングラスとは違うんですか?」と土岐は素人っぽく聞く。

「運動するのが前提ですから、ずれない、はずれない、軽いというのが商品特性です」

そこに女子事務員がスポーツマスクを持ってきた。見達が手に取って説明する。

「・・・こちらがマスク本体で、この内側にフィルターを装着して使用します」

 土岐が想像していたものよりはるかに大きなものだった。顔の半分ほどを覆うサイズだ。

「ずいぶん、・・・大きなもんですね」

「・・・まあ、運動するわけですから風邪のマスクのようにぴったりしていると呼吸が苦しくなります。この白いフィルターが微粒子を吸着して汚れたら取り替えます」

「カラーは、この黒だけなんですか?」

「中のフィルターは白ですが本体は交換しないので、汚れが目立たないように黒が基本です」

「ところで、御社のポスシステムでは、購入者の特徴もデータ化されてます?」

「わが社はコンビニと違って、購入者の特徴はレジでインプットしていません」

「最後におうかがいしますが、クロスボウの殺傷能力はどの程度なんですか?」

「人間となると、心臓にでも当たらないと死なないんじゃないでしょうか」

「人間の背中から心臓を射貫いて、貫通することはないですか?」

「さあ、どうでしょう。よほど至近距離から狙えば、貫通することもあるかもしれませんが」

 そこまで聞いて、土岐は席を立った。見達は、テイクだけでギブはないのか、というような顔つきで土岐を見送った。土岐は詫びのしるしに深々と頭を下げた。

 JR御徒町駅のガードをくぐり、昭和通りに出た。日比谷線で仲御徒町から再び南千住に向かった。十一時過ぎに南千住駅についた。千寿南クリニックに向かうと、入り口前にシルバーメタリックのライトバンが止まっていた。ボディに、大竹メディカル(株)とペインティングされている。その下に一回り小さいフォントで、医療用機器専門商社と書かれている。

土岐は昨日入った駅前の喫茶店小塚原で、観音開きの窓越しに窺うことにした。アメリカンを注文し、伝票の金額を小銭で用意し、いつでも飛び出せる準備をした。なめるようにコーヒーを飲んでいると、電話がかかってきた。液晶画面を見る。知らない電話番号だ。

「・・・都バスを運転している者ですが交通局の方からこちらの番号にかけるようにと」

「・・・運転手さんですか。いま、どちらですか?」

「・・・今日は非番なんで、自宅です」

「ご自宅は、・・・どちらですか?」

「・・・田端です」

「休みのとこ申し訳ないんですが、ちょっと、お話を伺えないでしょうか?」

「・・・どんな話ですか?」

「すいません。ちょっと込み入った話なんで、できれば、お会いしたいんですが」

「・・・それじゃ、田端駅前の喫茶店でどうですか」

「ありがとうございます。何時ごろうかがえばよろしいですか?」

「・・・そうですね、・・・二時ごろで・・・」

「わかりました。で、喫茶店の名前は?」

「・・・ナカヤマといいます」

「僕は土岐といいますが、そちらは?」

「・・・土橋といいます」

「ドバシさんですね。では2時に田端のナカヤマで」と言いながら電話番号を登録した。

 十一時半ごろ、千寿南クリニックの玄関から三十前後の薄いブルーのビジネススーツの男が出てきた。七三に分けた頭髪が外光に艶めいている。土岐はレジに代金を置いて、喫茶店を飛び出した。男はライトバンのエンジンをかけたところだった。土岐は駆けつけて頭を下げながら窓をノックした。男はパワーウインドーを半分下げて、怪訝そうに土岐を見上げる。

「千寿南クリニックのことで、ちょっとよろしいでしょうか?」と土岐は名刺を差し出した。

「・・・どんなことですか?」と男は受け取った名刺に目を落とす。

「ちょっと、込み入ってるんで・・・」

「・・・と、言われても・・・」と言いながら土岐の名刺を背広の胸ポケットに入れる。

「その辺のファミレスで、ランチでもとりながら、いかがですか?」

「・・・じゃあ」と言うのを聞いて、いきなり土岐は強引に後部座席に滑り込んだ。

 男は素盞雄神社角の天王前交番を右手に日光街道を入谷方向に左折し、下谷警察向かい近くのファミリーレストランの駐車場にシルバーメタリックのBMWのライトバンを駐車させた。男が先に出る。土岐が出るのを見てからリモートコントロールでロックをかけて歩く。

駐車場の上に店舗がある。満席に近い。厨房に近い黄土色のボックス座席が空いていた。二人で腰を下ろすとおさげ髪のウエイトレスがメニューを持ってきた。ネームカードでベトナム人と分かる。男はメニューを見ながら紙おしぼりで手を拭く。土岐はウエイトレスに日替わりランチを注文した。男はハンバーグステーキを注文した。土岐は本題を話し出した。

「治験ボランティアをやってた今田という人が、この1月に殺害されたのはご存知ですよね」

 男は自分の名刺を名刺入れから取り出した。佐藤博という名前だ。

「・・・ええ。・・・しばらくしてから、誰かから聞きました」

「千寿南クリニックは、どうして治験の仕事してるんですか?」

「かなり実入りがいいんですよ。ただ、安定してあるというものでもないので、治験の仕事があるときに、いかに多く消化するかで、収入が多くなったり、少なくなったりするんです」

「千寿南クリニックの経営状態はご存知ですか?」という土岐の問いに佐藤は戸惑いを見せる。そこに、日替わりランチが運ばれてきた。佐藤は言葉を選びながらゆっくり話し出した。

「あのクリニックの院長先生は母子家庭の一人っ子で、私立の医学部に入るとき、看護師だったお母さんがだいぶ借金して、在学中も貸与奨学金を受けていて、あのクリニックの建物を購入する時も大分、信用金庫から借り入れをしたみたいで、弊社からの高額の医療機器もローンを返済しているところです。借金を抱えている病院は珍しくないけれど、あの院長も億単位の借金があるんじゃないですかね。お母さんも看護師として働いているような状態で」

土岐は昨日千寿南クリニックの一階を覗いたときに見かけた大柄な老女を思い出した。

「・・・院長先生も、木曜日の定休日にはよその病院で一日中、非常勤で働いています」

「殺害された今田という人は、規約以上に治験に参加してたという可能性ありませんか?」

「難しいでしょう。できないこともないかもしれませんが依頼している製薬会社にばれたら訴訟ものじゃないですか。製薬会社は厚労省の認可がほしいから目をつぶるとは思いますが」

「治験で規約違反があれば治験のやり直しで、認可が遅くなるということですか?」

「一応建前として個人情報は伏せるということになっているので病院側が意図的に操作すれば、できないことはないと思うけど、ばれたときのことを考えるとペイしないでしょうね」

「かりに、そういうことがあったとすれば千寿南クリニックの女性は、知ってるでしょうね」

「・・・院長先生のお母さんのことですか?」

「いえ、若くてきれいな人がいますよね」

「・・・平尾さんですか?」と言う佐藤の声が少し上ずっていた。

「あんな美人がなんで、あんな病院の受付やってるんですかね?」

「・・・彼女は受付もやっていますが、・・・本業はCRCなんです」

「CRC?ってなんですか?」

「・・・クリニカル・リサーチ・コーディネータ、いわゆる治験コーディネーターです」

「どういう仕事なんですか?」

「・・・被験者に治験の目的を説明したり、負担軽減費を支給したり、治験結果をまとめたり、医師や看護師と治験の打ち合わせをしたり、・・・」

「ということは殺害された今田とかなり、濃密な接触があったということですね」

「・・・まさか、彼女は院長先生を慕っているんですよ」と声を潜める。

「院長先生のほうは?」

「・・・さあ」と言いながら佐藤は土岐の質問の意図を目で探ろうとする。

「院長先生は独身なんですか?」

「・・・そうです」と言う佐藤の声に張りがある。土岐は話に詰まった。そこで佐藤の携帯電話が鳴った。呼び出されたようだ。佐藤はかき込むようにして、ハンバーグステーキを平らげると、ランチについてくるデザートを注文しないで、先にファミレスを出ていった。

土岐はJRの鶯谷駅まで歩くことにした。鬼子母神の前を通って、JRの鶯谷駅に着いたのは一時過ぎだった。山の手線で田端についたのは一時半ごろだった。駅員に喫茶店ヤマナカの所在を聞くと知らないという。

「ナカヤマという喫茶店なら陸橋を渡り右方向に坂を下り、横断歩道を渡ったところ」と言う。言われたとおりに歩いてゆくと、埃っぽい外装の安普請の喫茶店ナカヤマがあった。二時までまだ二十分近くある。入り口から一番近い席に座ると宇多に電話をかけた。三時過ぎに九段の事務所で会えないかという要請に、自宅で休んでいた宇多は不承不承で承諾した。つぎに、土橋に電話した。五分ほどで土橋が現れた。四角い顔の小柄な男だった。土岐と一瞬、目線が合った。土岐は名刺を差し出した。

「土岐明調査事務所。どんな調査をされているんで?」と土橋は名刺に目を落としている。

「なんでも。ある法律事務所と嘱託契約結んでまして、今日伺ったのはその関係の調査で」

「・・・どういうことですか?」

「1月17日、殺人事件がありまして。その被疑者が9時21分発の都バスに上野公園から隅田公園まで乗車したとアリバイを主張してるんです。ピューマのグレーの上下のジャージーを着て、濃紺のニューヨークヤンキースの野球帽かぶり、白いマスクをかけ、肩から緑色の袋を下げてたんですが、見覚えありませんか?」

「・・・それなら、刑事さんに同じことを尋ねられました」

「どう答えたんですか?」

「・・・『始発に乗っていたような気がする』、と答えました」

「それ聞いて刑事はなんか言いました?」

「・・・『気がするというのは確かじゃない、ということだろう』、と言われました」

「それで、なんと答えたんですか」

「・・・『そうです』、と答えました。・・・それから、『スポーツセンターを利用する人間は隅田公園で降りるじゃないか。そういう人間はジャージーを着ていたり、野球帽をかぶっていたり、運動用具を持っていたりしていることが多いんじゃないか』とも言っていました」

「それには、どう答えたんですか」

「・・・『そうです』と答えました」と言う土橋から目線を逸らして土岐は軽く舌打ちした。

「都バスの防犯カメラの画像は、チェックしなかったんですか?」

「右のミラーの上と左のミラーの上とフロントガラスの下にカメラがあるんですが、これは事故を記録するのが目的で、あと車内の料金箱を撮影するために乗車口の真上にあります。このカメラの画像をチェックしたんですが、上書きされていて、確認はできませんでした」

「その後、警察から問い合わせありました?」

「・・・いいえ。ないです」

「さっきの、『見たような気がする』とゆう理由はなんですか?」

「始発の場合、前後の交通や時間に気を配る必要がないので、乗客に神経がゆきます。ほとんどはボーッとしていることが多いんですが、他のバス停よりは乗車客に注意が向きます。始発以外のバス停では早く右折のウインカーを出したいので、後方の交通に注意が行きます」

「隅田公園のバス停は、どうでした?」

「・・・どうといいますと?」

「ピューマのグレーの上下のジャージーを着て、濃紺のニューヨークヤンキースの野球帽をかぶり、白いマスクをかけ、肩から緑色の袋を下げてた男に記憶はありませんか?」

「降車口はバスの中央なんで、ドアをしめなければならないんで、おり切ったかどうかの確認はしますが、それに最近インバウンドの乗客が、浅草から乗車してスカイツリーまで利用するのが増えて、降車口あたりが見づらくなっています。昔は、利用客が少なくて、隅田公園で降りる客がラケットを持っていると、テニスでもするんだな、と気付いたもんですが」

「男に気付かなかった、ということですか?」

「その時であれ、最近であれ、突飛な格好でもしていれば別ですが、全く記憶にないですね」と土橋は目をテーブルの上に落としたまま言う。それだけを聞くと土岐は九段に向かった。


田端で山の手線に乗り、秋葉原で総武線に乗り換え、市ヶ谷で降りて靖国神社向かいの宇多法律事務所に行った。あいていない。土岐はそこから宇多に電話した。

「すまん。あと五分で着く」と道路の騒音まじりに宇多が言う。

土岐は階段に腰かけてスマホに土橋の証言をメモした。そこにポロシャツの宇多が現れた。

 応接室の黒革のソファに先に腰を下ろすと土岐は話し出した。

「とりあえず、月5万の嘱託の手当て分の調査は、今日で終わりにしたいんで、・・・」

「・・・仕方ないか。それで目星はついたの?」

「とりあえず、僕の仮説を言います。まず発端は母子家庭にそこそこ優秀な息子がいたこと。この息子が医学部を志望した。しかし、授業料の安い国公立は合格せず、授業料の高い私立大学に入学した。このとき多額の寄付金と入学金と授業料を借金した。貸与奨学金を受けたんで卒業時に億に近い借金ができた。さらに国家試験に合格し、医師免許取得後、クリニックの土地と建物、高額医療機器を購入したんで、借金はさらに膨れ上がった。クリニックの立地が悪かったんで、診療報酬だけじゃ借金返済が苦しくなって、大々的に治験を請け負うようになった。治験ボランティアの中に今田がいた。今田は泪橋近辺の木賃宿の住民を積極的に紹介し、千寿南クリニックの収益に貢献した。治験ボランティアは一つの治験が終了すると一定期間、他の治験に参加できない。また同時期に重複して治験に参加することもできない。しかし、治験ボランティアが不足したとき、院長の梨本は重複参加や連続参加を隠蔽し、複数の異なる治験ボランティアがいるかのような偽装を行った。同時に保険の不正請求も行った。今田は最初は何も知らずに重複治験や連続治験に参加してたが、ほかの病院の治験に参加して、それが不正であることを知るようになった。今田は治験コーディネーターの平尾に偽装治験を知ってることをほのめかした。平尾はそのことを院長の梨本に告げた。次第に梨本は今田の存在を恐れるようになった。今田はより多くの重複治験や連続治験を要求するようになった。治験関係の不正や保険請求の不正が露見すれば、最悪、医師免許の剥奪も考えられる。重複治験で飲み合わせの悪い錠剤を飲めば、著しい健康被害をもたらす恐れがあるからだ。実際、今田の健康状態は悪化し、顔色も悪くなった。健康状態が極端に悪い者は治験不適格になる。梨本は治験ボランティアをネットで募集したのと同じ手口で、今田殺害の容疑者として逮捕されるアルバイトを募集した。表向きはクロスボウの試し打ちのアルバイトで、アルバイト代は3万円とした。1万円では多数の応募者を集められない。3万円より高額だと、怪しまれる。募集のアンケートには、身長と体重、同居人、職業、喫煙歴などを記入させ、体重70から80キロ、身長170センチ前後、独身、正業のない者、喫煙している者という条件の合致している真田をピックアップした」

 そこで宇多が割り込んできた。

「・・・そのアンケートの条件に、どういう意味があるんだ?」

「身長と体重は、犯行日に監視カメラに映る別の男とほぼ一致していなければならない。独身者で一人住まいであれば、事前にアルバイト情報が漏れる可能性が少ない。職業は、職種にもよるが、社会的にある程度の地位があると捜査が念入りに行われる可能性がある。社会的な注目度も高くなる。正業のないことが望ましい。フリーターは最適だ。フリーターが逮捕されれば、世論は冤罪とは思わず、自業自得ととらえる。最後に喫煙歴だが、監視カメラの前で自然に静止し、画像を鮮明にさせ、うつむいて顔が映らないことが不自然でないためには、たばこに火をつけさせるのがベストだ。ご丁寧に7か所の監視カメラの前で同じ画像を記録させた。画像には時間まで記録されているから完璧な証拠になる」

「すると問題は真田に買わせたスポーツ用品だな」と宇多は眠そうな目で土岐に声をかける。

「犯人はヤンキースの野球帽、ピューマのジャージー、クロスボウを収納する袋、スポーツマスク、スポーツサングラスは同じものを事前に用意し、スポーツ用品店の販売員とネット喫茶好奇の従業員を目撃者にし、監視カメラの画像と同一人物にする必要があった」

「・・・待てよ。画像ではスポーツサングラスはかけているようにはみえないぞ」

「その通り。・・・あんたからもらった資料に、カネが足らなくて、スポーツサングラスとスポーツマスクは買えなかったと書いてあった」

「・・・いや、マスクは映っているじゃないか」

「映っているのは、普通の風邪用の白いマスク。スポーツマスクは黒くて、大きい」

「・・・それはおかしい」と宇多は首を傾ける。

「・・・犯人は真田に、アルバイト当選のメールでスポーツサングラスとスポーツマスクを着用するようにと要請しているんだろう?」

「犯人はアンケートで、クロスボウの試し打ち会場までの交通アクセスを書かせている。要請通りの格好をしてるかどうか、出発地点で確認するためだ。だから犯人は9時前からネット喫茶好奇の出入り口を見張ってた。そこで真田がスポーツサングラスとスポーツマスクをかけてないことに気付いた。かけてたマスクは普通の風邪用の白いマスクだ。スポーツサングラスは外せばいいが、風邪用のマスクは、上野駅前のドラッグストアで買う必要があった。上野の地下街でとられた監視カメラの映像が9時半なのは、マスクを買う時間がかかったからだ。普通に歩けば、ネット喫茶好奇から上野の地下街までせいぜい10分以内だ」

「なら、二十分かけてマスクを買ったということか。・・・それはすこしかかりすぎだろう」

「真田が乗車するバスは9時21分発だった。ネット喫茶からバス停まで5分もあれば十分だ。真田は9時ちょうどではなく、9時10分ごろネット喫茶を出た」

「・・・俺が見た証拠の画像では、どれも男は監視カメラのほうに体を向けてタバコに火をつけていた」

「そう。あの画像は男が通りすがりに記録されたんじゃなく、男が監視カメラに自分を記録させたんだ。しかも、真田とみせかけて、・・・」

「・・・とするとその男は誰だ。院長の梨本か」

「いや。いまのところ、電話で聞いただけだけど、梨本のアリバイは取れてる。1月17日の木曜は、梨本は母校の宝徳大学付属病院で非常勤の診療をしてる」

「・・・じゃ、・・・誰だ」

「今田だ」

 宇多が少し腰を浮かせた。

「・・・なに!じゃあ、今田は自分が殺されるために真田を偽装していたのか。でも、背丈は真田と今田は同じぐらいだが、今田は細身で、真田は小太りだ。証拠の画像だと、どう見ても小太りに見える。それに今田は細面で、真田は丸顔だ」

「今田は遺体発見当時の黒のフード付きスウェットと茶のコールテンのズボンをピューマ製のジャージーの下に着てた。ようするに着膨れしてた。それにタバコを吸うときにマスクを顎にずらせば丸顔に見える。少なくともあごの線は隠れるから細面かどうかはわからない」

「・・・ちょっと待て。・・・一番鮮明な画像を見せろ」と宇多が言う。土岐はクリアファイルから、その画像を取り出した。宇多がカラーコピーの上下を反転させる。

「・・・よく見てみろ。この画像の首筋の黒い小さな塊は、・・・そうすると、今田が着ていた黒いパーカーのフードの一部ということか?」

「画素が少ないんで、真田の長髪の塊のようにも見えるが、首の下のほうから盛り上がってるんで、フードと見たほうが自然だ」と言う土岐の指摘に宇多は腕組みをして考え込んだ。

「続けてもいいですか」と土岐は宇多の顔を覗き込んだ。宇多は無言のままうなずいた。

「今田は上野地下街を含めて7か所で同じ姿勢で防犯カメラに自分の姿を証拠撮りさせた。警察はこのトリックに簡単に引っかかった。警察のほうも、これ幸いとひっかかってやった。一人ぐらい変だと思った刑事がいてもおかしくない。しかし、被害者も加害者も社会の底辺をさすらう人間だ。社会の注目度も低い。せっかく証拠がそろってるのに、それをひっくり返して真実を暴き出したところで、警察の手柄にゃならん」

「しかし今田がスポーツセンターに行くのが目的であれば、バスでもよかったはずだ」

「いや、殺害現場を隅田公園のスポーツセンターに決めたため、真田のボウガンの試し打ちは隅田公園のバス停近くのペンシルビルとせざるを得なかった。事前アンケートで真田が、ネット喫茶から現場までの移動ルートをバスと書き込んだため、今田の移動は地下鉄にせざるを得なかった。だから今田を浅草から隅田公園まで20分も歩かせることになった。検察の説明では、〈ボウガンの試し打ちをする隅田川の適当な土手を探しながら歩いた〉としてるが、今田が歩いた江戸通りから、隅田川の土手は距離があり、とても適当な場所を探しながら歩いたという話は成立しない。少なくとも、江戸通りから隅田川の土手は見えない。今田は最初から隅田公園のスポーツセンターを目指してたとしか考えられない。だとすると、真田がアンケートで答えたバス利用が正解で、それが今田にとって唯一の合理的な移動ルートだ。最初からスポーツセンター目指すんなら、上野から地下鉄利用して、浅草から20分も歩くっちゅうのはどう考えても不合理だ。隅田公園のバス停で降りれば、5分程度でスポーツセンターにたどりつく。しかし、今田は地下鉄を利用した」

「とすると、そういう指示を出したのは梨本ということになる。しかし梨本は母校の大学付属病院に出勤していた。だとすると今田は梨本が書いた絵図通りに動いたということか?」

「そうだと思うが、梨本が書いた絵図を手にして今田が行動したとは考えられない。例えば、9時過ぎにネット喫茶を出てくる真田と同じ格好をして地下鉄に乗れ、という指示を文書に書いて今田に渡したとしても、今田は真田がスポーツサングラスとスポーツマスクを着けていないことに気づかないかもしれないし、気づいたとしてスポーツサングラスとスポーツマスクを外さないかもしれない。そうなれば、ネット喫茶の受付のバイトの目撃証言と食い違いがでてくるから監視カメラの画像が重要な証拠とはならなくなる。だから、地下鉄で移動する今田の傍らに細かい指示をする誰かがいなきゃならない」

「・・・それは、・・・梨本の母親か?」

「いや、梨本の母親は隅田公園のバス停近くの空きビルで、2階にボウガンの的をセッティングして、玄関で真田を待ってた。今田の傍らで細かい指示を出してたのは治験コーディネーターの平尾という女だ。今田が治験ボランティアをしてた時、もっとも密接に今田に治験の指示を出してたのは平尾だ。今田の採血をしたのは看護師だった梨本の母親で、今田に問診をしたのは院長の梨本だが、その傍らには常に平尾が治験コーディネーターとして付き添っていた。事件当日、真田がスポーツサングラスをせず、風邪用の白いマスクをしてるのを見た平尾は今田からスポーツサングラスとスポーツマスクを受け取り、上野駅前のドラッグストアで風邪用の白いマスクを買い、今田にそのマスクをかけさせ、最初に上野地下街の監視カメラによく映る立ち位置を指示した。だから、1月17日の9時20分ごろ、アメヤ横町のドラッグストアの防犯カメラに平尾が映ってるはずだ」

「であれば今田の画像の前後にその女が映っている?」と宇多は少し身を乗り出した。

「平尾はカメラの位置を知ってるんで、おそらく巧みにカメラの視界を避けてるかもしれない。それよりも、犯行日の前、おそらくクリニックが休診日の1週間前の木曜か日曜、カメラのレンズの位置と方向を確認してる平尾の画像が7か所の防犯カメラにあるはずだ」

「そうやって平尾という女は今田に指示をして犯行現場に誘導した。それからどうした?」

「犯行現場につくと平尾はカラメールかカラ電話を梨本の母親に送信した。真田がボウガンの試し打ちをしたモニター会場のビルからスポーツセンターのトラックまで女の足で歩いて10分程度かかる。平尾はスポーツセンターのトラックに今田を連れてゆき、ピューマのジャージーを脱がせ、それを下に敷いて今田を誘惑した。今田はそれに乗って夢中になって平尾に抱き付いた。そこに近くの空きビルで真田にボウガンの試し打ちをさせた梨本の母親が真田の指紋のついたボウガンと矢を持ってやってきた。今田は夢中で平尾に抱き付いているところを背後から梨本の母親のボウガンで正確に心臓の位置に矢を刺された。今田が背中から心臓を射抜かれたのは偶然ではなく看護師として心臓の位置を正確に知ってたからだ」

「・・・でも、なんで犯行現場がスポーツセンターのトラックなんだ」

「隣の野球場やテニスコートは昼間でも利用者がある。しかし、トッラクは学校の体育祭などで利用する程度で普段は誰もいない。予約状況はネットで簡単に調べられる。とくに平日の午前中の利用者はほとんどない。しかもいつでも自由に立ち入りできる。3メートルの塀があって外からは見えない。平尾は治験コーディネーターの立場から飲食について聞くこともあり、今田がスポーツセンター近くのトンカツ屋に時々通ってたことや自宅採尿を依頼した時、スポーツセンターのトイレを利用してたことを聞いてた。同時に今田が複数治験や連続治験を規約違反と知り始めたことも知ってた。そのことが梨本を脅迫するネタになることを今田が了解してたかどうかはわからないが、平尾は脅迫するネタになることを知ってた。平尾は梨本との結婚を望んでおり、2人の未来を今田ごときに妨害されたくなかった」

「・・・看護師の母親の当日の行動はどうだったんだ」

「母親は昨年暮れ、隅田公園のバス停近くに空きビルのあるのを探し出した。1階エレベータ脇の窓を開錠しておけば玄関が施錠されていても外から侵入できるのを確認し、平尾にそのことを伝えた。平尾は犯行前に真田にボウガンを試し打ちさせるそのビルを下見に行った。そのとき1階のエレベータ脇の窓の錠を開錠した。それを梨本の母親に伝え、母親は犯行当日、1階の窓から空きビルの内部に侵入し、2階の長細い部屋にボウガンの的を設置し、1階内部から玄関の錠を開け、玄関の外で真田の来るのを待ち受けた。偶然不動産屋が来た場合は計画は中止にするつもりだった。真田に試し打ちさせたあと日当とスポーツ用品代を支払い、玄関の錠を内からかけ、エレベータ脇の窓から外に出てクロスボウと矢を持ってスポーツセンターに向かった。事務棟から男子トイレに向かい、男子トイレからトラックに抜けると今田が平尾に覆いかぶさってた。興奮状態にあった今田は至近距離の背後でクロスボウの矢を心臓めがけて射ようとしてた母親に気づかなかった。平尾も気づかせなかった。矢は正確に今田の心臓に突き刺さった。最後に矢を押し込んで、とどめを刺した。平尾と母親はどちらかが見張り役になって隅田川の土手の草むらにクロスボウを隠した。土手の通りからは見えないが捜索すればすぐ見つかる場所だ」と土岐は話し終えて、ひと息ついた。

「弁護士は裁判で真実を明らかにする義務がある。同時に依頼人の利益を最大限弁護する義務もある。両方の義務が相反する場合は真実を明らかにする義務を優先しなければならない。その結果、依頼人の利益は損なわれることになる。しかし真実は明らかにならない限り、真実として存在しない。もし、おまえの推理が真実に近いとしたら、それを証明するために膨大な時間と莫大な費用が掛かる。それを一体誰が負担するんだ?」

「たしかに弁護士には警察の捜査権がないから真田の無実を証明するのは大変だろうけど、弁護士会照会を使えば事件当日ドラッグストアで白いマスクを買う平尾の画像は入手できる。あるいは上野地下街や浅草駅の監視カメラの画像から事件前にカメラの位置を確かめてる梨本か、その母親か、平尾か、不審な人物の画像を証拠として入手できるんじゃないですか。さらには傍証として治験で梨本が治験ボランティアの連続治験や重複治験の不正を行っていたことも明らかにする。保険診療の不正請求は簡単に調べられるでしょ」

「面倒ではあるができないことはない。問題は真田が現在置かれている状況にひどく満足していることだ。宿の心配もないし、三食の心配もない。娑婆にいるときは真田は毎日、宿と食い物の心配をしなければならなかった。野良猫のような生活をしていた。その心配が今はない。真田は今は平穏な精神状態にある。しかしカネは全くない。この事務所で自腹を切って真田の無罪を勝ち取って、放免の上、娑婆に戻したとしても、また同じ生活が待っている。かかった経費は真田に請求するが払えるとは思えない。おまえの調査事務所で雇うか?」

「ご冗談を。ただでさえ自転車操業なのに、・・・」

「おまえの仮説はまだまだ検証が必要だ。梨本とその母親、それに平尾の人間関係がまだよくわからない。殺害の動機が本当に治験の不正と保険診療の不正請求の隠ぺいだけなのか。梨本のアリバイも電話確認だけだ。真田のアリバイも、いまいちはっきりしない。防犯カメラの画像が本当に今田だったのか、まだ確証はない。しかし、今は時間もカネも足りない。どうだ。こうしないか。とりあえず、一審は検察のシナリオをひっくり返す証拠を探し出すことは見送る。証拠もないのに推測だけで裁判を引き延ばすことはできないから、成り行きで、結審を迎えることにする。おそらく有罪になるので、上告する。その間、面倒な話だが、おまえの言う弁護士会照会を使って、時間にゆとりのある時に証拠集めをする。証拠の集まり具合で、お前を通じて、真田の冤罪をマスコミにリークする。それに、二審に持ち込めれば、それなりに報酬が出る。マスコミが食いついてくれたら、ここの事務所の宣伝費として、お前に調査費を奮発する。どうだ?」と宇多は土岐の表情をうかがう。

「僕は正義の味方でもないし、殺された今田の親戚でもない。カネがなければ食ってけない、つまらん人間だ。あんたがスポンサーだから、あんたの言うとおりにするよ」と言いながら土岐はソファから立ち上がった。何ともやりきれない思いを抱えて、宇多法律事務所のビルの階段を下りていった。


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